主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

豆乳おばさんとドーナッツ①~バンコク

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前をじっ、…と、見ている。

バンコクの、とある交差点の近くにて、丸椅子に座り、低くもなく高くもない、肘を置くのに丁度いい高さのテーブルを前に、横断歩道を行き交う人や、左右から横切る人を眺めている。

時折、テーブル傍らの鍋のふたを開けて覗き込んだり、引っかけておくべきビニールを補充するためにその背をかがめたりするが、たいてい、前を向いて頭は動かさず、細い瞼の奥にある瞳だけをキョロっとさせている。唇はキッと閉じられたままの一定な表情で、誰かとお喋りに花を咲かせる、という場面も見たことがない。

浮き立つ、明るい赤の口紅。おかっぱ丈の、もじゃもじゃ髪。イメージとして浮かぶのは、「観音様」の絵だろうか。…とは言っておくけれども正直一見してはまるのは、昔流行ったバラエティー番組「オバ○リアン」―――自己中心的で、動作はなりふり構わずヤケクソ的、とかいう年配女性への偏見の塊――のイメージなんだけれども、思い起こしてみればいつも身だしなみには気を遣い、その動作は楚々としていた。訪バンコクその時々によって多少長さは違うが、髪の毛は常にパーマを心がけているようで、たいていウエットに整い、カチューシャでオデコを出すのが定番。ポッチャリしたお腹を誤魔化したいのか、いつも緩めのシャツを着てはいるが、お父チャンと兼用などといわせない、襟首には装飾があったり、金色の大きなボタンがアクセントだったりの、れっきとした「婦人服」。そしてロングスカート。ズボンは確か、見たことがない。通常、近所内のスーパーにしか出入りしない母が、月に一度、町中心部の大きな銀行に出かける時のような「ハレ」の格好、とでもいおうか。

珍しく、閑古鳥だろうか。その横にちょこんと座っている私は、今はただ一人、丸椅子に座るここの客である。

こちらの視線にはとっくに気づいているだろうが、「なにか?」などと目を合わせることはない。ただ道を眺め、そのついでにこちらが視界に入っても、途端にすぐ流れてゆき、「どうして一人でいるの?」などという、旅の中でしばしば向けられる問いをかけよう気もないようだ。まぁ、一発で外国人とわかるから、話が通じないとハナから思っているのかもしれないが。

自然に放ったらかしてくれる、という感じなのがいい。見られていることに逐一反応されないから、こちらも遠慮なくジロジロと観察する。

豆乳を飲んでいる。いや、飲んでいるというというよりも、プラスチック製の汁椀にそれは入り、ステンレス製レンゲを使って、啜る。温かく、しかも甘い。かつ中に「具」も沈んでいるからして、単に飲料と言うよりも「デザート」、そう、ぜんざいを食べているような趣がある。

豆乳はもともと好きじゃない。というより、何故飲むのかナゾと思うほどであったのだが、お椀に入ったぜんざいスタイルというのが思うにミソで、「甘いもの」の外見だとつい手を出してしまうという、私は甘党。これが単にコップだったならば、あまりとっかかろう気が芽生えなかったかもしれない。実際、その液体はざっぽり甘いし、日々、常識とばかりに購入してゆくここの人々に倣い、自分もトライを繰り返すうちに豆乳の味にも慣れ、「飲みたい」気持ちも生じるようになった。

くじ引き箱のような大きな容器にたんまりと入っているのは、グラニュー糖。まず、その中からレンゲに大盛り一杯ザバッ、プラス気持ちチョロッとを汁椀の中に入れたら、火鉢の上の寸胴鍋になみなみとある白い液体を、注ぎ入れる。湯気をたたせたミルク色の汁は、見ているだけでなんだか、優しい…。

おそらく薄めているのではないか、「豆腐」を即想像するまではいかない、豆乳自体はあっさりめの味だ。…と、口に入れた瞬間は冷静に味の分析をするものの、湯気に撫でられ、甘さにほだされてゆくうちに、心もほんわか絨毯に転ぶ。沈んでいる具の食感に遊ぶうち、これはイイ、という気がしてくる。豆乳とは朝と晩に定番なもののようで、特に朝っぱらの寝ぼけた頭を包んでくれる優しさには、「ホッとするわぁ…」。その心地よさが「美味しい」へと転換されてゆくのは、そう難しくない。

ちなみに、「具」ってなんぞや。

選択肢は四つある。まず、粒をバラした「トウモロコシ」。奥サマの真珠玉のような、透明な「タピオカ」。そして最初煎り豆かとも思ったが、「蓮の実」。もう一つには、コレ、私の好きな「カエルの卵」。…なわけはなくて、黒ゴマの周りを透明な膜が張ったような、不思議な粒で宇宙的。のちに知ったことによると、正体は「バジルの種」で、種を水に浸けると一体何を思うのか、半透明な物質を出し、膜となって粒を覆うらしいんだけれども、見た目は「カエルの卵」だ。わらびもちのようにネチッとして、噛むとプチッとキウイの種のように弾ける感触が面白い。もちろん正体を知らずとも「カエルの卵」などと本気で思うことなく、「…に似たもの」と思って食っているのであり、もし本当にそれが本物(「カエルの卵」)だったとしたら、私は自分をどう解釈するだろうか。

