カラバフのケーキ屋さん② ~「ナゴルノ・カラバフ共和国」 - 主に、旅の炭水化物
目次
菓子累々
心配せずとも、ちゃんと「市場」だ。
朝になれば、敷地に入る前の路上から賑わいが始まっており、遠くからでも「あそこだ」とすぐにわかる。しゃがんでいる野菜売りのおばちゃんたちと、下を向いてじっと品々を物色しているお客たちがいるから、市場のありかを見落とすことはない。
昨日空き地だったところには、テントや、ビニール布をつぎはぎした手作り屋根を張った下に、細やかに葉を伸ばしたハーブ、ぷりぷりと弾けそうなサクランボ。チーズ、ピクルス、調味料。食肉としては生きたままの鶏――という光景が広がる。
二三品目だけ(畑から?)持ってくる、という売り手が少なくないようで、長テーブルを共有して並び、お客が通るのを横一列に立って待っていたり、八百屋のようにあれこれ種類を揃えている売り手は、段ボールを重ねて檀上に展示したりと、毎日出店のたびにセッティングが大変そうだ。トタン屋根がついたところもあるからそこはまだいいとしても、雨の場合はこの屋根じゃぁちょっと心もとないだろうに。多少濡れても果物、野菜が潤っていい?…いやぁ、大変だろう。
というように、場外の、おそらく出店料金?が必要ない「路上市場」を合わせると、まぁ結構な規模の賑わいエリアであるのは以前と変わらず、そのゴチャゴチャ感がじっくり見る前からもう楽しい。つぎはぎ張りの屋根も、まるで運動会の旗のようだ。
あぁ、これこれ。こういう感じよ。前のとおりだ。
――というわけで、そんな中で再び、「見せてください」の日々が始まったのである。
フワフワ四角ケーキとは、「アルメニア的な」と付していい典型である、と前に述べた。
そして、ここは「お店」であるから、その「典型」に加えて表情を違えたものが数パターン、お客の選択欲をくすぐる。ケーキ側面をソボロで覆うのは変わらないが、要はトップ――「上面」だ。
スポンジが透けて見えないよう、より丁寧にクリームを塗り、そのトップにココアと砂糖、油、水で煮詰めた「チョコレート液」をチョイチョイっと垂らすことで絣模様をつけたもの。或いは、一面をチョコレート液で覆い、それを堰き止めるように、縁を白いクリームでヒラヒラと盛り描く。……鏡のような、チョコの光沢が美しい。
チョコレートではなく「キャラメルクリーム」を使うパターンもある。このクリームは缶詰のコンデンスミルクから作るもので、未開封のひと缶丸ごとを、グツグツ煮える湯の中に放り込み、長時間(思い出すまで?)そのままにしておくだけで出来る。フタを開いてみるとあら不思議、白いはずの練乳は見事なキャラメル色へと煮上がっており、それをそのままスポンジの上からスプーンで垂らし、塗りつけたもの。
「どれにする?」――って、基本は同じクリームを挟んだ同じスポンジの四段重ねであり、味が違うのはトップのみ・チョコやキャラメルがあるかどうかの差であるのだが、見た目に惑わされてお客の心は千々に乱れる。ソレに手を差し伸べるべくの「全部盛り」パターンもある。
一台の表面に、イタリアやフランス国旗みたいに縦線を二つ入れて三つのエリアに区切り、それぞれの区画に違うパターンを描く。ある時は左端はソボロ、真ん中はチョコレート、右はキャラメルなどと、一台で三度美味しいよくばりバージョン――目移りしてばかりの優柔不断にはもってこいだ。
また四角ケーキは一台丸ごとだけではなく、一切れにカットされたものも並ぶから買い易いし、その他、同じようなものに――…ってこれも全く同じものであるのだが、「丸い」ミニケーキがある。クリームを塗って四枚重ねをしたスポンジの上から、ガラスコップをひっくり返してグッと下まで押し付けることで丸形に型抜きし、クリームとソボロで同じ装飾を施したもの。型抜きした「あと」が出てしまって勿体ないじゃん、というと、残りは作り手のおやつか、「ソボロ」となるから心配無用、…か。
そしてまた、焼き上がったばかりで乾燥前の、まだ柔らかいスポンジ一枚を巻いた「ロールケーキ」もある。
――こう外観が変わってしまえば、フワフワ四角ケーキを買い、同時にこっちもうっかりと手を出しても不思議じゃないだろう。同根・「モノは同じ」でも、パッと見てその姿かたち・色が異なるというだけで、ひとつひとつが全く違ったものであるかのような期待を抱かせてしまうというのが、不思議といえば不思議であり、言っちゃなんだが人って簡単だなぁ、とも思う。
というわけで展示台に累々とひしめく菓子はほぼ、定番・フワフワ四角ケーキとその変形版が占めていて売れ行きも良く、だからこそ切らすことなく常に作り続けているということでもあるのだが、モチロンこの一族だけではない。
