主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

妖精の生地仕込み ~ディヤルバクル②

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トルコ南東部、ティグリス川上流に位置するディヤルバクル。その中心部は、「新市街」と「旧市街」とからなっている。

「新市街」はその名から察せられる通り、整備された大通り沿いに銀行や高級ホテル、大型ショッピングセンターや、超有名ハンバーガーチェーン店やカフェ、アイスクリーム店、ブティック等など、ツルッとした近代的なビルが建ち並ぶ、いわゆる「オシャレ」なエリア。ビジネスマンがこの町に出張でやって来るとしたら、おそらくここいら一帯をカツカツと歩くはずである。

が、私が滞在するのは、古代ローマ時代から建設されたという、世界第二位の長さを誇る城壁(「万里の長城」の、次)に囲まれた「旧」の方だ。

メイン通りには小規模な個人商店が軒を連ね、装飾品やら生活必需品やら諸々が並ぶ前を、人々がせわしく行き交う。

食料市場はやはり活気があり、こっちが、いやこっちのホウレンソウが、と物色している場面等、人々の買い物をする様子をじっと見るだけでも面白くて、ヒマは簡単に潰れてゆく。

石畳の道は迷路のように入り組み、その脇にはひなびた風情を染み込ませた小さな民家がひしめく中で、ジャミイ(モスク)とミナレット(塔が)が背筋を伸ばし、青空へ向かって光を得る。

 歩き続けていたくなる雑踏だ。

 

そんな旧市街にある、偶然に、というか「パン」に引き寄せられて入った「フルン」だ。

その具体的な工程を、改めて追ってゆくことにする。

「六時に始まる」と少年・S君は言ったが、実際「フルン」ではもっと早くから生地の仕込みが始まっている。

「六時」というのは、「その頃には、店のドアは開いてるんじゃない?」という想像であり、実際、一度も彼がその時間にやって来たことはなかったんだけど。

…マ、お金を管理するレジ係は、確かに「パンが焼き上がってから」じゃないとやることがない。

 

「パン作り」の工程を至極簡単に並べると、

仕込み→分割→成形→焼成

で、この間に生地の「醗酵」が入り込む。

まずは、「仕込み」。つまり材料を合わせ、捏ねる作業である。

「焼きたて」をゲットできる利点ごもっとも・店に入っていきなり「窯」がそびえ立ち、その前で作業姿を見せる窯係とは異なって、仕込み現場はたいてい「奥の部屋」にひっそりとある。まぁ、辺り・床一面を真っ白にする大きなミキサーを、客がごったがえす店頭に設える理由も無いだろうが、つまりはこちらから自主的に「どうも」と入り込んでゆく必要があるということだ。

しょっぱなからズカズカと入って行くわきゃない、こちらは「一見さん」である。よって、パン作りはここから始まるとはいえど、こちらにとっては単に店のドアを開くだけで出来る「窯作業の見学」がステップⅠとするなら、ソコはその次の段階・つまり、仲良くなって「お通り」を許されてからの、ステップⅡとなる。

小さな窓から漏れてくる外からの光をもとに、たった一人、黙々と作業をするNさん。その背中を見ていると、…ええと、なんというか―「妖精」。って見たことないけど、おそらくこんな感じなんじゃないだろうか。

華奢、に見える体つき。固くて冷たい、氷のような目をしたその表情――透明感ある美しい容姿は、人を簡単に寄せ付けない、神秘性なるものを漂わせている。外部との接触を絶ったような感じが「奥の部屋」とあまりにもピッタリきて、出会って早々私が抱いた印象は、Nさんとはきっと「人間嫌い」で、こちらからはすごく話しかけ難い人―

がどっこい、奥へと私を案内してくれたのは、Nさんの方からである。まぁ、窯のもとへと運ばれてきた、焼成前の生地を物珍しそうに凝視していれば、「興味ギンギンです」ことを言葉なしに訴えるに等しいんだけど、そんな私に頷きながら、「おいで」。一瞬、森に迷った子供に手を差し伸べる、それはまるで天使を見るようで、ドキッとした。――ふわぁ、と綿のように柔らかい、穏やかも和やかもいいヒト、であるのだ。

 

