「インドの朝は遅い。」
朝六時などという時間、市場でシャキシャキしたやりとりが既に軌道に乗っているタイやベトナムなどの東南アジアを旅することが殆どだった身としては、ただただそう思い、唯一賑わっているチャイ屋で時間を潰し、インドで早起きはやめよう、などと心しながら朝飯屋が稼働するのをジッと待つ。ぼちぼち、というのは、7時半ぐらいだろうか。
どこに行くべしか。――とざっと見て、多いのは揚げパン・「プーリー」屋だ。
長屋のような小さな入口の軒下に、時にはテントで延長して、鍋・コンロをセットして揚げているという姿が10数メートル間隔で在る。
赤ちゃんの握りこぶしよりやや大きい、小麦粉と水で練ったのであろう真っ白い生地玉を、めん棒或いは手のひらで薄く伸ばして、中華鍋(インドでもこう呼ぶのだろうか。要は、底が球面状の鉄鍋のこと。)になみなみ張った油で揚げる。と、ぷくーっと、アンドーナツのようにふっくら膨んだ揚げパン・「プーリー」の完成。当然アンコは入っておらず、その中は空洞であるが、ちょっと時間が立てば少々ヘナっとしぼみ、結局はナンのような平焼きパンに見える。ちなみにナンの生地は発酵しているがこの場合は無発酵であり、その代わり、と言うのは私の勝手だけどこの空洞が、なんとなくフックラした食べ易さを生んでいる。
それを千切り、豆とかジャガイモとかのカレーを、ちょろっと・鍋のつけダレ程度になすりつけたり、具をはさみ持ったりしながら食べる、というのが朝の定番のようだ。
ボリュームとしてはそうあるようには見えず、値段はもちろん庶民的うってつけ、のスナックだが、揚げているからそこそこは腹にくる。インドでは揚げ物が巷で実に多く、店に並ぶオヤツの類も、バナナ揚げとか、サツマイモ揚げとかサモサとか(カレーの具を包んで揚げた、春巻きのようなもの)各種とっても人気。インドを席巻するヒンドゥー教のカースト制度においては、万物が浄・不浄(穢れ)に分類されている概念があるが、油で「揚げる」行為とは、それがたとえ「不浄」なものでも、それをすることで「浄」へと昇華されるとみなされる。よって、揚げモンとは、「胃が重い」「カロリーありそう」などと敬遠されるどころか、外で食べるものとして、誰にでも安心できるもの、であるということではないか。
…見ているだけでなんとなく、肌質オイリーに、ほっぺがプーリーの如くプクプク膨らんだ気がしてくるもんだ。
客と思われる丸まった背中が、カウンターに向かい食んでいる姿を斜め後ろからじっと見る。
なるべく混んでいるところがいい。あそこは、ひとり。こっちは…、ぼちぼち。などと、適当に判定しながら通りを行くと、――ん?
