主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

飴玉車掌 ~メコンデルタ・ベトナム

 えいっと、座席の下へ放ったのは、大きなビニール袋。――に入っているのは、キュッと括られた、数本の水入りペットボトル。

 …少々では破裂せんだろうが、投げなくてもいいのに。人の荷物をこんな風に、家畜の餌が入った頭陀袋が如く扱っているのを見るのは特に珍しくもないが、それでもなぁ…。

 傍らに立つおじさんも、あんまりにもそれは、と思ったのか、「オイオイ」とばかりに諫めの声をかけている。ゴムボールじゃないんだから、もうちょっと丁寧にしろよ。

「ん?」と、少年は振りむいた。そのほっぺは、片側だけぽっこり不自然に膨らんでいる。

 膨らみは右に動き、左に動き――ガムじゃない。飴だな。

 

バスと車掌

 

 たいてい、二十代半ばぐらいの若者男子。…に限らず、中年、五十代六十代と思われるおじさんだって色々いるんだけれども、よく見るのは、ということだ。

短パン、Tシャツからのびる素肌は日の光をグングン吸い込んだ褐色をしていて、やせ形が多いが貧弱な印象は無い。枝のように節を浮き立たせた腕、足はカッチリと固く締まり、なんとなく骨密度濃厚な感じがする。さながら高層ビルを支える鉄骨のよう。

  余分な肉を垂らしていない締まった頬骨。車内、車外の様子を見回すその眼光はぎょろりと鋭く、どんなスキも見逃さない、感じ。

 ――カッコいいと思う。

 ベトナムの、バスの車掌だ。若者ならば、道路状況に集中するドライバーの手足となって、まぁチョロチョロと動くもんである。ハンドル操作にデンとしたまま動かないドライバーとあんまりに対照的だから、「子分」のようにも映り、いつかはドライバーへと昇格する為の、いまとは修業時代なのだろうと自然と受け取れてしまう。 

が、「おじさん車掌」であるならば、どっちかというとドライバーよりもドスが効いている雰囲気だ。Tシャツ&短パンではなく襟の付いたシャツ&黒やグレーの長ズボンだったりするし、…って特に「いいシャツ」ってこともなくヨレッとしてたりするんだけども、何となく正装しようという意思がありそうで、ちょっとエラそう。実際、おじさんの時には若者をプラス一人か二人ぐらい従えており、料金徴収は(おじさんが)するものの、荷物の積み下ろしにはちょろちょろ動く彼らに任せていたりする。下積みを経て、ドライバーも経験したその後の、定年前の落ち着き先、とか?……さぁ。

 ベトナム北部から南部の町へ、などといった長い距離の移動の時は、私は鉄道が通っている処ならばそれを使い、バスは避ける傾向にある。というのは、バスは、外国人となると料金を吹っかけてくることが多いからなのだが、そうはいっても鉄道が無かったり、近距離移動の時は、町を繋ぐワゴン車のようなミニバスが便数も多いから、ソレを利用することになる。

 とりわけ南部のメコンデルタ地域では、頻繁にバスに乗った。そもそも鉄道が走っていないから必然であるんだけど、「ボられる」「ふっかけられる」というイメージにかかわらず、ここらで見られた車掌の働きっぷりとは実に爽やか、気持ちのいいもので、その類の疑念もうっかり離散してしまうほどだった。

 

 厳つい男性客が眉間に皺寄せて「ウンショ」と引きずってくる頭陀袋でも、頭の上、肩の上に平然と「ヒョイ」。「心頭滅却すれば火もまた涼し」なんて、全国大会目指す運動部的にそう躾けられているんだろうか、眉間に皺寄せた顔ひとつ見せることもなく、車内の椅子の下に荷物をきっちり・整然と敷き詰めてゆく(おかげで足の踏み場は無くなり、人の荷物を踏みつけることになる)。或いは車体の上に、よじ登って積み上げる。

 乗客の荷物積みが終わり、さあ発車、と車が動き始めても、客集めを「諦めない」。

 オーライオーライ、と、すれ違いを見張りドライバーを導く必要のないところでも、入口から、或いは窓から、車掌はいつまでもいつまでも身を乗り出している。アー気持ちイイ、と、ひと仕事終えた汗を風で乾かしている――ということもなくて、せっせと「営業」している。