「小麦粉」、「塩」、「イースト(酵母)」、「水」――パンを作る上で、基本的かつ必要不可欠な材料。(とはいえ、塩に関しては、イタリアのトスカーナ州では、中世より「無塩」のパンが存在しており、現代では日本でも健康を理由に売られている)それらに、ここでは「ソーダ」・つまり「重曹」も加わる。ケーキやクッキーを作る時に入れるのと同様、期待されるのは「よりフックラ」という膨脹材の役目だろう。

「塩」は五百gで、「イースト」(生)はレンガ大の塊が三包み。「重曹」が二十g。

そして肝心の「小麦粉」は一回の仕込みで約五十キロ。粉袋一つ分であり、そのオモテには「ディヤルバクル」の文字。

地元産の小麦粉――「さすが、文明を育んだティグリス」。この地が古くから肥沃な穀倉地帯であるという、その「歴史詰まってるなぁ」感慨をこの粉から受け取ろうではないか。…ってトルコにおける小麦の生産地はここらに限るわけではなく、「地元」の粉を使う町などいくらでもあるのだが、やはりこのティグリスといえば「メソポタミア文明」であり、小麦の発祥の地とも言われているのだ。ここはその上流部にあるのだから、やはり古代に思いを馳せて唸りたくもなる。ちなみにこの店では、同じく南東部の町・「ガズィアンテップ」の粉も、よく使うらしい。

「コッチ」と案内されて、さらに奥へと進んでゆくとさらにヒミツの部屋があり、音楽室のような広さの中に、何列も、かつ天井まで届くほどに粉袋が積み上げられていた。生地を捏ねる巨大なミキサーの脇に何袋か置いてあり、それだけ見ても十分な量だと思っていたが、どっこいもどっこい。「フルン」なんだから、粉が大量に存在するのは当たり前なのだが、日本のパン屋とはスケールが違う。ひとつ五十キロの粉袋――てっぺんまで積み上げるだけでも、かなりの労働だ。これを見上げるだけで、ここが「小麦の世界」であることが実感されてくるようだ。

「すごいでしょ。」とS君もいつの間にか現れて、ハイハイ、とお客の対応に呼ばれてレジに戻るというのを繰り返す。おお、いい身分ですな。十時出勤か。…って、いい身分だったのだ。こまっしゃくれているのもそのハズ、彼はパトロン(=オーナー)の息子で、お坊ちゃまだったのである。イチイチと感心している様子をオモシロがっているようであり、私も期待に応え、幾分多めに驚いておくことにする。

 

 

粉をはじめ、材料を合わせてゆく。

円周は、大人一人じゃあ両腕をいっぱいに広げても足らんなぁというぐらいの、大きな業務用ミキサーである。そのうつわ部分の中へ、よっこいしょ、と、各種を投入したら、横から中へと突き出している水道の蛇口を捻り、「スイッチ・オン」。

――…ん?

何か忘れ物をしたような、ヘンな感じがした。

ユーホーキャッチャーの「腕」を大きくしたような、巨大なはねが回転を始めると、煙幕のように粉がモクモクと舞い、中身は徐々に混ざり合わさってゆく。――蛇口の水は、「出っぱなし」。

それで、どうやって「量」が把握できるのだろうか。

目安がハッキリとしない。ガソリンスタンドみたいに、ホースからいま出ている量というものが表示されるわけでもない。

パン作りにおいて、「水分量を微調整する」ことは特に珍しいことではない。…というか「当たり前のこと」であるのだが、ミキサー容器の中は捏ねくり回され、水を取り込みながら馴染んでゆくその上からもまだ、とめどなく流れる水…。

いったい、いつまで? 「垂れ流し」で果たして見当つくもんなのか。

更に驚くのは、完全に混ざりきっていない、粉を吹いている状態で水を止めてしまうことである。

だいたい、生地の構造がガッチリと出来る前・つまり捏ね始めてわりと早い段階で、水分調整をするもんだと思うが、それ以前の状態ではないか。しかもその後は一切蛇口を捻ることがない、ということが少なくなかったのである。

つまり、ある程度の「予想」が、捏ねくられているその動きを見ていれば、つく、ということか。

いま、生地がどのように混ざっているのか――その状態を、ミキサーの脇からつきっきりで凝視する。そして、「蛇口を締める」瞬間を見極める。とにかく必要なものとは、「感覚」「想像力」であり、どれだけ水って入れたっけ、の「メモリ」ではないのだ。…時間を早送りして先を読むパワーなどないこちらとしては、ナゼ、どーして「いま」がいいの…?―どこの部分で「コレでよし」と思うのか、何回見ても全くサッパリわからないが。