テーブルの上に据え置かれた、水槽のようなガラスケースには、直径一二、三センチの丸い容器が四つ並んでいる。これはもとは弁当箱で、アルミかステンレス製のそれを、ちょうど出雲の「割子蕎麦」のように二段や三段に重ねて持ち運びするという、この国独特、…というよりこの近辺の国々(タイやラオスベトナムカンボジア、そしてインド…、)で良く見受けられるもので、お昼時に市場などをぶらついていると、一段にはご飯、あとの段には炒め物各種を詰めて花見弁当よろしく広げ、数人でつつく店員さんの姿を見かけたりするもんである。じゃあ今年の花見は…などと、発作的にソレ「欲しいな」と思ったりもするが、実用を目指して買ったものが、現在「飾り物」として埃を被っている棚の先住品幾つかが思い浮かび、成り行きが見えるから買ってない。旅先で「使いたい」「欲しい」と盛り上がった気持ちは、帰国すると、潮が引くようにスゥッと後退し溶けてゆくこと、いまは承知している。

ともあれ、使わなくなって家に持て余していたのか、その四つのアルミ容器に、四種の具それぞれが入っている。砂糖を入れた後、「具は?」とは喋らないけどその細い目で問うてくるから、一種類だけもいいし、なんと全種類入れて欲しい、と言ってもいい。要はトータルで「ひとりぶん」となる量を、おばさんがだいたいの感覚でヒョイヒョイと汁椀の中に(レンゲで)放ってくれる。

もちろん、具無しでもいい。そういう人も珍しくない。が、私としては「デザート」なのであるし、値段もなんと変わらないから(具無しだと、その分豆乳の量がちょっと多いようだ)、当然「要る」と言う。

どうせなら全部入り(ミックス)をと思うが、トウモロコシは日本で食べられる。最初こそタピオカも選んでいたが、次第に慣れてしまったから、それでカサ増しするならその分「カエルの卵」を楽しみたいと、たいてい何十匹分かをザクッとそれのみ。或いは蓮の実をプラスしてもらい、そのホックリ食感を楽しむ。

どちらかというと「アンミツ」と言う方が近いだろうか。いや、主役はあくまで汁だから、やはり「ぜんざい」か。…などといちいち思いながら食べる方が、ゆっくり座っていられるというもんである。ヒマなんだから。

 

無言だ。

気まずさなどはない。このまま時はスコーンと流れ続けて幾久しく、…と思いきや、おばさんの片手が、弁当箱に押さえられていた、小さなビニール袋の束へと動き、そのうちの一枚を引っ張り出した。

手でその口を擦って開いたらほんの少しだけ折り返す、…という動作ながらも、顔は真っ直ぐのまま。その視線の先を辿れば、人。とはいえ、ずっと人はパラパラと行き交い通り過ぎているんだけれども、いま束になって向こうから道路を渡ってくるその中に、よく見ればなんとなく、こちらを向いている気がしないでもない顔がある。こちらめがけて歩こう意思のある、ひとり。…あれは、きっと「客」ではないか。

目ざとい。どんなに多種多様な緑にまみれた山の中でも、「山菜」を探し当てる父の目は天下一品であるように、お客の気配を察知する能力は、伊達に商売やってんじゃないワヨ、ってか。観音様の目で分かりにくいけれども、卓球のタマを追う選手のような、或いはシンクロ選手たちの演技をチェックするコーチのような鋭い眼球で、実はずっと「客感知」のセンサーをピンと張っているのだ。

案の定、「その人」はお客として前に立った。そうして、テクマクマヤコン…と注文の言葉にふんふんふんとおばさんは頷きながら、しかし特に何か返事をすることもなくキッと唇は閉じたまま、下を向いて傍らの鍋蓋を開く。開眼するようであるのが、その置き場にオロオロする必要などないように、蓋のつまみと鍋の取っ手がヒモで繋げられ、取った蓋はぶら下がるようになっていること。オぉ…、バザーの時に、いいかもしれない。

先にめくっておいたビニールの口を、指でうまく引っかけて(口を)上に向けたら、そこ目がけてザバッと砂糖を気前よく。続けて、鍋からステンレスカップですくい上げた豆乳を、うまく注ぐ。「お玉」だと柄を持つ手が震えそうだが、カップの方が確かに注ぎやすい。

