主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

シューシのコーヒー  ~ナゴルノ・カラバフ

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コーヒーの味

 

華奢な少女を思わせる、細身のカップの中には焦げ茶色のコーヒーが湛え、その縁に微細な泡立ちをべっとりつけている。思い浮かんだのは、ミルクを飲んだ時に出来る、唇まわりの白い輪郭。

いかにもコックリとした、理想的な見た目だ。

「飲める」。求めたものが目の前に出されるという、店に入ったからにはの当然な成り行きと、この地でそのような状況にありつけたこととのギャップに、体が、心が戸惑っているのだけれど、――とりあえず。受け皿からそれを離し、チョッと、と唇にくっつけた。

…あぁ、うまい。

誇り高さをいうような香りと、苦み。だがその淵に落っこちてしまわないよう、手を差し伸べている甘さとの、そのバランスが見事だ。チョコレートにも似ているが、鞭とアメを同時に受けるようなその快感は、オトナの刺激、とでもいうモンだろうか。

良いコーヒーだ。それをちびっとちびっと口に含んでゆくごとに、背中にもわりと垂れこめていたグレーの塊がそのなりを潜めてゆき、体全体はじわじわとクリーム色に染まってゆくよう。

それは部屋の色でもある。

明るい、優しいクリーム色の空間。

縦に板模様のある、壁の白のせい。白いテーブル、白い椅子、窓に掛かる白いレースのカーテンのせいだ。

入口の向こうに立つ、真っ黒い木の枝にフサフサ生える葉が、風に揺れる度にキラキラと輝くのが見える。ここからでも目が細まってくるほどの、強烈な陽光に晒されている。だがソレ、光はこちらに入り込んでしまえば角を落とし、諸々の「白」と呼応して部屋全体を柔らかい雰囲気に落ち着かせている。

クリーム色の中で飲む、濃ゆいもの。せめぎ合うように見えて不思議と調和する、そのとり合わせの妙にまた、目を細めた。

ガランとした中でたった一人の客。コーヒーを口にする私に、おじさんが最初にかけた言葉はおそらく「うまいか」とかいう言葉だったろう。

入口を出てスグ、外壁に沿って置いてある椅子から通りを眺め、何かを――っておそらく客がやって来るのを待っていたり、通りかかった知人に挨拶したり、オ、中に一緒に入ってきたその人は客か、と思えば、少しだけ話し込んですぐに出て行く、やっぱり知り合いだったり。

…ここで、どれだけのお客がくるものなのか。ちびちびと、唇を濡らしつつその様子を見ているなか、おじさんはまた入ってきては、斜め前の席に座って背中を壁に沿わせながら、幾度かこちらに話かけてきたりした。

「日本人か。」

頭てっぺんのみがツルンとして、チョボ髭にぶっとい体格。半袖からはむっくり、もじゃもじゃの毛が覆う腕が伸び、その先にはたばこが一本、斜め上にピンと立つ。五十代、いや六十代始め…。「親分」というか、極悪組織か何かの親玉、という役がはまる。

そしてもうひとり。エプロンを纏った、細身の女性がいる。

 

紛争再燃

 

2020年9月27日。――約三十年間くすぶっていた煙。それがまた、火を噴いた。

ロシア・モスクワより南方へ約200キロ。カスピ海黒海に挟まれた、東西に走るカフカス山脈のふもとに「南コーカサスカフカス)」地方はある。そのうちの内陸国アルメニアと、その東隣でカスピ海に面するアゼルバイジャンの間で戦争が勃発。以前より争われていた、両国の境に在る未承認国家「ナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)」の帰属問題が再燃し、彼の地は戦場となった。

カラバフ(=ナゴルノ・カラバフ共和国)は、かつて「自治州」としてアゼルバイジャン領土の内にあり、人口八割から九割を超えるアルメニア人、一割から二割のアゼルバイジャン人、そしてその他にはロシア人などが居住していた。だが1980年代より、アルメニアアゼルバイジャン両国において、相手民族に対する殺傷事件が次々に起こると、アゼルバイジャン領のカラバフ自治州においても、長年、その人口比を多く占めるアルメニア人が求めていた「アルメニアへの編入」を掲げて民族間の対立が激化した。やがてソ連が崩壊し、戦争が勃発。カラバフは「ナゴルノ・カラバフ共和国」として一方的に独立を宣言し、1994年まで戦闘は続いた。ロシアの仲介により停戦となると、カラバフは戦況を有利に導いたアルメニアによって、その傘下におかれることになる。