並んで人気なのが、クッキー一族。小ぶりだから、ケーキのついでに、と気軽にポイポイと選ばれてゆくもんで、特に、見た目「春巻き」みたいなやつと、ひし形の、縁のギザギザとした分厚いクッキーが定番ものだ。
よって作業台では、生地を伸ばしてはクルクル巻いて、焼いて…という流れが、これまた「まだ作るの?」と思うほどに繰り返されているのである。
これは魔法使い・エニさんの担当だ。
なぜ「魔法使い」?というと、その配役が似合いそうなスッと通った鼻立ち、そして、引き込まれボーっと魅入ってしまうような、透明感ある青色の瞳――。
とはいえ近寄りがたい雰囲気というわけではなく、それどころか「スイマセン写真撮ってもらえます?」と頼むとしたらおそらくターゲットにされそうな、穏やかな雰囲気を持っている。お菓子の家で兄弟を待ち受けるようなイジワル人食い魔女ではなく、シンデレラにドレスと馬車を用意してくれる、テクマクマヤコン的なお助け魔女、とでもいうべきか。現在ここで働くメンバー・六人のうちの最年長であり、何かと相談を持っていき易い、お母さんのような存在ともいえる。そしてメンバーの大半が、「オヤツに不自由しないところ」で働くことの意味を教えられるような体型である中、年齢的にはエニさんが一番代謝が落ちてそうだけれどもさにあらず、「年を取ればお相撲さん」の典型外に在り、全くもってスリム体質であるのが非常に羨ましい。
ここを訪れる時は九割方、エニさんは「春巻き」か、「ギザギザクッキ」ーのどちらかを成形している最中だ。作業台でその生地を麺棒でゴロゴロと伸ばしているか、「具」をその上に載せ、包み込んでいるか。
とはいえ「クッキー」の類ではあろうが、そう呼ぶにはちょっと物足りない気がしないでもない。確かに小ぶりではあるのだが、ケーキのようなクッキー、いやクッキーのようなケーキというべきか――という、ボリュームがあるものであり、ホントの呼び名はもちろんだが「春巻き」では当然なく、「シガラ」。ギザギザの方は「イェレバンスキ」といい、大と小がある。
以下、個別に紹介してみよう。
シガラ
「シガラ」と聞けば、あぁなるほどねと、その「巻き巻き」する成形にピンとくる。つまり英語でいうならば「シガレット」――「葉巻」であり、…まぁそりゃあ、ここで「春巻き」と発想されることはなかろうな。
生地の塊は白く、握りこぶし一つ半ほどの大きさだ。それを、上から麺棒を押し当ててゴロゴロ、大き大きく延ばしてゆく。台と綿棒にくっつかないよう、手粉(小麦粉)を何度も生地にパッパッと振りまき、裏、表とひっくり返したりしながら薄く薄く……。台の茶色がほんのりと透けるぐらいまで。
自転車の車輪ぐらいにまで広がったなら、その円陣に十字の線を大きくナイフで切りつけ、出来た四区画の一つをさらに三等分するよう、中心点から二本の線を縁に向かって入れる。これを全ての区画に施せば、つまり円が放射状に十二等分されたことになる。
仕切られたひとつ・1/12の円周側、つまり二等辺三角形になっている底辺(曲線)寄りの部分に、スプーン一杯の「具」をサララ…と載せる。底辺(曲線)からソレを巻き込むように生地を被せ、そのまま頂点に向かってクルクルと巻いてゆく――と、棒状の「シガラ」一本。長さ十センチ程度のものとなる。
このサラサラした「具」とはなにか、というと、「フワフワ四角ケーキ」の仕上げとして上から振りまいたアレ・「バッテン模様」に使った「ソボロ」だ。日本では「クランブル」と呼ばれているのを見聞きする、特に英国菓子を作る時にしばしば紹介されるやつだ。(「クランブル」は英語で「ちぎる・粉々にする」を意味する。)一般的な作り方は、よく冷えたバター(小さく刻んでおいた方がいい)と小麦粉、砂糖の三つの材料を合わせたものを、指で擦り合わせてほぐし、粒が米粒~小豆ぐらいの大きさへなればヨシ。ほぐす際、バターが外気や指から伝わる体温で溶けてしまわないように注意が必要。
このホロホロした状態のものを、タルトやクッキー、或いは煮たリンゴの上からばら撒いてオーブンで焼くと、その部分がカリカリっとなり、菓子にちょっとしたアクセントをつけることが出来る。砂糖とバターが入るんだから、この部分だけ食べてもオイシイ。
が、カラバフのココでは、バターではなく、「…エ」。