 と、胸かき乱されながらミキサーのスイッチを切ったのは、約十分後。

かなり水分の多めの生地であり、まるで搗き立ての「餅」。このまま砂糖をまぶして食べてもオススメなんだよ、とのことである。(ウソ) 

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捏ね上がった生地は、ドラム缶をまっぷたつに割って横に寝かせたような、巨大な「生地入れ」に移される。下にコロがついているそれをミキサーまで近づけたなら、バケツに汲んである「手水」(生地がくっつかないよう手に擦り付ける水。「餅搗き」の時の水を差すが、以降、ここでもこう呼ぶことにする)を、両の手の平だけでなく、腕・肩にもたっぷりとつける。

そうして濡れた両腕を、ミキサーの中にズブズブと深く潜り込ませ、底からえぐり出するようにして生地を持ち上げるのだ。腕に付着している水分は、ガッチリと組織が出来上がっている生地の中へ簡単には溶け込まずにすべるから、「えぐられた部分」は、わりと未練なく生地の塊から離される。ナルホド。

体勢をやや半回転させ、それをドラム缶内に落とし込むと、「ドスン」と、地響きじゃないけれども。…重かろう。それを、五回、いや六回、ミキサー内がカラになるまで繰り返すのだが、見ているだけで腰がビリビリと…って、そうです、ハイ。スイマセン私は見ているだけなんです。

 さて、そうしたら「休憩」ですか。というのも、「パン作り一般」では、捏ね上げた生地を「醗酵」させる為に、暫く放置しておくモンであり、その後、それをパン一個の量に「分割」(切り分ける)する作業が始まるモン――なのであるが、ここでは「捏ねたらスグ」らしい。「放置」のために時間を設けるつもりはないらしい。

「手粉」(生地自体や手、台などに、生地がくっつかないようまぶす小麦粉)を少々、生地一面に振りまいたら、その大きな塊に片手を突っ込んで、ひと掴み引っ張る。そして、その元を右手に持ったスケッパー(名刺二枚分程度の、生地を切るカード状の器具)で、「カンッ」と、刃をドラム缶内のカーブした側面に当てることで、生地を切る。

カンカンとやって切り離したら、それを秤にのせる。生地は「大」と「小」があり、大は一つ六百グラム。小は、その半分の三百グラム。合格ならば、すぐ傍にある、粉にまみれた台へと放る。

「生地入れ」に向かっての作業は、体をくの字に傾けた状態だ。生地が切り取られて中身が減ってゆくに連れ、さらに体は内部にのめり込む体勢となる。つまりラストに近づくほどしんどくなるということだが、生地を切るばかりではなく、放ったのが七、八個ぐらい溜まったら、台の前に立ってそれを丸めてゆかねばならない。

両手のひらを動かし、台にこすりつけるように。一個六百グラムはバレーボール…とは言い過ぎだけれどもかなり大きく、それを片手に一個ずつの、二個を同時に丸めてしまう。Nさんの手が、実際はけっこうガッチリしているにもかかわらず(容姿にしては、手だけはデカい)、巨大な生地のせいで小さく見えてしまう。――が、やはり「手」は生地に対しての「支配者」。バフッバフッと息を吐きながら(実際は手粉が舞っている)、大人しく丸まってゆく生地は、まるで手なずけられてゆく生物のようにも映る。お見事。

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丸まったなら、足元に積み重ねてある、長さ約三メートル・幅三十センチ程度の、トロ箱のような木製の箱の中へと収めてゆく。

箱の中には、その底面に合わせたサイズの白い布を敷いている。生地が引っ付かない程度に、軽く布一面に粉をまぶし、「大」生地だとひと箱につき五個を、間隔に余裕をもって入れる。生地が醗酵して膨らんだ時、生地同士が引っ付いてしまわないように。

デカい箱にたった五個――「なるべく詰めたほうが、箱が少なくてすむ=持ち運びがラク」。どうせまた成形(形づくり)するんだし、いまひっついたって大した問題じゃあ…などとスグ思う、私のような横着さは、ない。

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丸めてはトロ箱に、…いやトロ箱じゃないけれどもとにかく生地を入れて箱を重ねて、が繰り返され、どんどんと背を高くしてゆく。箱ひとつの高さは、丸めた生地よりも少々あるから、重ねたら上の箱に引っ付いてしまう、なんてことはないからご心配なく。

