主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

真面目食堂 ~ソクチャン・ベトナム

 ソクチャンは、ベトナム南部のメコンデルタ地域にある町の一つ。サイゴンから南西に車で四時間半~五時間、約220キロの距離にある。

……と紹介するのが簡単だけれども、メコンデルタ一帯を巡っていた私は、そのうちのミトー(サイゴンから南西約75キロ)という町からやってきた。朝四時にバスが出発するというから、三時には起きたのだ。前日にターミナルで訊くと、その時間しか教えてくれなかったのだが、行程三時間程度の一応「近郊」だろうに、なんでこんなに早い時間になるねん。

 と、そこはまぁ、イケメン&働きモンの車掌に免じるとして、この町にもまた、目に釘をガッチリ打ってくれる、キラキラ宝石箱のような市場があった。水しぶきを飛ばす、タライの中でうねるメコンの幸や、緑のグラデーション鮮やかな、背をピンと伸ばした香菜。艶っツヤの野菜・果物あれこれ。

 どの町でも在るもの、見るものである。だがどこでだって、男女問わず「美人」には無関心でおれないように、何度見ても見惚れてしまう。美野菜、美魚、美肉、…美市場。「美」は即ちものが新鮮であることに加え、それらを扱う人たちの仕事っぷりにも当てはまる。それがまた、輪をかけて美しい。

特に魚捌き。――の中でも呆気にとられたのは、カエル捌きだ。

 何匹いるのか、タライにビッチリ蠢いているカエルたちは足を束ねられており、仕事人はその中から無造作に掴んでは、その頭をジョッキン。

……エ。まるで、七夕飾り用の紙でも束ねて切るからのように、まとめて切り落とす。

次に手を切り、皮をはぎ…。カエルの変遷自体は美しいというよりもグロいのだが、ショートヘアのお姉さんは、実に冷静、一分の隙も無く、慣れに慣れた手つきでもってスマートにカエルを処理してゆく。書類をまとめるエキスパートの事務員さんと、さして変わらないその後ろ姿であり、カッコいい。

そして、頭が無くなっても――カエルってば動いているモンなのだと初めて知った。「大物」の胴体だけが、床にちょこんと座っているのを見た時は少々寒さを覚えたが、果たしてこの時、頭と胴体、どっちに意識があるのだろうか。…どっちにも、か?突然の事態に、気付いていないのだろうか。……いつ、「死」に気付くのか。いや、死ぬのか?…死とはなんぞや、と深みにはまってしまいそうになる。

 たまたまか、それともここで、十一月とはこういうもんか、昨日も今日も、カッとんだ太陽は見えず、もやもや雲のどんより模様。とはいえ「涼しい」とは思わず、梅雨のような鬱陶しさで汗がニヤニヤ滲んでくる――が、市場歩きのどさくさにそんな不快感は紛れて飛んでしまい、午前中はゆうに潰れてもうホラ、昼飯の時間だ。

 

 行先は、この町に来て初日に目を付けた、市場近い食堂へと行ってみる。食堂といっても常設ではなく、開店は昼限定の「屋台」というべきか。

路地の脇、奥の建物から張り出している大きなテント屋根の下に、大きなステンレス台をL字に構えており、オカズが入った大きなボール容器が七、八個、その上を埋めている。隅の方には、まな板や、鍋のかかったコンロもあるから、この場で作りながら提供しているのだろう。

結構な調理用具、頑丈なステンレス台からして、いつもここに据え置かれているようであり、奥の家は店のヒトん家なのかもしれない。オカズ台の周りには、会議室用のような長テーブルを組み合わせたのが三列あり、結構な人数が座れるようになっている。というか既に、混んでいる。

「地元の人気食堂」となれば、こちらとしてもタッチしてみないとどうにもムズムズする――けれども指くわえて見ているだけ、で終わっていたのがソクチャン到着日。残念ながら、到着際に車内で食ったトウモロコシ二本が腹に効いて、断念した。「到着日」とは、「犠牲の一日」。ペースがつかめず、様子見で終わるもんである。

 ともあれ、小さな店の多くがそういうモンであるように、家族でやっている食堂だ。とりどりのオカズが並んだ台の前に立ち、「これがいい」と指さす客の注文に応対するのは、三十~四十代の、お団子に髪をまとめた女将さん。まるっこい目、その顔つきには、お隣カンボジアの人達が想起されてくるようだ。

 おかずを盛った皿を、テーブルに配膳しているおじさん――は、旦那か。白髪混じりのおじいさんは、氷の入ったお茶配りに徹している模様。

また、女将さんと同じお団子ヘアスタイルだが、より白髪の多く混じった女性がいる。女将さんの手が回らない時はそれをアシストするが、定位置はレジ係・金の受け渡しを一手に担っているようで、となればおそらくこの店で一番権限があるヒト、ということだろう。

二人は顔立ちからして親子であるのは明白であり、料理に直接タッチする店の主砲。男性陣は、家族……に見えて実は「お手伝いさん」なのかもしれないが、配膳などのアシスト係に徹している。また別に、菅笠被った別の女性も配膳に加わっているようで、それは「お姉さん」?