停車している車が邪魔で見えないが、人が集っているのが分かる。建物のシャッターは閉まっているようだが…と近くまで寄ってゆくと、あぁ、「屋台」なのだ。
路上に教壇二つ分の台だけ出し、その傍らにセットした鍋の中には、わずかばかりの煙を吐く油に浮き、風船のようなプクプク生地が棒で突っつかれながら泳いでいる。突っついているのは、ガタイのいいチョボ髭のおじさん。
ほう…。
屋台という最小規模のところと、建物を構えたところとでは、同じ人数でも、屋台の方にそそられてしまう。小さいのに人一杯というギャップが引き立つためか、ともあれいいじゃない、ここにしようか、とひと目で心は踊った。
直径三十センチぐらいの中華鍋は、店にしては他のところよりも少しこぶりで、家の台所から持ってきたんだろうか。台挟んで客側には、その下回りにぐるりと耐火用の囲いがあって、鍋はまるでドラム缶の上にすっぽりとはまっているように見える。
髭おじさんは、あっちをこっちに、こっちをあっちに、ひっくり返してはまた返して、と、それは棒ではなくって、ほぼヘラのように平らな穴あきお玉で、結構几帳面に風船の面倒をみている。やや白髪交じりの髪の毛は後ろに流して清楚に決めており、服は長袖をまくり上げカッターシャツに、茶色いベストを腹に膨らみをもたせて着こなしている。こんがり色の腕には、銀色のじゃらじゃらした時計が光り、――見た感じ、スナック屋台のあるじというよりは、不動産屋のオヤジであり、悪くていかさま金貸し業かレートを誤魔化す私設両替屋ってイメージだ。まぁ好き勝手言って悪いけど、今は視線を鍋に落としているせいで、目は鋭く、髭もハクを与えて厳しそうな雰囲気を漂わせている。
店のヒトと思われる、もうひとり。オデコの輪郭まですっぽりと、優しい茶色の毛糸の帽子を被った、女性…。
グレーのショールを寒太郎のように巻き付けた、その隙間から伸びる手には、白い生地。台のトレイにある、切りっぱなしていびつなやつをひとつ手にとっては、ピンポン玉よりやや大きいかという小ぶりな玉に丸め、同じトレイの隅の方からキチッと並べてゆく。不動産屋が目の細くふっくら体形であるのに対し、細身で、ギロッとした大きな目とかぎ鼻が印象的で、くっきりした顔立ちだから、肌のシワがあんまり「皺」と感じられない。
夫婦でやっている商い、かな。
ここのプーリーは、確かに生地がピンポンだったように、これまた他のところよりもかなり小さく、草加せんべいほどのサイズだ。揚がったそれを、鍋のすぐ隣の台の上、ひとつ鍋を挟んである浅いタライの中へ移すようで、既に揚がったのが、三つ四つ寂しげに入っている。結構売れたのだろうな、…ということよりも、鍋を挟むことなく揚げているすぐその横にタライを置いた方がやり易いんじゃないか・垂れる油で鍋蓋はべとべとになってしまうだろうに…、とよけいなことが気になるが、その取っ手のない真っ平らな蓋の隙間からは「お玉」と思われる柄が飛び出ており、おそらく、プーリーとセットにする何らかのカレーが入っているのだろう。(ちなみに、インドでは、スパイスの種類の組み合わせ、バランスを変えることにより、「カレー」などとひと言で括れないバラエティ豊かな料理が存在するが、ここでは便宜上、断腸の思いで「カレー」と呼ぶことにする。)
ハンディーなプーリー。…なのに、ん?。ハンディに無い。
少年から青年からおじさんから(女性っていないな)、椅子は無いから客はその周辺に立ち食いしているんだけれども、みんな食べ方が、カップアイスみたいなのである。というのはつまり、緑色のお椀型の器から「すくって」食べているだけ。プーリーを指に「つまんで」カレーつけて、という、その「摘まんで」いる図がない。
揚げたプーリーはどこに行ったのか。先に食ってしまったのか。
