主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

ご飯食いの達人~カンボジア

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 カンボジア――ご飯が旨いこと半端ない、ところ。

いや、「ご飯を食べる」ことに長けた、というべきなのか、どうか。とにかくご飯とオカズの「バランス」というものが、半端なくスバラシイ。

長年括りっぱなしで錆びついたチェーンのように、がんじがらめの抜群なる相性。その結びつきには、一分の隙も無い。

味なんて、個人の「好み」モンダイでしょ?と一蹴されようが、そしてハイ、確かに「カンボジアに行った」とはいえ、当然ながら津々浦々全てを歩きつくしたわけでもないが、かまうもんか、万難を排してでも言おう。ご飯を食うことに長けた名手がここに居る、と。

 それは、この世界へと立ち入ってゆくそのさなかで、既に感じ取れることだった。

 

タイからカンボジアへと陸路で移動する。

まずはバンコクから南東方向320キロ・カンボジア国境近い町トラートに向かい、そこから乗り合いバンでタイランド湾沿いに移動し国境を越える。行先は、カンボジア南端にある港町・シアヌークビル(コンポン・ソムとも呼ばれる)だ。バンに同乗していたのは、カンボジア人のおじさんおばさん達、そして欧米人旅行者二人。

「入国ビザ代にはドル払い不可。タイバーツしか受け取らないもんね。フン」

どう粘っても全く折れない税関役人とひと揉めを経て、ヤレヤレ、ボーダーを越えた。さぁ、これからはひたすら突っ走るだけのドライバー任せであり、あとはもうヨロシク頼むわ。

 ――と思ったら、スゴイことになった。

怒りの道。……なんか、ワタシやったっけ、と胸に手を当てて考えてみる。母の怒り――昔々、赤点のテストの束を隠していたのがバレた時のような、化粧もなにも吹っ飛んだ大地むき出しの怒り。茶色い土肌を気性荒くうねらせる前には抵抗する術などなく、その手中にて黙って下を向き、翻弄されるのをひたすら耐え偲ぶしかない。

前日の大雨せいで道はぬかるみ、沼と化した水溜まりのど真ん中の通行さえ強いられる。車はゆっくり、ゆっくり……まさに田植えの中を歩く農夫のような足取りだ。扉を開けて、実際に自分の足を降ろしてみたならば、底なし沼のように引きずり込まれてしまうことだろう。

 ようやく脱したか、と、乾いた土が目に入るようになれば、それは尻を突く振動の始まり。がっくん、がっくんとアクセントを違え、時に大きな岩でも蹴っ飛ばしたのか、いきなり上体がのめり込んで前の座席に体を打つ。これはいつぞやの、アレの報いか――なんて、みんな同じ思いだろうかと想像しながら、いつ終わるとも知れない試練の道をゆく。

 そんな道中、川を渡ることが三度あった。

橋を通るのではなく、車ごと船に乗っての川越えだ。今現在その道をグーグルで見てみると、おそらく状況は変わっているのかもしれない(橋が架かっているように見える)のだが、ともあれ時は2006年。その、三番目の箇所においてだった。

 ――ああ、また船だ。「また」って別にイヤじゃない。この、大地にまさにダイビングする感ありありの、起伏豪勢な道中において、それは迷惑どころかほっと息抜き、いや「息継ぎ」といっていい時だ。

車ごと乗る。…からしてもちろん三日月のような小舟ではなく、とはいえ宮島へと渡るフェリーとは比べるべくもないが、一般車五台はいけるかという、こじんまりした屋根付きフェリーだ。今度も、(二度の川越えのように)おそらく十分かそこらでしかないだろうと察しがついたが、とはいえ船旅は船旅。みんなに続いて車から出てみると、頭痛がすうっと引くようだった。――風が、透き通っている。

 車中、全開だった窓からは土埃がずっと容赦なく舞い込み、顎に震動を受け止め続けながらの外の景色というものは、目に入っているようでもうつろの彼方に飛んでいた。風に「優しさ」など感じる余裕はなかった。

なのに、この静まりようといったら。手のひらを返したように、いま、川面を乱すのは我らの方――この船だけだ。とはいえ、エンジンを吹き波を作ってはいるが、水の上というのは優雅なもので、まるでゆりかご、まるで穏やか。「ワルツ」を導く指揮棒の動きだ。