前に述べたように「液状植物油」――ひまわりの絵のついたボトルを垂らしていた。ソボロとはバター(妥協してマーガリン)で作るもの、と思い込んでいたから、液体状油で作るとは意外だ。エニさんの大きな両手に挟まれ、擦り合わされ、捩られて「ソボロ状」と成りゆくのを見ると、バターで作ったものより「粟」のように粒が細かく、よりサラサラとしているようだ。日本ではしょっちゅう値上げされているバターであり、(冷蔵庫から)出すのもメンドくさいし足りない、というときにはやってみようかな…などと気を逸らそうとするも、スンマセン植物油を格下に見ているわけじゃなく、ウチだって何かと使っているんだけれども、でもやっぱり風味の点からして、店の菓子には「バター」でやって欲しいナァ…、というのが正直なところである。
「フワフワ四角ケーキ」のバッテン模様はこれをそのまま使う(トップに振りかける)が、「シガラ」の具としてはこれに更にヘーゼルナッツを、全体がブラウンに染まる程度に混ぜてから使う。ヘーゼルナッツは予め、肉をミンチに轢く機器(手動)をグルグル回して砕いておいたものだ。
というわけで、放射に切った生地、全てに具を巻き込んで成型を終えたらば、それらを天板に並べて焼く。
焼き上がりは一見、(オーブンから)出すにはまだ早いでは?と思えるくらい、色がえらく薄い。「こんがり」とは全然言えないような、ほんのりと「染まった」程度であり、日傘を欠かさない女性の色白お肌みたいだ。そう膨らむものではないからか、天板には間隔をあけることなく結構詰めて並べられており、そのせいで一つ一つの熱周りがよくない、というのもあろうが、それはソフトな焼き上がりを狙っての「敢えて」だったのだろうか。粗熱が取れるまでしばらく放置した後、粉砂糖を上からトントンと茶こしで振ると、白っぽい肌に、より真っ白な粉雪が綿毛のように纏って淡い輪郭となり、愛らしい、メルヘンちっくな「シガラ」となった。
そうして、展示テーブルの上へと積み重なってゆく。
ミニ・イェレバンスキ
上から見ると菱形、そのひと組の対辺が、「ギザギザクッキー」と呼んでしまうだけあってギザギザしている。表面に、溶いた卵黄を塗りつけて焼き上げるから、べっとりと濃く明るい、艶やかな栗色だ。「イェレバンスキ」とはもちろん、アルメニアの首都・イェレバンに引っ掛けての名称。ロシア語的な呼び方で、「イェレバンの」という形容詞、或いは名詞として「イェレバンっ子」といったところか。
英国菓子・スコーンのようにフックラと厚みがあり、「小」と付けるには結構ごっついのだが、まぁ「大」に比べればそりゃあ小さいわな、ということでミニ・イェレバンスキとでも呼ぼう。そこそこ焼き色がついている表面に対し、非常に色白な側面(やっぱり天板に詰めて焼くから熱周りがソフトなのだろう)には、生地を巻いて成形したことが伺える渦の跡がある。かつ何か一緒に巻き込まれているらしい「黄色がかったもの」が、その渦の中にチラホラと見える。
冷蔵庫から出しておいた、「砲丸投げの玉」大の生地の塊。それをシガラ同様、手粉をしっかりと振りながら、薄く、薄く、これは長方形に伸す。…ホントまぁ薄いこと。生地を触る度、動かす度に、いちいち手粉を惜しみなくタップリ使う、というのがまたポイントで、台も手も汚したくないし粉が勿体ないなどと、ラップ越しに生地を伸ばそうなんてのはもってのほかなのだ。…なんてエラそうなことを言える立場でもないんだけれど、生地を扱うその滑らかな手つきの前に、ラップのしわと格闘するのが先で生地に集中できていない自分を思い起こし、自然と納得されてくるのである。生地の具合を見極め、思う通りに扱う為には、邪魔者(ラップ)を間に挟まず直に手に触れるのが肝心である、と。ケチり根性とどうにか折り合いをつけ、「粉とは底なしに存在する」ぐらいの気持ちで開き直ったほうがいい――ガンバロウ、私。
ウラ・表にひっくりかえしながら辿りついた最終的な長方形、その長辺は五十センチはあるだろうか。短い辺はその約半分。
台の下から容器を出して、伸ばした生地の上から一面、お好み焼きの鰹節みたいにボロボロと行きわたらせるのは――「ソボロ」。このソボロは「バッテン用」と同じもの、つまり「シガラ」のようにナッツを混ぜていないソボロであり、これを「プレーンソボロ」とでも呼んでおこうか。京都の枯山水の石のように、指でなぞったらその跡がつくぐらい、そこそこの量を敷き詰めている。
「ここで働いて七年目」と、エニさんは目をギュッとつぶった。
「オッケー」「そうよ」とかの相槌を打つとき、ここいらの女性とはどうやらこの「ギュッ」でその意を示すらしく、こちらとしては目一杯ウィンク(両目だけど)されたようでドキッとするのだが、この人はコレが特に顕著。魔法使いとしてはすごくサマになっているというか、目から星型が飛んでいるのが見えるようだ。