だがこの独立国は、国際的に認められることはなかった。アルメニア本国のみがそれを承認、支援するという、外部からは「未承認国家」と称されたまま約三十年、アルメニアに寄り添うように、そこに在った。

 

2020年の紛争――双方による相手地への砲撃により、一般住民の犠牲者も多く出るなか、ロシアが何度か仲介に入り停戦協定が為されたものの、その都度破棄されて戦闘は続いた。トルコの支援を得ていたアゼルバイジャンが南部を制圧して優勢となり、ついに11月10日、アルメニアが条件を飲まざるを得ない形での停戦合意となった。民間人を含めて犠牲者は5000人を超えるという。

以降、首都・ステパナケルトを含む中部地域はカラバフの領土として残されるものの、南部と西部、そしてアゼルバイジャンと境を接する北東部と一部北部地域が、アゼルバイジャンへと引き渡されることになった。1994年まで、カラバフの地を自治州として傘下においていたアゼルバイジャンにとっては、三十年間アルメニアに占領されていたその一部を「奪還した」ということになる。

地図で確認すると、カラバフは、この紛争前よりも三分の一以下の大きさとなり、かつ陸の孤島のように、アゼルバイジャンに取り囲まれるようになることがわかる。アルメニアとは、ステパナケルトから南西へ、アゼルバイジャン自治州時代からのルート「ラチン回廊」を通過することで陸路の往来が可能。その呼吸器のように繋がれた路は、ロシア兵に警備されることとなる。

 

 私は2008年、そして2013年にカラバフを訪れていた。彼の地で出会い、親しくなった友人たちがいる。彼らはアルメニア人であり、カラバフを国として自負し、またアルメニア本国との深い繋がりを当然のように見なしていた。

友人の殆どは首都ステパナケルトに住んでおり、ここは引き続きカラバフに留まることになったが、砲撃に晒され、彼らの安否と行方が非常に気がかりだ。

そしてまた、今回アゼルバイジャンへと線が引かれた町でも、忘れがたい出会いがあった。

また行こう。また会おう――いつの日か知れないけれども、カラバフに行くならば必ず、という心積もりでいるような。

「シューシ」という町だった。

 

 

シューシを歩く in 2008

 

「廃墟の町」。

90年代の戦争によって無人となり、荒廃したその町には、アゼルバイジャンから逃れてきたアルメニア人難民が住みついたが、現在まであらゆる場所が当時の痛々しさを残したままであるという。

…って、そんな場所を旅の目的地にしていいのだろうかという違和感は、やはりあった。私はジャーナリストでもないのだ。だが、単語は右から左にスルっと通り過ぎるだけでピンとこない、というのが正直なところだったのである。「廃墟」――それでも人が住んでいる、という状況とは、果たして。廃墟はイコール「無人」ではないのか。気になった。

シューシへは、ステパナケルトから車に乗り込み、南西方向へ二十分程で辿り着いた。

日本のガイドブックにあった地図と照らし合わせ、方位磁石を頼りに辿ろうとする。まずは、散策だ。

 手書き風の地図にある「道」を概観すると、行き止まりゲームのように複雑に入り組んでいて、しかも略図風だから心もとないようではあるのだが、実際に歩いてみると、わけがワカランとなりそうながらもちゃんと方向は的を得ている。宅地跡沿いにウネウネと続く、省略されそうな小道もちゃんと描かれており、一見曖昧だが正確な描写に、よくぞ地図にできたモンだと、不安というよりも執筆者への感心を覚えた。

幅の狭い下り坂だ。石畳となっているその隙間を、苔のような雑草が這い、どこからか溢れてきた水がその上を縫ってチョロチョロ可愛げに流れてゆく。綺麗だ。濡れた緑が陽の光を受けて瞬く、その輝き。

誰か栓でも閉め忘れたせいなのか。だったら勿体ないなぁ…などと思いながら、塗れていない面を選ぶように坂を下りてゆく。――「誰か」というのは、それこそが幸せな発想であるということを、じわりじわり、靴に水が染みてゆくよう思い知らされてゆくのであるが。

 

石の壁だ。石の道。石の歴史。石の世界だった――のだけれども。

道の脇に立つ家々は、既にその役割を果たしていない。崩れたまま放置され、かつては窓であったのだろう、ポカンと口を開けたようなその穴の中はブラックホールのように真っ黒で、何ものをも守ってはいない。壁の一部が剥ぎ取られたように不自然に欠け、鉄骨がむき出しになっている家。焼け焦げた跡のこびりついたコンクリートの建物は、アパートだったのだろうか。屋根がなくなり、単なる石壁となっているかつての内部に、日の光は穏やかに降り注ぎ、ゆさゆさと背の高い雑草がのんびりと茂っている。