それがある程度・七、八段となったら、最新の箱と最初の箱を入れ替える。

つまり、いま丸めたばっかりの生地が入る「一番上に重ねた」箱を床に下ろし、その上に、二番目(その次に新しい生地の箱)を重ね…と上下を入れ替えてゆく。と、昔(最初)の箱の中身が久しぶりに顔を出す。

それと、「たった今」丸めたばかりの生地とを比較してみれば、明らかに「太ったね」。ひとまわり、緊張の糸でも解けたかのようなのっぺり顔で、「一箱五個にしといてよかった」と思える大きさになっている。

醗酵時間をおかない理由はここで理解できる。他の生地を丸めている間にもこれだけ膨らんでいるのだ。

粉・五十キロ分の生地と格闘するのはたった一人であり、分割やら丸めやらのアレコレの「間」を合わせれば、醗酵時間を兼ねてしまうこと充分なのだ。分割も終いの方になると、生地ははじめの頃に比べて、だいぶ緩んで柔らかくなっている。これで更に時間を敢えてとったならば、弛んだ贅肉にも匹敵する生地となり(過醗酵)、扱いが難しくなるだけでなく、焼き上がったパンにも影響が出るだろう。具体的には、弾力に乏しく、酸味が生まれ、醗酵の匂いが鼻につくようになる。

で、のっぺりしたならば、この場所は卒業だ。外の石畳までよく見渡せる、開かれた世界にデビュー、である。

箱ごと・その真ん中に取り付けられた取っ手を握って、窯のあるオモテへと連れてゆく。

ここの明るさに目が慣れていたからか、なんだか通路の向こうが妙に眩しい。「日の光を見る」―Nさんの背中に、そんなことを思いながら後をついて行き、「世界」に出ると、同時にムッとした熱が頬にやってきた。まさしく窯部屋だ。

箱の中から生地を取り出して、成形台に乗せてゆく。生地の下に白い布を敷いておくのは、この時、醗酵して更に柔らかくなった生地を、うまく移動させるためでもある。布を引っ張ることで生地を「ヨッ」とひっくり返しながら掌の上に載せ、それを台の上にポンと軽く放るのだ。手早く、かつ、潰さないように、優しく…。

そうして、カラになった箱をぶら下げて奥に戻り、また、分割の続きを始める。

仕込みから始まって、分割し、丸め、そして醗酵後の生地を受け渡す。ここまでの一連の作業が、「仕込み」係・Nさんの受け持ちである。

 

 ――オモテは、賑やかそうだ。「あの人だ」…と私も分かるほど、特徴のある常連の声であり、楽しい話で盛り上がっているのだろうと、仕込み部屋から想像する。

外からの光は入るから、それほどにここが薄暗いというわけでもないんだけれども、…それにしても一人というのは全部、「自分の動いた音」。窯の熱も届かない。

 寂しくないだろうか。

…なんて感じる余裕などない、か。忙しいったらありゃあしないのだ。重い粉袋を持ち上げ、生地の塊に相対する。分割し、丸めて、ひょいっと箱を持ち…と、常にあっちこっちするNさんだ。スムーズに見えるけど、それって息を切らせる時代を経て鍛えられ、体力を身につけたからこそ出来る動きだろう。きっと、空手選手に勝るとも劣らないはずであり、「華奢」などと、とんでもないのだ。

忙しさの中でイヤな顔など一つとして出さず、ことあるごとに「これは…」とその作業を丁寧に説明するこの人は、世話のかかる妹の面倒をみる兄のようでもあり、或いは、何度言っても「わからない」と首を振る児童に、足し算を一つずつ教え聞かせる、優しきセンセイ。…いやあの、会話の大半を本(トルコ語会話の本)無しで済ませられない私であり、「妹」どころか、ガキと言うほうがまだマシの、「赤ん坊」レベルである。あぁそれなのに。

涼やかな顔で「座ってなさい」なんて言われると―心が洗剤付けて洗われてゆくよう。ぶくぶくと泡立つ青白いシャボン玉は輪をつくり、その向こうでNさんが微笑んでいるのをただ、茫然と眺めている。

…なんて、いつのまにか不思議な世界へと片足突っ込んでいる、妖精Nさんのファンタジーワールド。

 

詳細・モトはこちら↓

https://docs.google.com/document/d/16_mXcq4W125HAqbGNHtwRDQARdTEtB76eWVcyGsSb8I/edit?usp=sharing