「○○行きだよ、○○行き!!」「おじさんどこいくの?○○?そこならこの車も通るよ!」荷物積みなどなかったことのように、エネルギー全開だ。

 出発して三十分もしたら、車掌が座席を回って金を集めてゆくのだが、カネ――に関してことベトナムでは「外国人は乗客ぐるみでボラれる」なんて話はざらだから、「切り詰め旅」のこちらとしては超ナーバスにならざるをえないものの、頻繁に乗っているこのデルタ地域でのワゴン&バスにおいては、あからさまにボラれるといった、「ヤーな気分」になることはそうなかった、と思っている。あからさまじゃないだけで、「気付いていない」お幸せなケース込みで。

 忙しいのである。

 車内では補助イス(風呂用みたいなの)を取り出して、ドライバーの横で道を真っ直ぐ見据え、時に頭を出して、或いは車が動いているさ中でも地面に飛び降りて「オーライ!」と運転を導き、見守り、乗客を見つけて車内に引き入れる――と、車掌たちは常にクルクル動き回っている。仕事中、その眉も目も「キッ」とつり上がっており、太陽に晒されまくった日焼け顔にはへらへらする余裕など見えない。「真面目実直」という言葉がまさに当てはまるのであり、ボる為なんかにくだんねぇエネルギー使ってらんねぇ、ってもんだろう。(そうであるべきだ)

 我らを運んでくれているのは確かにドライバーなんだけれども、とはいえ乗客と接し荷物を積み込み・降ろしする彼らは当然ながら車内状況を一番把握しており、乗客にとって、背中姿のドライバーよりもその存在感は大きい。ベトナムのバスのイメージは、車掌如何によるといって、過言ではない。

 車掌という、「職人」。

 いかに「仕事」というものを避けて生きるか、なんて考えているこちらからすれば、その姿は頭が下がるほどでもある。

バスが目的地に到着し、さあ降りよう、というその去り際。車内、或いは屋上に積まれていた自分の荷物をウンショと担ごうとしたらば、背中がなんか軽い。

「ん?」と振り向けば、「ホイ」と車掌が手を出して支えてくれている。無事に背中に固定できたなら「じゃね、」と、キリッとした仕事顔をすこーし緩め、爽やかな笑顔で見送ってくれる――なんてされた時にはもう、

「――カッコえぇッ!!」

と、心の中で絶叫してしまう。

 

飴玉抱えて

 そんななかで、非常に印象深く残る車掌がいた。やはりメコンデルタにおいて、ロンシンからサイゴンホーチミン)に向かう時だった。

小さな、小さな車掌だ。

キャップ帽に短パン&Tシャツ姿の、見た目小学2、3年生――もしかしたら背が低いだけで5、6年生ぐらいにはなるのかもしれんが、空き地でボールを追っかけ回っているような、頬プヨンとした、まあるいお顔の男の子。

最初、乗客が連れた子供かと思ったが、それにしては他の乗客の荷物を、それもどの人のも、車内に押し込む手伝いをしている。――から、車掌の子供が父親にくっついて「車掌ゴッコ」している、と思った。

 だが、その荷物の扱いとは手慣れたもので(かなり乱暴だが)、「ここに、こう詰めて、コッチはこうやってはめ込んだら、ソコにも荷物をもう一個置けるじゃないのさ」と、乗客が自分でやろうとするのを「効率ワリィな」とばかりに頭を掻きながら、口達者にアドバイスしているっぽい。「…あ、ハイ」そうね、と、みな彼のペースだ。

 発車をすれば料金徴収、釣りの受け渡しをちゃんと担い、間違えないようにブツブツ呟きながら計算している。シビアなベトナムで鍛え抜かれているのか、見た目は小学生でも算数に四苦八苦する頼りなさはなく、答え(お釣り)をハキハキと答えている――が、気張り過ぎか、時に間違えるようで、何か諭すように大人(客)が口を挟むと、負けず嫌いらしく、「テヘ」なんて苦笑いすることなどなく、わかってたモン、とばかりにキッと言い直したりしている。

 利発な子。……どころか、「君、本職?」とばかりである。

 道中は、ドライバーと助手席のあいだに、後ろから顔を挟み込んで前を見て、新客を拾える気配アリと察知すれば、車内にびっしり詰まるヒトの足と荷物をまたぎ(踏みつけ)、助手席のオトナと共に「やぁやぁ我こそは…」なんてノリで大声出しながら飛び降りてゆく。――ほっぺに、飴を含ませて。

 おそらく、メインの車掌とは助手席のおじさんなのだろうが、声も仕事も前面に出して「我ここに在り」と主張しているのはこのチビ君だ。息子か?違うのか?……、おじさんのにしてはチビすぎるなぁ、とか、年齢がどうのの問題ではない。休憩所などで、大人に混じって麺食っている姿とは、見た目「ファミレスでお馳走されているボク」であるのだが、仕事っぷりは立派に「同僚」であり、こちらがたじろいでしまうほどだ。「ごっこ」よばわりなど失礼もいいところ。