アルメニア人の人口数が多かったカラバフではあるが、シューシの町は先の戦争より前、住民のうち約80%をアゼルバイジャン人が占めていた。だが、戦争でアルメニア人勢力が町全体を破壊し、占領すると、生き残ったアゼルバイジャン人は難民としてアゼルバイジャンへと逃れていった――。

これは、人間によってもたらされた破壊。

その崩れた跡が、かつての存在を訴えているけれども、石壁はしかし、あかたも最初から石壁としてこの世にあったかのごとくである。静かだ――何の波もない。生活があったはずの場所を確かに歩いているというのに、もはや遺跡のように静まりかえった光景からは、ここで無数に生まれたであろう悲しみが想像できない。

映えるのは、美しい、椿に似た白い花。屋根を失った石壁のてっぺんからも小さな花が空を向き、儚げながらもその可憐さを見せつける。

緑――人が育てずとも立派に葉を茂らせた木々、ぐんぐんとエネルギーを満たしている雑草が、風と共にサワサワとそよぐ。虫の羽音が、その生命を知らせる。鳥が鳴き、その翼が空を掻く音が耳に届く。けしの赤が、ひとつの茎に寄り集って生る細かな花の黄色と、競うようにその色を緑の中で浮き上がらせている。

 ただ人間だけがもういない。その面影とは、今を生きる生命たちの前では無力でしかなかった。

 

カフェ ~魔人と、妖精

 

さて、…どうしようか。

地図は一巡した。ステパナに戻ろうか…。ちょっと座りたい気もするが、座ってくつろぐようなところもない。

うーむ。腹は減っていない。何か食べたい、などという気は全く起こらないが、――そういえば「飲みたい」。飲み物は欲しい気がする。地図によれば、食料品店があったんだっけ。この通りのはずだ。

ジュースでも買えないか。…いやジュースというよりも、ホントは、あぁ、コーヒーが飲みたい。

みつけた小さな店で、訊くと「カフェ」があるという。

カフェ。…飲食店一般の「カフェ」だろうか。――誰が飲食する? 店には生活用品諸々が並んでいるように、店のひとたちをはじめ、ここに住む人たちがちゃんといるのだから…。

言われたように歩くと、確かに人の出入りがありそうな平屋の前に来た。というのも、開かれたまんまの入口からはテーブルとイスが見える。やはり中で飲食するところのようだ。壁沿いにいくつか椅子が置いてあり、そのうち向こう側に、おじさんがひとり、座っている。

「店」であることのフダは特に無い。首を伸ばし、もう少し中をちゃんと覗いてみると、教室ひとつ分の広さの部屋にはピカピカに光る四角いテーブルと、バルコニーに並ぶような、プラ製っぽいが背もたれ付きの椅子が整然と並んでいる。壁には風景画なんて掛かっており、…なんだか「レストラン」の雰囲気だ。節約しいしい旅を続けている私には、ちょっと違うんじゃないの、という感じだが…。

 営業しているのだろうか。でも、教えてくれたってことは、やっているからだろう。

と、こちらが中を覗いたと同時に、椅子にあったおじさんがこちらを向き、腰を上げたのには気付いていた。まん前に座っているんだから、ここの人だろうと見当はつく。だが「レストラン」の人にしては、…部屋で寝っ転がって相撲中継見ているのが合う、普段着的ポロシャツ&ズボンだ。――顔が厳ついというか、ずんぐり系&チョボひげ効果で迫力はあるけれど。

こんにちは、と発する前にはもう頷いて、ここ、ここだよ、とでも言うかのよう。そして中へ、テーブルへと手を向け、促すように。

「えぇと…。すいませんカフェー、は…?」

ヨロシイ、と、より力強く頷いて「もちろん、あるよ」。

そして続くのは「腹が減ってないか?」であり、「ケバブがあるけど」。

――ケバブ。つまり串焼き、…ねぇ。滴る肉汁を前に口からヨダレを垂らす、そういう本格的な飯を今はとる気がしないから首を振り、別に言い訳しなくてもいいんだけれども「腹いっぱいだし、」とジェスチャー込みで答えた。すると、「おーい」と、おじさんは中に向かって大きな声を出す。