もはやベテランである。だが慣れているからといって、コトをスピードに任せて進める風では全く無い。掌で「ヨシヨシ」と子供の頭を撫でるよう、ゆっくり、丁寧に生地を扱う。この人が作るアンパンやカレーパンならば、「今日は具が少ないんじゃないの?」などと、タマに(しょっちゅう)ハズレに当たっていたたまれなくなる、なんてことはないだろう。
寡黙なヒト、というわけではない。「どこから来たの」「どのくらいいるの」「宿はどこなの」「日本で何しているの」――初めて私がここに来た時、それらお約束な質問を一番積極的に投げかけて、こちらの緊張をほどいてくれたのがエニさんだ。こちらとしても、話しかける回数が多いのがこの人であるのだが、生地を延ばしたりするその真っ最中に限っては、別人のように「だんまり」である。
周りの手が、世間話に興じながら動くこともままある中、面白おかしい話題に相槌を打ちはしても、言葉をその中に挟み込むことは殆どない。ひとつの作業がひと段落ついたときにやっと、「コーヒー占いって知っている?」なんて展開してくれるけれども、作業中は視線を固定させて集中しないと、きっとムラになってしまうのだ。生地との対話が先決であり、その最中に話しかけられてもただ頷くだけのようで、先が続かない。
がしかし、他のメンバーが、テーブル角に置かれた「飾りチョコ」の入った箱を肘で突こうとしたならば、落ちてひっくり返るその前に真っ先に「危ない」と声をかけるなど、不思議とあちらこちらに気が行きわたっている。さすが年長者の落ち着きであり、その視界の広さ大きさ、気配りには「貫禄」を感じる。もちろん、周囲も「口」以上に次から次へとやるべきことをこなしているには違いないが、この店における品揃えとペースを保っているのは、この人がいるからこそ、といえるだろう。
話を戻そう。石庭ソボロの生地を、長辺の端っこからクルクルと巻いてゆく。と、綿棒よりももうちょっと太いぐらいの長い棒状になる。
その巻き終わりを底にして(この時も手粉を振りつつ、を忘れない)、上面に、溶いた卵の「卵黄」部分のみを刷毛で塗りつける。卵黄の方が、濃い焼き色をつけることが出来るからだ。
それから「一個」の大きさに切り分ける。端から、ひとつを五、六㎝程度の間隔に、サクッ、サクッと、真上から押し切るように。「ギザギザとした模様」は、このとき、刃の波打った包丁を使うからだ。
棒状生地一本からだいたい八個+α。一個に満たない半端な「α」は、じゃあみんなのオヤツとして焼く、なんて「規格外」にすることはなく(オヤツは商品一個の大きさを、ちゃんと?腹に収める)、巻いてあるのをハラハラと開き、ソボロをポロポロと剥ぎ取ったなら、生地は次回伸ばす塊の中に埋め込み、台に落ちたソボロはかき集めて「ソボロ入れ」容器に戻す。
せっかく巻いたのに、崩すのはもったいないな(メンドいな)。小さく焼いて「切り落としイェレバンスキ・お徳用」などとして袋に入れて売ってはどうか、と思うが、それよりも次回に回してキチっと作った方が無駄が無いのだろうか。手粉の使いっぷりを見ていると、小さいことにはこだわらないような感を受けるが、ソボロ一粒さえも無駄にすまいと、それはそれは大切に使い回している。「もう一個食べよっかな」などと商品台から好きなヤツを何気につまみ、「商品」であることにこだわっていないような彼らの様子を見ていると少々矛盾を感じないでもないが、…まぁソレとこれとは別なのだろう。ケーキ屋でのオヤツは、福利厚生的な特権か。
一個一個に切り離したら、生地を天板の上に移して焼く。…んだけれども、それは引き出しにモノを仕舞うが如しであり、ホントにまぁ一つ一つの間に「隙間」が無い。シガラでもそのようだったが、アッチはまだ棒状だけあって火通りは何とかなるのかな、と一応思えなくもないのだが、こちらはごっつい体であり、それがレンガ状に天板をびっちり埋めているのだ。…いいのだろうか。
パンじゃない(イーストや膨張剤を使ってない)からそんなに膨らまないんだし――とはいえ、側面の火通りが悪いだけでなく、オーブン庫内の温度も上がらないんじゃないのか。だがその分、エニさんは途中でオーブン扉を開き、天板を前後入れ替えたり、ひとつひとつの表と裏をコロンとさせたり、焼けたものだけを取り出す、などとかなり気を配ってはいるようだ。というわけでやっぱり「タイマー」は使わず、「焼けたかな?」の感覚でもってオーブン扉を開け閉めしている。