……よく分らんけど「一見」、四人プラスお姉さん、つまり、夫婦と姑夫婦&里帰り姉がやっている店、ということにする。

 ベトナムでは夜も開けるか開けないかという早朝、つまり涼しいうちから早々に活動タイムに突入しているせいか(朝五時に、通りをシャキシャキと歩く姿、というのは珍しくない)、一般の昼飯時間もこちらの感覚よりは早めのようで、12時頃に食堂に行ってみても、オカズの入った鍋やトレイは既にカラ、或いはほぼ残り僅かという状態がたいていあり、見たところ11時がピーク。「選びたい」ならば、それよりちょい早めに行くのがベストだろう。

 というわけで意気込んで、そういう時間にやってきた。

食っている姿、というのは誰も彼も「真面目」だ。おしゃべりに来たのでも、打ち合わせの為でもなく、ボーっとするわけでも悪だくみするわけでもない。ただひたすらに「食べている」。老いも若きも男も女も、「食べる」ただその為だけに此処に来て其処に座り、示し合わせたようにみんな揃って「食べている」。それ以外の寄り道の無い、キッとした表情で。

冗談ばっかりふざけてばっかりの、普段は「真面目」なんて部分が一切見えないヒトであっても、きっとこの時ばかりは個性は無いに等しい。――という面々を見ていると、相当「当たり」な処ではないかココ、という気がした。

 ベージュ、赤茶色、焦げ茶色、…。色合い微妙に違えて並ぶオカズのうち、濃いほどに惹かれるが、とはいえ色薄くとも不意打ちに結構いけるのかもしれない。さぁどれを選ぶべき?染まり切ったゆで卵、角切り豚バラ肉が頭を出した鍋。骨の外れかかった鶏肉。魚と分かるぶつ切りされた胴体――メコンの幸、いってみるか、やはり。

 真面目な人々に立ち向かう女将さんは見るからに忙しく、スキがない。

「○○頂戴」とやってくる客の注文は確かに聞き取っているらしく、頷いてはいるが、目は常に手元の鍋やボール、皿に落としたままである。顔を向けるヒマがないのだろうが、私の場合指を差して注文を伝えるから、もう少し上向いてくれんだろうか。「こんにちは」とまず切り込んで注意を引っ張り上げ、ハキハキ意思表示を続けていかないと、「相手にしている場合じゃない」と無視されてしまうかもしれない。

緊張するが――。

と、すばやかった。場違いにやってきた「挨拶」に対して、レシーブする選手のように反応し、その顔には「メイワク」とかいう文字もない。私が「コレください」と続けるのに対して「うん、うん」とつぶらな瞳で頷いてくれた。

 

 さて、運ばれてきたのは、平皿一面に載ったご飯。と、プラ製小丼に入っているのは、魚の煮込み。ベトナムのオカズ屋では、ご飯にオカズをぶっかけて提供するところもあるが、ここはオカズとご飯は別々に盛っている。

うん、これがいい。まぁぶっかけられてもヤじゃないが、最初からそうなっていると「為す術無い」感じがする。というのは、煮汁の色や、それに浸かっている具のシルエットを眺めたり、汁だけを啜ってみたり、それを口に含んだあとでご飯を食べてみる――とチビチビ段階を経てから、ようやくご飯の上に載せてゆく。それも塩梅をみながら、自分の好みの具合に、少しずつご飯と混ぜてゆくのが好きなのだ。

 そしてまた、他の人の皿と同様に、ご飯の上には黄緑色の葉っぱが載っていた。一見、よくフォーやブン(汁麺料理)に載せて食べる、ミント等のハーブ類かと思ったが、なんだキャベツであり、しんなりしているのは、その艶からすると油で炒めてあるようだ。