 ――とはいえやはり、「子供」だなぁと思う。やることなすことの「張り切り」が、隠れることなくド直球に表れている、というのが。

 雨の中、車がエンストしてしまい、チビ君もやはりジッとしてらんないのだろう、いっぱしに、後ろで車体を体を使って押し上げている大人たちに混ざっていた。やがて動いたらば、顔を見るまでもない、「嬉しい!」と叫ぶ魂そのものが腕と足に一杯に表れて、雨に濡れるのもなんのその。ひとりサッカーボールのように跳ねまわっている。――紺碧の空に向けて掲げるトマト、その照り返す皮のように艶やかで、果肉のように無防備だ。見ているこっちが、スッカラ気持ちいい。

 新客が到来するや否やにスグ飛び出せるよう、やがてボクはドア横のシートに小さく陣取ってきた。それは即ち私の隣であり、片腕には「海苔のお徳用」みたいな蓋付きプラ容器を携えている。中に放り込んであるのは、様々な種類のアメ。

ウオッカを煽って仕事に行く――じゃないけれども、おみくじよろしくその容器をガラガラと振り、ひとつ取り出しては、包みを破って口に含み、駆けてゆく。これがボクの「元気のモト」。ガソリンであり、宝物――とばかりに、いつも傍らに置いている。駄菓子片手に遊びに出かける、それは子供そのまんまの姿である。

 乗客の入れ替わりもなく、川沿いに田んぼの広がる中をただ真っすぐ走るだけというのんびりした道中では、――退屈、というのが分かりやすく、邪気の無い寝顔を晒してグースカと寝入っていた。車の振動で前の席にゴンゴンと頭をぶつける(でも起きない)などして乗客の笑いを誘っている。

 チビ君はこちらを「外国人」と把握していたようで、ある瞬間、居眠りから何かの拍子で(デコを強く打った?)急に目を覚まし、気付け薬のようにプラ容器から包みをガサガサ開いて口に含んだら、突然こちらを向いて「握手。」と手を差し出し「名前は?」なんて訊いてくる。……いきなりどうした。夢の続きに居るのかと可笑しくなりながら答えると、「フーン」と反応してまた目をウトウト…。オイ、飴、大丈夫か。喉に詰まらせんなよ。

 チビ君がいるおかげで、車内はえらく和やかだった。

 ベトナムでは、子供はある程度成長すれば、甘やかすことなく厳しく躾ける、と読んだことがある。市場や店でも、小さな体であれ、大人に混じって堂々お客と相対して働き、お客の側にも「子供相手」な態度などあまり伺えないのを見ると、そのことは納得できる。――けれども、乗客の笑い声の多い、いつもより車内に漂うほのぼのとした雰囲気は、このチビ君ゆえだろう。

抑えることを知らず、息が切れること構わず、指先を突っ張らせ手のひらを一杯に開き、子供の底なしエネルギーを放出しているその様子に、人の頬は自然と緩んでしまう。イッパイに「子供」であり、なおかつ物怖じせず臆せずの、「車掌」である。

……見事だ、ボク。

 

 到着後、これまた荷物を背追うのを手伝ってくれ、「バイ」と手を振る彼に、私はショルダーバックの奥の奥に突っ込んであった抹茶味の飴を二つ、その宝物のコレクションにと渡した。

 と、パァぁぁっと、まさに、ど真ん中の笑顔だ。珍しい包みをじっと見て、裏表とひっくり返したり、上へとかざしたり。ひととおり反応したその後で、大人びたように「ありがとう」。

…か、カワイイ…。

 

 暫く彼の地に旅に出ていないからして、いま現在(2022年)はどうなのか知らないが、エアコンなど入らない(あっても故障)、結構年季が入ったボロい車体のワゴンやバスが、デルタ地帯を縦横無尽に走っていた。運悪く、日光のモロに当たる窓側席に座る羽目になったならば、うだる暑さと振動に朦朧とし、口を半開きにして耐えるしかない。

 これらを利用しての移動には、覚悟というよりも「諦め」がなければやってらんないのだが、そんななかにも「到着するのが惜しい」なんていう、実に珍しい事態にも遭遇するのもまた、メコンデルタならでは――かどうかは知らんけど、まぁ、そんなこともありにけり。

                                                                                                             (訪問時2009年)

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