震えることのない、青空とたなびく白い雲。岸辺で風にそよぐ、草木の緑を心朗らかに眺めることのできる「今」を、じんわり噛みしめるように、…深呼吸。――つかのまの、穏やかな世界に酔う。

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 こう落ち着いてみると、凛とした空気とは対照的に、澱んだガスが溜まった自分にも気付いてくる。…疲れたのだろうか。体力がかなり吸い取られている気がする。まぁ、あれだけ揺られたんだし…とはいうものの、思った以上にぐったりしている感がある。悪路に耐えながらの移動なんて経験は初めてではない。そんなにウブヤワな体ではなかったはずだが、と妙に思ったが、――あぁ。そうか、と気が付いたのは、「イモ」が視界に映ったからだ。――腹が減っているせいなのかもしれない、と。

 焼き芋だ。しかも、紫芋

数分であれ、水上にてぼーっとする時間がある以上、「なんかつまみが欲しい」と思うのは人の人たる所以であり、そして、そのかゆいところに手を差し伸べてこそ商売人。いっちょ前に、甲板の隅には小さな売店スペースが設えられており、また別に、ポテトチップとかの袋入りお菓子を載せたお盆を抱えて、「どうスか?」とお客の前を歩き回る小さな売り子君もいる。グローブを握りしめて公園に駆けてゆくような、帽子を深く被る少年の姿に、「それらは果たして回転はいいのか」という疑問などどこぞかへ飛び、偉いねぇキミ、と、うっかり買いそうになったりもした。

 が、情を振り切って、「イモだ」。甘いんだろうか、という興味に、自分の生気が戻ったような、体内の血の巡りを感じる。どうせ食うならば、どこででも買える袋菓子よりも、大地の収穫物たる実感あるものの方がいい。そういう理屈っぽい欲って、疲れていてもギラギラしているモンだな、なんてさもしさを感じながらも、まぁいい、売り場の方へ向かってみる。だが売り手にとって、それは「ついで」に売る、オマケみたいな存在のようで、メインに売りたいのは、テーブルの板目をほぼ占めている、四つほどの「ナベ」であることは見て分かるのだが、…いまは小物でいい、小物で。

 ナベ…、ねぇ…。

テーブルを挟んで女性が二人、我ら乗客の方を向いている。そこだけ切り取れば、市場の惣菜売り場によくある客待ち場面だ。

 ナベというからには、中身は「オカズ」じゃないのか。

敢えて、というようにずらされている蓋の、その中を覗いてみると、茶色だとか褐色だとかの色に染まった、ゴロッとしたモノと汁。どんなオカズが?…などと、その詳細に対する好奇心よりもまず沸いたのは、

 …誰が食べるの?

訝る気持ち、だろうか。腕時計に目をやれば確かに昼時。仕事や勉強はもはや二の次、生きる糧を、喜びを手にするべくメシに突っ走る、という時である。

 だが、今は船の上だ。

しかもちょっとの間でしかないのだろう。風に吹かれてリラックスしかけたところで「え、もう終わり?」だろうに。東南アジア最大の大河・メコンにしたって、町から町へ移動するというならまだしも、「渡る」だけなら大した時間じゃない。食事をしようなんて発想もないだろう。

早食いになろう。しかも椅子もなさそうだから、立ち食いか。いくら静かな景色だとはいえ一応は船の上であり、足元がふらつかないこともない、全くもって落ち着かない状況だ。おっと手が滑ってオカズ落とした、なんてなりそうではないか。そして食ったところで、またガクガクの道中が待っていることだろうから、余韻どころじゃない――とか、一瞬でヤな結末までが走馬灯のように駆けてゆく。

 そこまでして…と思う。それよりも。ソレよ、ソレ。今まさにうってつけなものとは、と、その輪郭を明確に目が捉えているのは、「イモ」。焼き芋だ。冬の相棒。ストーブの友。

 小ぶりなのが三つ、そのわき腹を串で貫通させて団子のようになったのが、五本か六本、七輪の上にまばらに置かれていた。齧るだけでいい、こういうものこそ、こんなドサクサした状況に相応しい。