あとは、小さな椀にスープがついている。緑のプラスチックがそのまんま映る澄んだスープに、白く半透明なサイコロ切りが沈んでいる。冬瓜だろう。

 さぁ。じゃあ、…やっぱりまずはスープを一口。汁物を出されたらば、つい「冷めないうちに」と先に手を出してしまう私だが、ここ・ベトナムでスープとは、食事の終わり際になってやっとその器に手を振れ、ご飯の上からぶっかけてサラサラ「最後の締め」として一気に平らげる、というスタイルが一般的のようだ。味はいかにも「スープのもと」製であり、見た目通り、すっぴん的にシンプル。

 気が済んだところで、メインの魚へ。

色の変わった青ネギがくったりと絡まった魚の切り身は、モトは鯖ぐらいのサイズだろうか。結構大まかにぶつ切りされて、三、いや四切れは器に入っている。ナマズ類には見えないけれども、やはり川魚の、なんとなくのぺっとした顔だ。

 ベトナムで魚の煮物というと、汁気が無くなるほどに色濃く味濃く、ひとカケラであってもご飯がバックリといけるほどに煮てあるのをよく見るけれども、これはもう少しほんのりゆるく濁った茶色で、表面には煮汁には魚の脂がプツプツと浮いている。

 添えてある大きなスプーンで、その身の端っこを押し切り、煮汁と共にすくって食べると、「あぁ、これこれ」と体が呟く。根拠不明の「安心」がポッと胸に現れて、話し相手もないのに顔が緩み、何処かへと微笑みかけてしまう。

身体が呼応する、まさしく「煮魚」としての味。知っている味だ。脂がのり、ブリンとした身のはねっかえりがまたいい。しっかりとした味つけだが、濃すぎず、汁もまたそれだけで飲める。飲みたい。

魚とご飯、汁とご飯、とつついてゆくうちに、完膚なきまでにペッチャリ潰れて昇天した「トマト」を見つけた。

 トマトぉ?……とはいえ、その酸味などみじんも感じられず、醤油甘辛の中に潜り込んでしまっている。――が、単なる甘辛にしては何かビビッドなものがあるから、それか。…くたばらず、見事に「隠し味」として生きているのか。

 諸々をチビチビ混ぜ合わせ食べてゆく中で、ご飯に載せられていたキャベツに遭遇する。煮魚を口にした後ではその素朴な甘味が妙に引き立ち、歯応えといい、まさに箸休め的なアクセント――どころか癖になるほど旨くて、丼一杯、ご飯と同じぐらいのカサが欲しい。

 これは――「真面目」になるわなぁ。自然と。

ヒトはまともに食う時、すべからく真面目になる。ふざける、サボる、とムカついてくる相手には、説教よりも「旨いもの」が一番効くのかもしれないと、部下を持った覚えもないのになんとなく悟った。部下?……いや、何かとサボりたがる、自分のことか。

 が。……何か、足りない。

 ――お茶。

ジョッキに入った黄色いお茶を、爺さんは片手に三つも四つも持って歩いているくせに、私の前を後ろを素通りしてゆくのである。……ナンで?というと、あれは有料か。「欲しい」と言わないとくれないのか。

 ……いいモン。

 水はペットボトル入りのを持ち歩いているし、そう、スープもあるし。この完璧な取り合わせの中でスープとは、メインに干渉する気などさらさらない、面白味のない「シンプル」な味であって正解。まさに「喉潤し」の役割にとどまって、恥じらうように底に沈めているクリスタルな冬瓜の、涼し気な見た目、その奥ゆかしさを、愛でてやっていればいい。

だからお茶なんてちっとも。有料ならばなおさらに、……要らないモン。

 後ろの方で金を握ったおばあさんが、キリッとした横顔で店を俯瞰している。その姿はまるで、棍棒を握る仁王サマ――というにはやっぱりこちらもクリッとお目目で童顔。カワイイ。ハクを出しているのは白髪ぐらいなんだけど、店が回転するその中心に我ありと、「山の如し」的な威厳が漂っている。その監督の下でほいほいほいほい…と机、椅子、そして時に突拍子なく飛び出ているヒトの足の間を、ちょこまか縫って歩く旦那と爺さんは、仁王さまのなすがまにまに、というべしか。

 浮かんだのは、『レモンスカッシュ』。

ジョッキにツブツブと垂れる水滴。…淡い黄色に氷が斑に入り、何とも爽やかに映るもんである――

 あまりに美しい、クリスタルなお茶。それを、蒸し暑いなかでチューチュー(ストローで)と、氷の隅の、端っこの端っこまで茶を吸い取る人々の、その真面目な姿には真に迫るものがある。

 

「チャーダー(=冷たい茶)?要るの?」

頼んでしまった――のは、翌日。

もはや、ケチっている場合ではないだろう。

                             (訪問時2009年)

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