さすが、垂らしも零しもせず、またその口を締めるのも見事。金魚すくいのように、パンパンに空気が入るよう巾着に閉じると、輪ゴムをグルグルっと巻いてパチンパチン、どうにかこうにかして引っかけ、留める。単なるビニール袋でも、輪ゴム一つで液体を大人しく収めることができる。でもすぐゴムがはずれちゃうんじゃない?こぼれちゃうんじゃない?などというのは杞憂で、密閉されていることの完璧度は高い。初めのころはホォと目を見張ったものだが、この「ビニール詰め・輪ゴムグルグル」はジュース屋はもちろん、惣菜屋でオカズを持ち帰る時など必ず目にする、タイにおいて極々おなじみの技だ。(が、昨今ジュースに関しては、グルグルする必要のない「取っ手」がついたビニールや、紙コップが主流になってきている。伝統の技が廃れてゆくような、一抹の寂しさを感じなくもないが。)

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滑らかな動きでグルグル・ペチンと、三袋目のゴムを留め終わった。具は無しか?と思いきや、ビニールをまた開いて、今度はタピオカをレンゲですくい、ネチっとくっつくのをしごき取るように中に入れ、カエルの卵も何杯か詰めてから、それだけでグルグル・ペチン。「豆乳三つ頂戴」の注文にしてはちょっと言葉長めであったのは、「具は別にして」というオーダーが付いていたからか。具って、入れっぱなしだと悪くなるのか。麺のように、伸びちゃう、とか。

そうして、豆乳三つに具一袋を、脇に引っかかっている、これは手提げのついた大き目のビニールに入れて差し出し、引き換えに代金を受け取る。おばさんの表情は実に、常にクールだ。

と、既に次のお客が斜め横に立っていた。

その後ろから、顔を覗き込ませていた人が、私も買おうかな…と決めたらしく、手に小さな小銭入れを持ってチャックを引き、中に指を入れている。

ピッチがあがる。速いのは急いでいるからでもあろうが、全てのものが、最小限の動きで済むよう配置されているから、手が流れてゆくこと川の如し。波に乗って滞りがないのだ。ビニール袋が引っ掛かるその位置も、長年の経験から編み出された角度だろうと確信が持てる。

行列は人を呼ぶ。いったん集まり始めたら、目論んでたのか、というぐらいお客は溜まってくるもんで、横断歩道を歩いてきた人がみな、こちらに向かってきているのではないかとさえ思えてくる。ますますコトを加速させねばならないが、てやんでい、その手さばきはブリをさばく魚屋にも劣らないだろう。

人通りの多い場所だからして、見かけたついでに買う人もきっと少なくない。そして殆どが持ち帰りだ。テーブルを二つも三つも置くスペースはなく、おばさんの商売机と、他に丸椅子が二つ(おばさんのと合わせて二つのみ、という時もある)置いただけの小さな露店である。つまりはほぼビニール詰めだから、この場で食べる方が、お椀に注げばいいだけで手間がからないだろうに。…いや、お椀だと洗わないといけない。――なんて、どっちがラクか、などということはあまりに次元が違うと蹴っ飛ばされそうだ。ただ、やるべきことをやりこなす。

この調子だと、その砂糖入れの中の砂糖が空になるのはそう遠いことでもないのだろう。一袋(その場で食べる場合はお椀一杯につき)五バーツ(=約一五円)と、まことにもって買い易いし。

 

たかが「豆乳屋」、されど「豆乳屋」。そう、豆乳は、砂糖ドバァの「とっても甘くして飲む」という共通理解のもと、近隣のラオスベトナムカンボジアでも一般的であるのだが、なかでもタイではより浸透しているもののように映る。朝晩が定番であると述べたように、どの町においてもこれを見ることなしに一日は始まらないし終わらない。

ちなみに、ここのように具があっても無くても同じ値段であることがたいていである。先述したように、「具無し」の場合は少々豆乳量が増えたりするものの、それを考えても具はそこそこの量にすくってくれるもんだから、どっちがいいかというと、やっぱり私としては「具入り」の方がお得感あるように思える。気前イイじゃないのよ。だがそれはコーヒーの砂糖入り・無しに値段の差をつけるようなケチくさい、ささいなことなのだろうか。(…そういうトコもあるけれど。=ロシア)

だだがしかし。見ていると、「具無し」で買ってゆく人が少なくないのだ。「具があれば具が欲しい」というのは素人の考えなのかと思えてくるほどである。こんなに売れてゆくのに、具は果たして、弁当箱に入る量で間に合うのだろうかと思ったが、豆乳オンリーが殆どだから事足りるようだった。

その代わりに、である。

ひょいひょいと、オンザロック用サイズの小さなトングで掴まれてゆくのが、実はこの弁当箱四つの隣に並ぶ「揚げパン」である。トレイに山盛りに積み重なっても、すぐにその嵩を減らしてゆく…。

 

                           (最終訪問2007年)

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