と、少年二人がやってきて、うようよっと呪文を唱えた。というか注文した。一呼吸おいて、更に二人の客。次はおじさん一人。
…ヤバイ。やばくはないけど、置いてけぼり食ってる気になってくる。私も頼みたい。だが忙しくなってきた中、ただでさえ「ムスッ」と見えるオヤジなのに、輪をかけてというか、ますます視線は手元以外に行き場は無く表情固く、こちらのことなんか無視されるんじゃないか。行きたいけど行きづらい。なのに人は増えてゆき、よけい不利になってゆく(気がする)。となればこそよけいに、ココロ引き寄せられてしまうこの矛盾は、まるで年頃乙女の恋心。 ――なんて心の内ヘンに不安定になってきた頃、小さな子がやってきた。女の子だ。黒いショールをスマートに巻き付け、もっと小さな子を二人連れている。きっと妹と、弟だろう。
小学校でいうと五年生ぐらい、という感じのお姉ちゃんは、不動産オヤジのもとにやってきて、その厳つい顔を見上げてこしょこしょ…と囁く。と、オヤジはちゃんとその子に目を向け、うん、うん、と丁寧に、しかも子供相手としての少々の微笑み込みで、頷いている。
おぉ、紳士的優しげ。ちゃんと答えてくれるのだと、まぁ当たり前なんだけれど、オッサンのその顔が緩んでいるうちにと私も乗じてすぐさま言おうとした。『ください』と。
だがの前に、子供ではない存在――しかもひと目見て外国人と分かる――に気づいたオヤジは、気のいい声で言うのだ。
「ハロー。食べていくかい?」
ズッコケるではないか。と、奥さんもぎょろりとこちらを向いて一瞬おいたのち、「来たのかい?」とか言いそうな顔で、口元を上げた。
ま、…この辺、外国人多いからな。
「ハイ。」と言って、暫しゆるりと。注文が通ったとなれば、待つのは一向に構わない。その間にじっくり観察できるというもんだ。
不動産オヤジ、…言いにくいから不動サンと呼ぶけれども、不動サン夫婦の側にぐるり回って立ってみた。当然ながらオヤジ側には耐火用の覆いは無く、鍋を支える、錆びついてひと回り太くなった五徳の下で、火はチョロチョロとした安定の蠢きだ。風情からして炭火かと思ったが、ガスの炎である。
揚げたプーリーの入ったタライの前に、枯れ葉のような、鄙びた緑色の椀が重ねられている。一番上のを一つ取り、もう片方の手で揚げたヤツを二枚、その皿へと入れたら、オ、と声が出そうになることには、椀ごとグシュッと、その縁を閉じるように潰してしまった。器は、紙か。…なんてことよりも、せっかくカリッと膨らんだのに…。――なんてことは、ちっとも気になどしていない勢いである。
そうして位置的にギモンある鍋の蓋を、落っこちない程度にずらしたら、お玉の柄をもって引き上げ、すくったものを椀の上から垂らした。褐色で、そこそこにボテッとしているというか、トロミある感じ。
さらにその鍋の手前に置いてある、小さなボール容器の中のものを、ミニスプーンでピッと少々ふり落とす。これは色から想像つく。辛味だ。真っ赤なチリペーストだ。
生の唐辛子のみをすりつぶしているのか。それともニンニク玉ねぎ、生姜か何か、ヒミツの香味成分も一緒にペーストになっているのか。
気が付けばジッと見ているのは私だけじゃなく、黒マントの少女の妹、弟もグリッとした目で不動サンのもとにくっつき、じっとその台の上を、手つきの虜になっている。勝手に推定するに、クリボー頭の妹は二年生、弟は入学したばかりの一年生。お姉ちゃんはオトナ的に、台を隔てて向こう側に立って待っており、私が代わりに並んで三人、社会見学するちびっ子たち、となっている。
チリが入ったら、スプーン、というよりやっぱりアイス用の小さい木ベラみたいなのを、容器に入ったカレーの端の方に突き刺して、渡す。――女の子に。…ん? 順番は?