 焼き芋は、アジア各地で実にポピュラーな間食である。市場の隅っこ・低い位置で、火鉢に掛かる網の上にゴロゴロ寝かせたのを、几帳面に裏表と可愛がっている場面を目にすれば、親近感も湧いてくるというものだ。――が、「イモはイモ」。 

旅とは、自分にとって「外の世界」に在る時だ。「お馴染み」に甘んじるヒマが腹にあるなら、未知なるオカズを一品でも多く詰めるべし――と、その前を素通りするばかりだった。だが今こそ、素直になろう。

ホントは興味があったんだ。こちらの焼き芋って甘いんだろうか。『イモを食う時は、熱くあって然るべし』――クソ暑い真っ昼間でも炭火の上に在るその背後には、食には妥協するつもりはない、との人々の信念が映るようで、実に頼もしい。

見れば見るほど、腹が減って来た。こんなハードな移動中に食べ物を買おうなんてのは、私ぐらいなもん?、とチラと周りを見ると、欧米人旅行者も、リュックの中に忍ばせてあるチョコバーなんて引っ張り出すことなく、イモの隣に並ぶバナナを買っている。でもイモとバナナならば、私は当然イモ派。横にゆで卵もそういえばあるんだけど、イモったらイモである。

 ハッキリ言って「ナベ」なんて迷いの片鱗にもかからないのであり、一体、それはいつ売れてゆくもんだろうかと他人事ながら心配でさえある――なんてのは、全くもってお門違いもいいところだった。

 ……たかっているではないか。

店の女性二人とも、素早く腕を上げ下げしている。

たかっている、とはいっても、その時船に乗る車とは我らのバンのみで、他にはいなかった。つまり同乗していたカンボジア人・ちびっ子含めて六人が皆、ナベの前に立って「それと、コレ」などと指を差しているのである。

そして、テーブルの後ろにも鍋が一つあるようで、そこからしゃもじのようなスプーンですくい上げたのは、あぁ、「ご飯」か。

 まず一方の女性がスチロールの白いパックにご飯をフカフカと盛り上げ、もう一人がその上に、指定されたナベの中身をすくいあげて、かける。炒め物らしい野菜の葉っぱが見えるパックを受け取るとスグに頬張りながら、山に登る人がよく被っている、ツバのヒラヒラとした帽子のドライバー兄ちゃんはその場を離れ、次のおばさんも弁当を受け取るのは早く、その次のおじさんもまた悩むことはない。あれよあれよと…っていってもまぁ五人六人なんだけど、こちらがイモを実際に手に取るよりも前に、売り場は何もなかったかのように静まり返ってしまった。

「……」

女性も女性で、何か買いたそうな私に対峙するものの、「ご飯じゃあない」と分かっているようで腕に構えが全くなく、あの素早さも、既にさやの中に収めてしまったような感がある。失礼な、ってまぁ正解である。「ご飯を食う」意気込みなどすっかり逸していた私は、「彼ら」の騒ぎ(?)を前にしてもメシとオカズを頬張るイメージをやっぱり掴みきれず、当初の予定通り「このイモ下さい…」。 

でしょ、とばかりにお姉さんは、指さしたイモ串をつまみ、厚めのビニールに入れると同時に、その串をスルっと抜いた。

「彼ら」はどこへ――というと、手すりに寄りかかり、風に吹かれてああ気持ちイイ、とか言っている場合ではもちろんなくって、座る場所、つまり車の座席に戻ってその中身を顎でかき分けている。車から離れているこちらにまで、ガツガツガツ、と、臨場感届く食べっぷり。

ジッとその目に映るのは、ご飯。そしてオカズ。川の流れでも山の声でもない。

ご飯の国の、人だもの……。

 

案の定、十分かそこらの船上であったが、確か一番乗りで弁当を手にしていたドライバーは、エンジンをかける頃には食べ終えており、その他はもう少し余裕をもって、暫くモグモグと頬を動かしていた。ワゴンだし、後ろから二番目に座っていた私は、おもちゃのようなペラペラのプラスチックちゃのような製レンゲの動きがよく見えていた。