野太いのが響き渡るガランとしたなか、奥の角っこにある出入口から、「え?」という顔で姿を現したのは、髪を一つに括った小柄な女性。あら、とこちらに向いた目は細いが、そのまつ毛は、視力の悪いこちらでもなぜかわかるほど、長い。

細身に纏っているベージュのエプロンには、裾にヒラヒラが付いていて、なんだかメイドさんみたいだ。

奥さんかな、というつり合いの、そこそこは年配のように見えるが、そもそもの出で立ちからして可愛らしいのに加え、不思議な雰囲気もある。なんとなく、フッとその壁の中に消えてしまいそうな感じ――そう、妖精のように。

「カフェ、一人分。」

と、太い声で言われたままに、そそくさと背を翻して奥へと去ってゆく。なんか偉そうに言われてカワイソウであり、…「亭主関白」の夫婦か。

 

おつまみひとつ、添えられている。昔のキャンディーに多かった、両端がクシャッと皺を作った包みの、そのシャープな焦げ茶色は、中身をチョコだと思わせる。――ホラ。

いろんなデザインの紙に包まれたひと口チョコが、雑貨屋ではお菓子の家とばかりにバラ売りされているモンで、童心にかえってアレもコレもとつい買い込んでしまう。しかもどれも、旨い。宿の部屋でチャイを淹れ、それを口に含んでひとり、静かに甘さに酔うのは至福の時だ。ただブラブラしていた一日に過ぎなくとも、何かを成し遂げた達成感にナゼか満たされているという、頭の中は不思議な展開となっているのだが、まあとにかく癒しである。

ともあれ嬉しいチョコ付き、なのだけれどもこれは「込み」なのか。それともこれを食ったら追加料金、か。

気にはなったがしかし、…なんとなく疲れたし。気分も足元あたりでどんよりと重く、浮上しきれないものがある。まぁいいか、と手に取って開き、長方形の先っぽを齧ってみた。パリッとしたコーティングの中に、柔らかくもホロッと崩れるチョコだ。この甘く深く、に、体もホロッ…。――そしてまた、コーヒーを。

旨いなぁ…。本当に旨い。心から旨い。…旨い。

砂丘の砂のように超細挽されたコーヒー豆を、水と鍋でコツを経ながら煮立てたら、濾すことなく液体丸ごとをカップに注ぐ。日本では大概「トルココーヒー」と呼ばれているこのスタイルは、16世紀、イエメンからオスマン帝国皇帝に献上されたのが始まりだとされている。というわけでその影響があった、現在のトルコの周辺一帯でも広まっており、コーカサスでも飲まれているのだがアルメニア、そしてカラバフでは間違ってもその名称では呼ばない。そのまんま「アルメニアコーヒー」である。

カップの中で豆は沈み、その上澄みを啜るということだが、当然口の中にジャリッと入ってくるもんで、その感覚が私は好きだ。

――ここで、こんなコーヒーが飲めるなんて。空っぽになりかけていた自分の中身が、満たされてゆくのがわかる。さっき歩いている時は端切れも存在しなかった、この一変した感覚が不思議だ。

「君は、ジャーナリストか?」

外と内との出入りを繰り返していたおじさんは、その何度目かの「内」で、近い席に腰を下ろし、こちらを向いて話しかけてきた。ヒマそうだ。

「いえ、違います。旅行者、です。」

戸惑ったが、しかしそれ以外に思い浮かばないから答えたものの、答えたとたんに青くなった。

…「旅行」ってのはフツウ、「楽しむもの」。物見遊山。だがここで一体何をその対象に込めるのかと、人間性さえ問われかねない答えかもしれない。――ここに住む人にとって、侮辱にも等しい言葉では。

 だがおじさんは特に顔を曇らせることは無く(心掛けたのかもしれないが)、あ、そう、フーンと、タバコを吹かし、「中国人?」「日本人です」オぉそうか、と頷いただけで暫くはそれ以上に無く、こちらもホッとするのを誤魔化すようにカップの縁を口に含んだ。

と、「ガンザサは行ったか?」と。

「ガンザサ?」

「そう、ガンザサ。」

なんだか薬草みたいなその響き。そう聞こえたものだから、その後も「ガンザサ、ガンザサ」と私は言うようになってしまうのだが、正確には「ガンザサール修道院」であり、ステパナケルトより北西・約50キロのところに位置するヴァンク村というところにある。…ということはあんまりその時の私はよく分かっておらず、だが、その後にペラペラお喋りが続き、そして「美しいぞ」という念押しの目、表情、そして手の挙げ方からすると、「まさに見所」であることは容易に想像できた。