ちょっと待ってね、ばかりに不動サンはこちらに目配せして、一連の動作を再び繰り返すと、次はワタシに渡してくれるではないか。
…その前に二人連れ二組と、オジサンが一人いたハズだけど…。順番抜かしていいんだろうか。チラと先客を見てみると、んなことちっとも気にしてないように、少年たちは女子高生のように喋っており、オジサンはボーっと向こうの空か、それとも雑貨屋にぶら下がる袋入りシャンプーかを眺めている。レディーファーストか、或いは外国人特別扱い…。
ま、すぐできるんだしな。「どうも」と受け取ると、同時にニコッと髭が動いた。と、「あぁ」と、目がまたしても点になった。
これ、紙じゃなくて、…「葉っぱ」なのだ。
触って、その細かな葉脈が見えて(私は近眼だ)、ようやく気付いたのである。葉っぱ数枚ををどうにか繋ぐ加工をして、椀皿状に固めてあるのだ。
そういや、インドでは、カレーはバナナの葉の上によそい、食べ終わったらそのまま捨てて土に返す、というのを本などで読んではいた。とはいえ実際、現代のニューデリーでは、食堂では金属の皿やトレイによる提供が殆どで、なんだあの話は昔のことか、と思っていたのだが、これこそアレか。バナナの葉だろうか。(旅を経たのちの私の印象としては、葉っぱスタイルでの提供は、南インドにおいてよく遭遇した。)
重なっている皿はどれもキレイに形が揃っているから、おそらくどこかの工場などで加工されているものだろう。インド的なんだけど、現代的。ともあれ、おもしろいものみっけ、と、皿だけでテンションが上がる。
さっそく、すくってみる。
ジャガイモだ。それと分かる大きな塊と、砕け散って小さくなったのとがある。ポッテリとしているのはこのでんぷん質のせいだろう。
表面にプツプツ散っているのは、クミンシードは分かるが、何かの未知なるスパイスの粒。
――うん。イモのせいだろうか、よく知った味のような気もするが、頭の中の隅に穴を開けるような、清涼感突き抜ける初めての感覚もある。
そして、カレーもいいんだけれども、なにより、だ。
グシャッとしているしカレーが掛かるし、形も色ももはや一体化して分かり難いんだけれど、だが確かに口の中でタッチする、「サク…」の感触が何ともいい。プーリーである。カレーの一部になったかに見えても、繊細ながら丸め込まれない存在感が、ちゃんとある。これがあってこそ一皿として完結する、プーリーとは確かに主役だ。
サクサクのカレー。…で、思い出した。
そういや「カレーパン」だ。コレ、逆ではないか。「逆」カレーパン。
あれは生地の中にカレーを詰めて揚げるものだが、これはカレーの中に揚げパンが在る。…いいじゃないか、トッテモ。
私もたまーに作るんだけれど、具を注意深く包み、揚げる際は、弾けませんように弾けませんように、と祈りながら油に投入するも、その願い届かず中身流出となると、肩が腰まで下がり切なくなる。――が、その心配がないではないか。具を包まないんだから、当然のこと。
ほう…。
ちなみに、先にチラと挙げた、「サモサ」というインドのポピュラーなスナックがある。餃子の皮のような小麦粉生地に、やはりスパイスの効いた具を三角型に包みこんで揚げたものだが、包むからして当然ながら具の水分が少ないものの、コレとは形を変えただけともいえる。とはいえ朝食どき、どちらかというとプーリーの方がより出会う頻度として多いのは、やっぱり「包む」必要が無いからではないか、という気がしてきた。手がかかるし、弾けたらばその生地はパーであるし…てまぁ、シロウト的な目線でいうのもねぇ。
なんだかんだ思っている間に、先客全てに「葉っぱ皿」は行き渡り、一気に少なくなったタライの中へと、揚げたてプーリーが追加されてゆく。そうして、不動サンは、奥さんがひたすら丸めている生地をひとつ、手でペタペタと広げ、新たに油の中へと浸してゆく。
と、…ん?
奥さん、ただ丸めているだけかと思ったが…。――台の上の生地の端っこに、布巾を被って、「何か」ある。よくその動作を見てみれば、それをピッと素早く、指先で僅かな量を取り、具のように生地の中へと擦り付けて、丸めているのだ。ひとつ、ひとつ。
何…?「パテ」のような、ペーストよりも、固めの感じに見える。肉…?とも違うような。でもホントにちょこっとであり、意味あんの?ぐらいのカケラ的な量。…「隠し味」?