ツメツメに焼いても、ちゃんと焼ければ結局はそれでオッケーになってしまうのだろう。だが上面しか色がつかないのも道理だなぁ…と、なんとなく、「家庭の揚げ物」を想起しないでもない。「油タップリ入った鍋に具材は少量ずつを投入する」というのが「カラッ」の秘訣だと分かっていても、「一気にやっちゃいたいのよネー」と、どうしても鍋に入るだけ突っ込んでしまうのだ。家庭の担い手はアレもやり、これもやりとタイヘンなのであり、一つのことに手数をかけていらんないのよ――とかいう、家の台所の匂いを嗅ぐようで、まぁそういうモンだよね、と思いやってしまう。……って、私は家庭の担い手では全然なく、単純に横着なだけなんだけど。
ビッグ・イェレバンスキ
「シガラ」「イェレバンスキ(大・小)」の生地は同じであり、前日から準備しておいたものを使うのだが、イェレバンスキの大、即ち「ビッグ・イェレバンスキ」はそれにひと工程加わる。
まずは共通の「基本の生地」から見ていこう。
タライのような容器に入るのは、レンガのようなマーガリンのブロック・二百グラム程度が二つ。…なんて見るとビビるけれども、これ全部ひとりで食うわけじゃないもんね。
まず、冷蔵庫にあった冷たい状態のそれを細かく手で千切ったら、その倍量ぐらいの小麦粉(目分量)をドサッとふりかけて、千切った面の湿り気に纏わせるようにしながら更に小さくほぐしてゆく。
大豆から小豆程度のポロポロ状態となったその中へ、卵とヨーグルト、重曹を少々加える。ヘラを使ってグッグッと力強く押し付け、折りたたむようにしながら混ぜ込んでゆき(ネチネチとは捏ねない)、やがて手で、底の方に溜まって混ざり込んでいない粉を強制的に理め込むなどしながら、一つの塊へとまとめ上げてゆく。
まとまったら乾燥しないように、マーガリンの包み紙などを被せて冷蔵庫へ入れ、寝かせておく。――ここまでが前日までのお仕事だ。寝かせることで生地が馴染み、伸ばしやすくもなる。
ちなみにこの基本生地は、シガラ、イェレバンスキ(大・小)のほか、「バナナ」と呼ばれるものにも使っている。
「バナナ」とはその名の通り、…って「あ、そのつもりだったの?」正直言われないと気付かなかったのだが、バナナ的に真ん中部分で少々カーブさせてある、12センチ程度の棒状厚焼きクッキー。
ピンポンよりもやや大きめに切り分けた生地を、長細い扁平に伸ばして「具」を包んでやや曲げ、シガラと同様に焼き色はうっすらであるべきモンらしい。大きさも十センチ強と大体同じであるからして、ソレと一緒に天板に並べて焼いたりもする。
具とはやはりソボロであるが、この場合には「トボローク」と呼ばれるカッテージチーズを、「プレーン」ソボロに混ぜ込んだものを使っていた。…ってバナナなんてちっとも入っていないネ。単に「形」だけか――って、まぁ、メロンは入っていないけど「メロンパン」と同じこと。
一晩お休みいただいた生地を冷蔵庫から引っ張り出して、握りこぶしひとつ半の塊を、麺棒で押し伸ばしてゆく。よく眠ったためか、のっぺりベローンと、されるがままに伸びてくれるようだ。
ミニ・イェレバンスキ、そしてシガラもバナナも、これを使って具(ソボロ)を巻いたり包んだり……やるのだが、このビッグ・イェレバンスキは、先に述べたように「生地」自体にもう少し手を加える。
生地を、厚さ五ミリ程度の約二十センチ四方に広げたら、その表面に、キャラメル大に切り分けておいたマーガリンを指の腹にくっつけ、ネチャネチャと塗り付ける。
それを三つ折りにして方向を90度変え、中心に向かって扉を閉じるよう両端から折り、更に本を閉じるよう(中心線を)パタンと折ったら、ビニールに入れて冷蔵庫へと休ませる。
一時間程経ったら、冷蔵庫から取り出して再び四角形に伸ばし、またマーガリンを塗って折って冷蔵庫に入れて…と、同じ作業をする。
これを三回繰り返し、成形本番まで冷蔵庫で待機させておく。
――というように、菓子作りが趣味である人はお分かりだろうが、つまりは油脂と生地を交互に重ねて層を為す、「パイ」作りの工程である。
手間と時間のかかる作業だ。注意深く丁寧に扱わないと、油脂(マーガリン)を包んである生地が破れ、それが染み出してしまい上手な層状に焼きあがらない。特に三回目の三つ折りともなると、生地にコシが出てキュッと固くしまっており伸ばしにくく、エニさんは時折手首をぶらぶらとさせては、「ふぅ」と気合を入れていた。
焼成前の成形は、「ミニ」と同じ。つまりこのパイ生地を伸ばしてソボロを振り撒き、クルクル巻いて波型(の刃)包丁で切り分けたものを、天板に並べてオーブンへ。