「いえ、まだです。」

フーン、知らんなぁ、(ガイドブックに)あったかなぁ…。流すように答えると、その厳つい顔の眉毛が、面白いぐらいに下がって皺が寄った。

「…まだっ!?」

「あ、えぇと、明日。…か、あさって、か。」

初めての京都なのに、清水に行かないなんて――そんなのに似た、異議混じった反応に、とっさにそう答えてしまった。おじさんは、おぉそうなのか、とタバコをまたそのチョボ髭の奥に引っ込めて頷き、それで収まった、と思ったら、

「今から行くか」

とくる。

「今から行こうか。わしが運転するから。ドライブだ。フリーだ。金は要らない。」

…ってなぁ……。自分を指さしハンドルを回す動作でこちらを見、その眉はニョキッと跳ねている。ソレって近いのか。これから出て、明るいうちに戻ってこられる場所なのか――という前に、である。

初めて会ったばかりの人の、それも車にホイホイ乗り込むのもヤバかろう。当然、断る。とはいえ、こういうのが典型日本人というのだろうが、きっぱりスッパリと言えない。でもとにかく行くわきゃないんだから、やんわりでも「ダメ」の方向へ持ってゆく。

「いやぁ、今日はちょっと。」

…と、途端に眉が下がった。操り人形のように、糸が上から引っ付いているみたいだ。分かりやすい。

「疲れているので。明日行ってみます。」

疲れて、のところで、そうか…と目を伏せており、また窓の外の方を見る。頭を向けるシルエットがしゅんとしており、…なんかオモロイなこのおっちゃん、と、またひと口。コーヒーも残り少なくなり、深くカップを傾けると、それに気付いていたのか、おっちゃんは背中を向けたまま「チャイ、飲むか?」。

「チャイ」とは紅茶のこと。瞬間、「おごり」で?という疑問と、この、口の中の「コックリ」をスッキリ整備する為に飲んでもいいなという気持ちと、いや、余韻をもう流してしまうのはモッタイナイよ、という気持ちが交錯する。

「チャイ…」どう答えていいのか分からず、ただオウム返しにその単語を呟くと、どうやら「要る」と受信されてしまったらしい。

「おおい、チャイ。」と、奥の入口に向かってまたおじさんは吠えると、一体その向こうで奥さんはどういう風に待機しているのか、間をおかずにスグ、妖精の如くに現れて、青い瞳でダンナを見る。

「チャイをくれ。このひと、日本人だってさ。ガンザサにも行くんだって。」

――という、私に関する説明が単語の端々からうかがわれる。妖精さんは「へぇ…」と細い目をさらに薄くして、口元をやや上げた。笑みが、柔らかい。

「チャイね、」とまた引っ込んでゆくその感じ良さに、まぁ、いいか。昼メシ抜きだし。チャイ代ぐらい…という気にもなる。もう少し、のんびりしよう。

やがて妖精奥さんが再び現れ、熱いから気を付けてね、とでも言いそうな表情で持ってきてくれたチャイは、透明ガラスのティーカップ&受け皿だ。心貫く、きらめくルビー色…。

 おじさんはやはりまた、のそのそと外に出ては座り、「よっ」と通行人と言い合っている。ステパナよりもきっと、ずっと狭い世界に違いなく、見知らぬ人はいないというもんか。誰も一見して、崩れたアパートの一角に住むなどと想像つくような風でもなく、果たしてどういう暮らしぶりなのだろうか。…っておじさんは、ここが兼住居、だろうか。

 そんなことを少々思い始めながらも、あぁなんて晴れっぷりだろうかと、入り口から溢れてくる眩しい光を他人事のように眺め、チャイを啜った。――ほぅ。「方向」が違う感じ。コーヒーの為に開いていた味蕾をそっと閉じ、違う方向から風を送って落ち着かせてくれる。それが、チャイか。

 と、おじさんはまた入ってきて、今度はさっきとは逆の、斜め向かいの席に座る。む?と沈黙が居座るが、会話が無いからと気まずさはない。むしろ会話が続かないのがあたりまえ、という暗黙の了解的開き直りがこのおじさんとの間にはあるようで、平気だ。

「ガンザサ、行くか。」

――思わず吹いてしまった。…おっさん、自分が行きたいのではないか。

「明日だってば。」

と言うとホラまた、糸が緩んで眉が降りる。笑いを漏らしながらも、シュンとしたのを取りなすように「何時間か」と問うてみると、一瞬宙にキョロっと目玉を動かしてから「一時間かな」。…ホントだろうか。あんまり考えたことなかった、という感じだ。