 ザックリすくって、バックリと頬に含んで、モグモグモグ…

老いも若きも…っていうか、繰り返すけど六人ぐらいだったんだけども、中年おじさん二人とちびっ子を抱えた若いお父さん。体格の良い、女子柔道を引っ張る体育教師のような女性――みんな快活な、ほっぺの動きだ。ちびっ子も、パパのものを分けて貰うというわけでもなく、自分の弁当をかっぽじっていた。

 …本気だ。

匂いが、こちらの脳みそに鮮やかに色をつける。

食べる人なんているんだろうか――どころか、いま、どうして私は食べないんだろうかと思えて仕方がない。イモだけ、そしてバナナだけで済まそうとするなんてのは、外国人チームだけである。六人のうちの一人二人は、イモを買っていったようだが、それは弁当を食った後のオヤツ、或いは手土産という感じ。

なんとなく、敗北感。腹を案じて氷入りのジュースはもちろん、たとえ大繁盛であっても、大衆食堂は衛生状態を心配して絶対避ける、現地のスタイルとは一線を置いた潔癖なる旅行者の類になっているようで…。

「…うん。焼き芋の味」

紫イモだからって特別にどうということもなく、想像通り。香ばしく、十分甘い。――けれども、その単一の味で満足するには、周囲から発される匂いが賑やかすぎる。オカズという捻りでご飯をガッつくという「合体」を、私もやりたい。変化が欲しい。ヒトが調理したものを、私も食べたい…。

靡く髪の毛に旅情を鼓舞されて、心に仕舞ってあった大好きな音楽を引っ張り出しながら、川の上流に思いを馳せて一句詠もう――なんてするならば、そりゃイモやバナナが最適だろう。片手にあるだけで、高まるウットリ度数に水を差すことも無い。 

 ――が。

…そうじゃないんじゃないか。

ただ片手でイモを齧るしかないという、まるで突然サルになってしまったかのようなこの、隔絶した感といったらどうだろう。…そうは思わんかヨーロピアン。イモやバナナで済ませる我らの「昼食」の、なんと貧弱なことだろう。

ビニール越しにあるイモのゴツゴツした感触が、なんというか、……ただ、侘しい。って、イモもバナナにも全く罪はないのだが、それは「食事をした」ということにはならんのだ。

 そう、座るところが無いとか足元ふらついて落としたらどうしようとか、そういうことは「何を寝ぼけているのか」なのである。真実はただ一つ・「いまは食事の時間」である、ということ。

たかが10分程度の乗船中にオカズ屋を広げるという発想に呆れていたものの、10分の停止時間があれば、乗り込んでいた人たちは車の中から出て来る。考えてみれば、車で走っている人の「止まってみようかな」と気まぐれが起こるのを待つよりも、商品を見て貰える確率とはよっぽど高いのだ。いったい昼メシ時に何人が川を渡るのかしれないが、昨日今日思いついたわけでもない、商売になるからこそ「いつものように」店を出しているおばさん・お姉さんなのだろう。

 

 ガタガタと尻が浮く道はそれからも続き、滑らかな道路が出現したのは三時間も後だったろうか。イモを食ったおかげで多少頭痛は軽くなった気がしたが、やっぱイモじゃ足りないのか、というほどにヘトヘトである。まともに食う人々が大正解。たくさん食べても、車に酔ってもどす人が出てくるんじゃないかと危惧したが、そんなヤワじゃないし、という人が揃っていたのか、ちびっ子もまたへっちゃらのような、すました顔をしていた。

「ご飯が主食である」とは、ということを思い知らされたようだった。それまで「ご飯?主食にきまってんじゃん」なんて、いちいち思わないほどに身近な存在としてそれは自分の中に在ったはずだが、お門違いに思えてくる。そう、「格」が違う気がした。

 

それからはもう、「ご飯」一直線の日々。「過ぎたるは…」と自身へ警鐘を鳴らしながら、セーブしながら……なんて体重増加への躊躇など、日を経るうちにいつしか忘れてしまう。目の前の誘惑に抗えず、どっぷりとはまってゆくのだ。自分も「ご飯食い」と化してゆく――そのさなかにふと、私の脳裏にはあの「もぐもぐカンボジアチーム」の背中が蘇るのだ。そりゃ、「ああなる」わなぁ…。

――ご飯を食わずには、いられないのである。

カンボジアって、そういうところだ。

 

                             (訪問時2006年)

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