焼き上がったものは、手間ひまかけただけあって、その違いは明らかだ。「ミニ」よりも随分と厚く、もんわり、羽を立たせたように「層」が浮き出ている。コレは明らかにクッキーというよりも、「パイ」。ミニの方も生地の中にソボロ状のマーガリンを含んでおり、成形時それをくるくると巻き上げることで「層」を作っているといえなくもないのだが、新たにマーガリンを折り込むことで確実に層として構築されたた「ビッグ」に比べれば、それはぺっちゃり控えめであり「クッキー」の範疇ね、とすんなり思える。
「パイ」といえばそれは即ち「カロリー高」。だからって、じゃあヘルシーにミニを選ぼう、なんて考えても、もともと基本生地にだって油脂・マーガリンはドップリ入っているのであり、決して少ないわけじゃない。ただ「ビッグ」が過剰であるに過ぎない。
ここでお菓子を食べるという以上、「太るかも」という心配自体がお門違いも甚だしく、「出直してこい」というモンだろう。
担い手達
五年を経た「再会」は、三人。店主アリーナさんと、魔法使いエニさん、そして、逆紅一点というべきか、菓子作りには直接手を出さないものの、材料の仕入れや品の配達など、縁の下の力持ち的に店をひっきりなしに出入りする、パンダみたいな体格で可愛らしい(と言っちゃあ失礼だが)アリーナさんの旦那・サメルさん。
以前はあと二人女性がいたが辞めており、現在はそれから四人の女性が増えて、より多い人数で工房を動かしている。アリーナさんは気まぐれのようにポッと作業に入ったりするものの、スポンジケーキのクリームデコレーションを除いて以前ほど作業にタッチすることは少なくなった。今日はその気まぐれの時か、それとも注文がかなり入ったのだろうか、薄焼きスポンジ作りに加勢しているが、たいていは事務係であり、現場監督。
作業工程とか材料の発注、注文とか売上とか経理等々、なんやかんやとイスに座ってうーんと唸っている姿の方が目につき、その合間、気分転換のように作業台や商品台にやって来ては、完成品を綺麗に並べたり、眺めてそれらの出来栄えをチェック・アドバイスしている。品の減り方を見て「コレを大目に作ってね」と指示を出し、ボスとして店の流れを統率している。
工房内の人数が増えたことで、よりボスらしくというか、「経営者」らしい存在になった、ということだろうか。
…そうだよなぁ、五年である。
五年も経てば、ウン十代始めだった私も中盤を過ぎ、その間個人的にも社会的にも様々なことが起こった。時計の針は同様にここでも動いており、記憶そのままの状況が続いているとは限らない。私も彼らも、現在進行形――だからこそ、「再会」もまた当然出来るとは限らず、それが果たせたならば、まっこと有り難いことなのだ。前回と同様、誰もが突然現れた訪問者を、温かい目で受け入れ、気さくに接してくれたことには感謝しかない。記憶に残る人たち全員に会えたわけではないものの、その代わりにまた新たな出会いがあり、新たな繋がりを生んでゆく…。
「イイ生地だよ」
エニさんが仕込んでおいたビッグ・イェレバンスキの生地をのばしながら、プクッと膨れている気泡の部分を指さして、ゴハンさんは言った。
シガラ等の焼菓子の生地仕込みから焼成までが主な立ち位置であるのが魔法使い・エニさんではあるが、いつもいつも一人きりで全てを網羅するわけではない。成形・焼成の合間に翌日の基本生地を仕込み、あ、「ソボロ」がそろそろ切れそうだワと気づいたらサッサッとそれを作る。あ、マーガリンってまだあったっけ?――等々、あえて休憩しようと自分で区切る以外、その手は、朝から夕方までやること為すことで詰め詰めだ。あんまり回らないときは「今、手ぇ空いたけどワタシやろっか?」と、他のメンバーが代わってくれる場面もそう珍しくない。
ゴハンさんとは、今回が初対面だった。主には丸型やハート型に焼いたスポンジケーキの、クリームデコレーションを担当している。以前、それは店主・アリーナさんがただひとりの担い手であったのだが、そういう募集をかけたのだろうか、五年後に訪ねたいまは、ゴハンさんに任せっきりであることが殆どだ。
四十代後半か、五十過ぎか。化粧はバッチリ。天然なのかパーマなのか、アップにした髪の先端はクルクルで、耳には大きめのイヤリングがキラリ。姪(資産家の娘)になった気持ちで「オバサマ!」と声を掛けたくもなってくる、ややふくよかでゴージャスな女性だ。見た目からは、お菓子を作る側というよりも、デパ地下で高級洋菓子を物色する姿がぴったりくるのだが、――これはちょっとやそっとの「経験者」じゃなさそうな、アリーナさんにも引けを取らない豪華なデコレーションをスポンジの上に絞り出す。他の店から引き抜かれてきたのだろうか。
ホントは「ゴハン」さんではなく「ゴハル」さんであるのだけれども、「ご飯」と覚えやすいため、また、そう言ってしまっても発音にたいして違いがないと(勝手に)思われるため、私は本人に正面きって「ご飯さん」「ご飯さん」と言い続けているのである。