行ってもいいかも、などと実は、チョロッと思い始めていたのである。「よみ」のなさそうな言葉と反応、そして妖精おばさんの存在もあって既に警戒心は低下しており、…というのは甘かったなぁ、実は雑貨屋もろとも皆グルグルの演技だったのだよワッハッハ、とかいう展開もなかろうと何となく判断。シンとしたなかで一緒にいても苦手だなぁ感じもなく、その挙動も可笑しみがある。

が、真に受けて…往復二時間。スムーズにいけば、の話だろう。…しかしなぁ…。実際、時間に関して、「ヒトの言うことをすっかりアテにしてたらダメ」とは、旅の中で度々学んでいることであり、そういえば宿のおばさんも、朝七時半、せめて八時には台所のカギを開けて欲しいと前の晩に要求したのに(湯を沸かしてお茶を飲みたい)、「もちろんよ、まかしとけ」と言うだけ言って、実際開いたのは十時近かったりした。

一番危惧するのは、ソコに行って戻って来て、その後ここからステパナに帰る、という時だ。ここで、暗い時間帯は避けたい。住民には申し訳ないが正直、勇気が無い。遠出するならばやはり朝がいい。

躊躇の顔を宙に置いたまま、どうしたものか泳いでいると、今度はこうきた。――「シューシをドライブしよう」。

指先を下に向け、円を描くように何度かぐるぐると動かす。シューシを、グルグルと…

「それなら十分か二十分だ。」

「……。」

シューシ、…って今しがた歩いてきた、あの廃墟か。さっきの光景と、目だけ少年のようなおじさんから出る、「ドライブ」という言葉が噛み合わない。車がスムーズに通れる道って、そういくらもあったろうか。座席を小刻みにジャンピングする尻を思い浮かべた。

が。地元の人と、あの中を。おじさんは、どういう顔をして普段行くのかと、気にならないこともない。

「それじゃあ…。うーん。」と頷くようなまだ迷っているような、曖昧な反応をしたけれども、「うーん」は「うん」という頷きに等しく、ほぼプラスに寄りかかっている空気をおじさんも察知したらしい。「ヨシ?」と受け取ったのを、私も頷き返すと、糸ぐーんと引っ張られ、色いっそう濃くした眉で立ち上がり、「おーい」とまた奥へ叫ぶ。と、お約束・妖精ママが現れる。…えぇと。これってアレだ。「アラジンと魔法のランプ」。いや、ここでは魔人が「呼ばれる」のではなく、「呼ぶ」方である図。

「シューシ巡りしてくるぞ」ということを、おそらく。意気込んだ様子に、妖精ママは最初だけ驚いたような顔だったが、「あら。そうなの」とクスッと微笑み、既に空になったコップを下げてゆく。いってらっしゃいな、という、母親的な顔でもある。

 でも、…「店」をほっぽらかして出て、いいのだろうか。妖精ママが、ひとりになってしまう。

そんなことはしかし特に頭にないような顔だ。確かに今は誰もいないけれど、でももし来たら――来ないのだろうか。…こなくて、生活は大丈夫か。それで暮らしてゆけるのか。…なんてこともやっぱり知ったこっちゃない、ショッピングにでもいくかのようなおじさんだ。

結局は観念したのは私、ということになる。…これって、古物市で最初は「買うわけないじゃん」の壺に、最後にはなぜか金を払ってしまっているのと同じ類なのかどうなのか。押しの弱い、いかにも典型的日本人としての結末なのではないかと思うと、なんとなく腑に落ちないものがあるけれども、まぁ、…なぁ。

…それにしても。

「シューシ」。暫く歩きながら諸々を感じ、自分なりに重く、あれこれと考えていたはずなんだが…。

「糸吊り眉の、愉快なおじさん」なんて印象で大方染まってしまいそうで、それはそれでかがなものかと思うものの。――ここにやってきてただ立ち尽くすしか術がなく、爪先さえも引っかけられない。単なる気まぐれ旅行者でしかない自分にも、ここで何らかの「とっかかり」が生まれたような、そんな気がした。

「あ、カフェ代…」

「いらん、いらん」

と、手を振っている。

                                                                               (訪問時2008年)

シューシのケバブ ~ナゴルノ・カラバフ - 主に、旅の炭水化物

 

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