主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

  吟味と葛藤 ~サワンナケートのカオチー⑤

 ヒトが仕事しているって中、一人だけイスに座るっていうのは憚られるのだが、しかし座んないと、目を光らせて「座れっ!」――よけい気を遣わせてしまうらしい。

作業の合間に飲む水を、私にもすすめることを忘れない。あぁ、私はただ見てるだけなのに…と申し訳なさを感じつつも、せかされてコップに口をつける。そのとたん、キューっと一気に飲み干してしまいたい衝動がやってきて、自分の喉の渇きに気付くのである。

 ミキサーが回る以上、生地の波は間違いなくやってくる。「終わり」というものがまだ遠い先の先、であることに、何度見ても、「そういうモンだ」と悟れない。「何度」といったって、二、三年に一回、それも三日やそこら滞在する程度の私に言われてもカンに触るだろうが、見ているだけでめまいを感じるほどに、キツイ仕事だ。

――とはいえ勝手なモンで、ここの人たちが「カオチー作り」に従事し続けていること、ソレを確認するたびに、ホッといているのだ。

『見せてもらえませんでしょうか』

という、自分としては一応敬語を使いまくっているつもりの「態度」で、タイ語だかラオス語だかをメチャクチャにミックスさせ、ようやく入り込めた時のド緊張は忘れられない。この町に立ち寄る最初のきっかけとは、単に、旅を進めるルート上だったから、という気まぐれ的な途中下車に過ぎなかったのだが、ラオスのカオチーを探るその一歩が踏み出せた初めての見学場所であり、「原点」だと思っている。

 だから、ナンもせんのに勝手なことを言うな、と怒られそうだからせめて心の中でのみそう願わせてもらうが、「いつまでもガンバッテね」。

 美味い、最高、ラオス一。こんなに旨いカオチー、無くなったらみーんなが困る。転職しようなんて絶対思わないで頂戴よ頼むから――と、思いつく限りの誉め言葉を並べ立てたくなる。

 

 見て快感「クーブのめくれ」部分をつまみ、引き千切ってみれば、湯気とともに立ちのぼる香り――は、ソレがまだ「生地」だった頃にも嗅いだような、と、蘇ってきてハッとする。

「そうなんだ…」

窯から出現したそれは、まるで魔法でもかけられたかのように「別物」に変貌してしまったのではなく、焼かれる前から、というか成型時から――いや、ミキシングの時から既に未来は内包されていたのである。連続して在るものだ。「経て」、出来上がったのがコレなのだと、当たり前のことながらつくづくと思わされる。

 歯を立てる。と、さすが念入りに焼きこんでいただけあって、期待通りに張りがいい。とはいえやたらめったら「バリッ」としている風でもなく、ほどほどに、「そうあって欲しい程度」に、硬い。

白い部分・内層は、フランスパンの特徴である「大小まばらな穴」はそれほど顕著ではなく、どちらかというと均一な気泡で、ムッチリと力強い「ひき」がある。ムギュムギュと噛み締めねばならんこともないけれど、「芯がある」柔らかさ、とでもいおうか。

 日本で食べていた「フランスパン」は、まるで卵の殻のように、外皮と内層はハッキリくっきり・他人のように分かれているように思う。中の柔らかさに対し、外皮は他人のように硬い。だがここのコレは、硬い部分が徐々に中へ向かって柔らかくなる、というような、グラデーションある様相だ。

 この地の、今までの記憶が一気に蘇ってくる、「ここのだ」と確信できる風味である。

まるみのある味。何を狙っているわけでもない、シンプルだが、甘い――なんて、鼻から?舌から?どちらの感覚に因るのだろうかと、白い綿部分を唇で引っ張りながら、生地の並ぶ天板を窯の中へ差し入れ、迎える作業を繰り返す彼らを見守る。

 クソ熱い天板を、鍵棒一本、ボロタオル一枚で、お構いなしにヒョイヒョイと動かす彼らに対し、「アブナイ!」なんて口に出すのは、おままごとだろう。だからといって私でも出来そうだ、なんていうのは大間違いの大勘違いであり、熟れた桃の皮のように、ズルッとひと剥け(皮膚)は免れまい。

 そして。何か言いたげだが、しかしよく聞き取れない――そんなもどかしさを感じさせる、儚い味でもある。

 町なかでカオチー売りを見つけ、「具」をはさんでもらえるとなれば、そりゃあ何も無しの「素」(「素うどん」のような意味で)よりも、ソッチを選びたくなるだろう。「具入り」にすると値段はモチロン高くなるけれど、大抵、それに見合う満足度であることが分かっている。どうせなら…と、触手が動かでか。

「カオチー自体を味わいたい。」――で、「具入り」ではしかし、いかんのである。

意識が「具」に引っ張られてしまうのだ。「具」の旨さにかまけて、カオチー自体がどのようであるのか、その味を吟味することを忘れてしまうというか、どうでもよくなってしまうのである。

「具」と接していない部分で吟味すればいいではないか、というと、具の、香りとか脂ッ気って結構強く、たとえカオチーの端っこ部分(皮の部分)だけをちょっと捥いで口にしてみても、なんだかその匂いが既にこびりついている気がする。いったん具を挟んでしまえば最後、その風味はカオチーの細胞の中に巣くい、一体化して、分かちがたいものになってしまっているのである。

 だから、「カオチーをみる」その使命感を持つならば、「素」に徹するべきだと思う。…のだが、そうはいってもやはりなかなか、その誘惑を取り払うのが難しい……。

「朝は『素』カオチーで、昼は『具入り』にしよう。夜はあの通りに出る惣菜屋で、ご飯とオカズが食べたいなぁ…」などと考えていても、夜にカオチーの「焼きたて」が手に入り易かったりするもんで、アッチも食べたいしこっちも捨てられない、の私は、「一日の食いもんスケジュール」に悩んでいる時間が、旅の中で実は一番、多い。

 

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