こちらで「ゴハル」とは、「花子」「ケイコ」的によくある名前(昭和的には)なのか知らないが、メンバーにはもう一人同じ名前の女性がいる。こちらは逆に、…といったら何なんだけれども、細身で小柄な、いかにも華奢な女の子。歳にして二十三というピッチピチの若者だ。
深い彫りの美貌。長いまつ毛のもとに色濃いアイシャドー、アイラインのお化粧をバッチリと施して、髪の毛は芸術的にクルクルしまくったのを微妙に垂らしながらアップでまとめている。いかにもオシャレなお嬢さんだ。
そういうわけでイェレバンスキよろしく、熟女のご飯さんを「ビッグ・ご飯さん」。若者のご飯さんを「ミニ・ご飯さん」と心の中で呼んでいるのだが、そのミニ・ご飯さんはここに勤めてから一年経つとのこと。担当は、以前は見なかった「シンガリョー・ハッツ」という、カラバフ名物の平型パンを焼いているが、クッキー生地やスポンジ、クリーム作りなど、下準備全般なんでもやっているし、合間に床掃除を自ら進んでテキパキと始めるのは、ベテランに負けず劣らずの気の利きようであり、私ならば大負けである。オシャレなイマドキの若者=頼りない、は、全くもって偏見であると気付かされる。
彼女が新人だろうと思っていたが、三十一歳のアンティークドール・「アンさん」の方が、入ってまだ三か月だという。
アンさんは現在、フワフワ四角ケーキのデコレーション専属。まずは店の主力であり基本ともいえるコレ「ばっかり」にタッチし続けることで、ここの仕事の流れに慣れてゆく、という感じだろうか。とはいえ、新入りだからとオドオドした風でもなく、述べたように若者顔負けにピチピチの肌を晒した金髪サララのこの女性は、タンクトップ姿で胸元バッチリな出で立ちで、明朗快活・堂々なオーラを放っている。ここは女の園だからまぁいいけれども、デコレーションに背を屈めるたびにその胸元が目について、男性には毒だろう。(サメルさんは眼中外の問題外?)
そしてもうひとり、お客が訪ねてきたらまず「ハイハイハイ…」と駆けてゆき、それ以外は「フワフワ四角」用スポンジの焼き係に立っていることが多いナリネさんも、今回初対面である。この人もまた魔法使いエニさんのように、落ち着いた「お母さん顔」だ。
誰がどの作業を担当するかはおおまかには決まっているものの、新人アンさんを除いてたいていのメンバーがひと通り、そこそこに出来る。「今日、娘に赤ちゃんが生まれるみたいなの」としばらく休暇が必要になったナリネさんのように、欠員が出たとしても兼務できるし、新入り・アンさんもアドバイスを貰いながら手を出すこともある。ただ、丸型やハート型スポンジケーキのゴージャスなクリームデコレーションだけはやはり特別な腕が必要ということか、オーナーのアリーナさんとビッグ・ご飯さん以外は手を出さないようだ。
それにしても女性が六人も集えば、おしゃべりの題材を見つけるにも不自由はないのだろう――何かを力説し、受け答え、笑い合う声の飛び交う時が少なくない。…ってまぁ、言葉のワカラン私だから、井戸端会議だと思い込んでいて実はずっと仕事の話だった、という誤解も在り得るんだけれど。
なんとなくのタイミングで設けるお茶の時間に、「ん?カップが余るけど…」とメンバーに一人いないことに気がつくと、「コレ見て!」と戻って来ては、袋の中身をごそごそと披露する。近くの店で買ってきたという、私なら三歩目でネをあげるであろう、おそろしく細く高いヒールの、「これぞ乙女」といわんばかりの靴だ。さすが、やはり気になるのは身に纏う物。「仕事場に…」なんて苦い顔をするヒトはなく、みんな目を輝かせて買い物話に聞き入っている。――女の園だな、と思う。ほぅ、と一緒になって感心している「逆紅一点」サメルさんも、分類は「ほぼ女子」といってしまってもよかろう。
ちなみにここで私の語学力についていうと、「アルメニア語トラベル会話集」ページ三枚分という、基本も基本(挨拶、値段交渉、数字、5W1H…)程度でありしかもこの紙が手元にないと全くの無力。込み入った話はジェスチャーでしか術がない。あとはよく耳に入ってくる言葉を、状況に合わせて推測し、何となしに覚えてゆく、というカンジ。
そのなかで、気合い入れて覚える必要もないほど頻繁に聞こえてくる単語とは、「インチ」と「チェー」。「インチ」とは「何?」という意味であり、一時間に数回、みんなしょっちゅう疑問符を誰かに投げかけるもんである。ヒトってそんなに「ナニナニ」言うもんだろうか――と自分を振り返ってみると、モノが落ちて「何?」、虫刺されを足に見つけて「ナニ?(に刺された?)」、意外とおいしい煎餅の原材料を見て「なに(から出来てる)?」――たとえ部屋に引きこもっていようとも、結構ナニナニ言っているモンだった。