手の内にある、皿の中を凝視するも、もはや…である。プーリー本体でさえ、見た目の判別はカレーの奥へと潜りこんでいるのに、そのカケラなんて…。
ジッと、ビーム光線を放っているのに気付いたのか。顔を上げた奥さんと、目が合ってしまった。訊いてみようかという前に、向こうから口を開いた。
「グッド?」
そのひと声で、ハッとした。――男のヒトだ。この人。
が、…ウン、確かに。いったん「男だ」と思うと、オジサンだと納得する顔つきに見えてきた。思い込みがひっくりかえったせいもあるが、たったのひと言、その不思議なオーラ漂うハスキーボイスに、ちょっと奇妙な印象を持ってしまう。イメージで言うならば、王様付きの預言者或いはまじない師。動揺している心の中の波に乗り、「ハイ、とっても」と勢いよく答えると、皺をくしゅっとニッコリ笑った。
不動サンはお玉を手に、こちらの器の中にもうひと垂らししてくれる。うん、うん、と頷きながら。あぁどうも。ありがとうございます。
「コチョリー」と、二人声を合わせた。逆カレーパンの、なんかこしょばしくなる名称だ。
「いくら?」「セブンルピー」…って、「『サス』でしょ?」という私に、ヒンドゥー語の発音を指南する。
ちょっとしたやりとりがまた、土地に「入り込めた」感を増長させ、ウレシイ。感じのいいトコ見つけたなぁ、と、そのことに一気に有頂天になり、「ナゾの具」への疑問もまた一気に離散してしまったのだが、あとから思うと、その場の疑問を何故その場で訊かんのか、と叱り飛ばしたい口惜しい、のパターンである。
少女たちを見た。ショールのお姉ちゃんは一つの皿を手に持って、アイススプーンで弟にアーン。妹にアーン。…そういや、ひとつだった。受け取ったのは。
ひとつを三人で分ける。まぁ大人が一人ひとつで、子供だから…といってもなぁ。
お姉ちゃん。小六っていったら(知らんけど)育ち盛りだろうに。自身は中継ぎ程度にチョロッと口にして、ほぼ妹・弟に、様子を見ながら丁寧に食べさせている。
おそらく制服なのだろう。小二の妹は白いシャツの上に紺のワンピース。弟はシャツにズボン。…が、大きすぎて袖から手が全部出ておらず、裾が腰から下にだらんと垂れている。…デカすぎるだろう。男の子はすぐおっきくなっちゃうし、というのにも程がある。お父さんのじゃないのかソレ。二人とも、斜めに引っかけたカバンがまた、体に対して大きすぎる。
あ、ちょっと待ちなさい、とばかりに妹の顔にハンカチをあて、鼻水を拭うお姉ちゃん。クリボーちゃんはされるがままだ。セミロングの黒髪がその顔の前に少々垂れ、かがみこむその顔を覗き込んだ。
ここで朝飯食ったあと、学校の門まで送り届ける展開が見える。旅人にしかすぎんから、事情云々すっ飛ばして勝手なことを言うしかないが――なんと面倒見がいい、優しい…。個人的な問題、うちでは「兄弟愛」という言葉は昔から存在していないから、こういう図はホントにドラマチックで心打たれてしまうのだ。ええお姉ちゃんやなぁ…。
二人を見守るその横顔、鼻の付け根にひとつ輝く金の星――ピアスだ。
浅黒い肌、目鼻の整った顔立ちに、けっこーな美女へと成長する将来が想像される。確かいつだったか、インド人女性のミスユニバースがいたし、そう、インドのヒトって綺麗なんだよなぁ…ジッと見てしまう。いやヘンな気ではなく、あくまでその、心温まる図だ。
と、やはり「ビーム」は気付かれてしまうらしい。目が合い、その可憐な笑顔にハッとする。
――唐突に。この手のひらの上に、「髪留め」よ出でよ、と思った。そう、バラを象った、赤く煌めくガラス玉のやつがいい。リボンをかけて、手渡したい気持ちでいっぱいだ。
預言者なら叶えてくれるかもしれない。――と振り向けば、お仕事、お仕事の顔である。ふたりとも。
「コチョリー」――ちょっとした軽食だ。
ちょっとしたもの、ちょっとした出会い。
…ちょっとした、でも、いつまでも残るほの温かさだ。
明日もまた、来よう。
(訪問時2003年)
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