そしてそれ相当によく聞く「チェー」とは、Yesと Noの、「No」の方。否定が多く聞こえてくることに、なにか不穏な話題?ネガティブな事件か?と何か雲行きの悪さを想像するのだが、私も改めて自分を気にしてみると、会話の中に「いやだ」「ううん」「違う」の方が、肯定する返事よりもスルッと出ているモンであり、「えー」「面倒くさい」もほぼ「NO」の分類だとすれば、これもかなり言うかもしんない。ついでに「Yes」はというと、これはロシア語を使うことが多いようで、「ダー」と言う。
そう、ここでは、そしてひいてはアルメニアでも言えることだが、ロシア語がとりわけよく聞こえる。何気に「混じっている」。
……だってそりゃあ、かつて、それがここの公用語である「ソ連」の一員だったんだから――とはいえ、旧ソ連国ではたいてい、よそ者にはロシア語を使うが、知人など仲間うちでは母語で話す、というように、「ウチ」と「外」との使い分けがあるもんだが、アルメニア、そしてカラバフではというと、私の印象では、その「使い分け」がそれほど無いような気がする。特に外国人向けの言葉というわけでもなく、アルメニア語を母語とする人同志の日常会話のうちに、ロシア語は何気に入り込んでいる印象を受ける。それは、ロシアとの関係の強さを物語ってもいるのだろうか。アルメニアはソ連崩壊後に成立した独立国ではあるが、隣国トルコとアゼルバイジャンとは断絶関係にあり、資源も乏しく、政治・経済ともにロシアの支援に大きく頼っているのが現状だ。
…って私のロシア語能力はといえば、「トラベル基本会話集」の三ページ(基本)は例文無しでもイケるかなという、「アルメニア語よりもちょっとはマシ」程度。とはいえ旅をして経験値を積んでゆくうち、内容は別にしてその言葉がロシア語かアルメニア語かは、発音や息遣いの「丸み」からなんとなく判別できる(気がする)。彼らが会話の中でどっちの言葉を使うかは、気分次第のような感があり、「(材料)何グラムね」という数字は、たいていはロシア語で言い合っていた。
時に世間話に没頭しながらも、とはいえ、だ。みんなの手は常にしゃかしゃかと動き続け、ブラブラと遊んでいるヒマは殆どない。
ひととおり生地を焼き上げたらしいアリーナさんは、ナリネさんとともに天板にこびりついたスポンジをガリガリ剥がすのに余念無く、アン嬢は、重ねて切り落としたスポンジの耳をスポンジの間に挟み込んでは、水平かどうかを顔を近づけ真横からチェックする。
イスに座って美しい足を組み、スポンジ用の生地をシャカシャカかき回していたミニ・ご飯さんは、「シンガリョー・ハッツ(パン)の注文が二つ入ったよ」と耳に入るとホイッパーを一旦手放し、冷蔵庫を開いてそれ専用の生地を取り出す。
クリームの「バラ」をひとつ仕上げたビッグ・ご飯さんは、次は「葉っぱ」を絞ろうと、緑色のクリームをその絞り袋へと詰めている。エニさんは、常に同じ調子でゴロゴロとめん棒を転がしている――。
やることは落ち葉のように散らばっており、一つ終わったら、また別のことを拾ってやり始める。生地をこねる、伸ばす。泡立てる。飾り付ける。飾り付けをつくる。器具を洗う。――途中に休憩を挟み込むとはいえ、朝九時頃から夕方六時過ぎまで、ほぼ立ちっぱなしである。
ここは「家庭の延長」であり「台所」――とは述べたけれども、道具や設備に加えて、仕上げ用のキラキラ光る砂糖や、細かい粒チョコレート、クリームをピンクに染める着色料といった特殊な製菓専門の材料がどの家にも、いつも揃っているとは限らない。フワフワ四角ケーキは確かに家庭においてもポピュラーかもしれないが、特にエレバンスキの「パイ」などは大量の油脂が必要になり、またその手間を思えばそうそう頻繁に作ろう気になるものでもないだろう。
やはり、「店」であり、専門の職人だ。家庭とは一線を画している場所なのだ。
そしていつも変わらぬ味を提供すべしと、気合いの入った労働量が要る。「毎日同じ仕事を繰り返す」とは単純なことのようだが、毎日毎回、全てのものを同じ出来栄えにすること・保つことの難しさは、一言でサラッと流せるほど簡単ではない。出来栄えというのは、「ヒト」如何で変わってしまうのだから――それが、モノづくりの怖さでもあり、面白さでもあるが。
(訪問時2008年、2013年)
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