 

魔女のパン ~シェキ

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 アゼルバイジャン北西部の町・シェキ。ロシアと国境を接する、コーカサス山脈のふもとにある町だ。

夜十一時に首都バクーを発った夜行バスが、そのバスターミナルに到着したのは朝六時頃。ベトナムの市場ならば、既に脂ののった活動時間である。が、この世界はまだ薄暗いままに、シンとしていた。

町の中心部へと移動するマルシュルートカ(乗り合いワゴン)が動きだす時間まで座っていようと、ターミナルのベンチでじっとしていた。…と、妙に空気がヒンヤリする。どころか「寒い」。もう五月だというのに。

カフカス山脈のふもとの町、というのは分かっていたものの、まさか「もう使うまい」とリュックの底に丸め込んでいたマフラーを取り出すとは思わなかった。バクーではあたふたと地下鉄に乗り、銀行の場所に迷い、他国のビザを得ようと大使館に通いつめていた日々だったから、「自然」に対する想像力にイマイチ欠けている自分に気付き、改めて地図を広げてみる。

 掃除係のオジサンが、ベンチで震えているこちらに気付いて奥の待合室を教えてくれた。風が凌げるところで一時間弱うたた寝した後――はちょっと省略するけど紆余曲折あって、やっとの思いで民宿を探し当てたんだけれども、…ソコは、まさに「楽園」。

 窓にかかるレースのカーテンがヒラヒラと風に揺れ、日の光を受けて緑に染まる庭を淡くぼかしているのが、なんとも優雅だ。外を覗いてみれば、明かりのようにポツポツと咲いているのは、ピンクと黄色のグラデーションのバラ。真っ白いシーツに包まれたベッドのフカフカ度はこれまでになく、サイドテーブルには、これまた白いレースのクロスがかかり、ガラスの花瓶に挿してある赤いバラが、物言わず佇んでいる。

 ――私ってお姫様だったのか。ほっぺた摘まれるというか、映画のセットのようなシチュエーションに、いったい何をしたご褒美か、と、涙が出そうになった。

 

 美しい田舎町だ。特に夜の帳が開け、緑が光と出合う中を纏って歩くのは、何か上演されたものを見るようでもある。

 遠くで居座り世界を見守る山々の、子供たち――道の両脇に立つ、大なり小なりの木々がそれぞれに伸ばし、広げている掌は、自身一杯の緑を透き通るほどに鮮明に放ち、受け止めきれない陽の光をキラキラとその隙間から零してゆく。あっちの高いのはポプラだろうか、などと、植物の種類なんてトンと無知なんだけど、なんとなくイメージされる木の名前を呟きなどしながら緑の垂れ幕に沿って進めば、石の段を踏みながら流れ落ちてゆく小川が現れる。そういえば耳に届いていたのは、そのせせらぎ。煌めく飛沫に目は奪われ、ウットリ吸い込まれて一緒に流されてしまいそうだ。

 冷えた空気に少々狭めていたこちらの肩も、光を浴びるうちに開いてきたようだ。鳥たちが哂う中、澄んだ青い空を両手いっぱい掴むように、深い深いところから息を吸う。ここでハンモックにでも揺られたなら、横で天使が羽ばたいていてもおかしくない。

心身共に浄化されまくり頬を緩ませながら、気まぐれに角を曲がり、さらに歩き続けた。もうすぐ七時。まだ起きる時間じゃないというのか、人通りは殆どない。

 ――と。

 遠くに、おそらく「おばあさん」と思われる、頭巾を被った女性がひとり、ポツンと立っているのが目に入った。ダンボールを路肩に置いた、その傍でジッと立っている

 もしかして、とピンと来た。

待ち合わせの車が通りかかるのを待っているか。それとも、あの中にはもしや――

距離が縮まり、そちら側へと寄り気味に歩くと、やはり頭巾の下は白髪で、その顔立ちもはっきりしてくる。

彫り深く、厚い二重の瞼と、その目元から細かく散るようにある皺。ちょっとだけつりあがった眉に、イカリ型の高い鼻。

「魔女」を連想した。ギラリと睨まれそうで、話かけるのはちょっと緊張するんだけれども、「それは?」と、ダンボールに入った頭陀袋に興味を示してみると、肩から羽織っている柔らかそうなカーデガンのように、ふわぁ、と、表情の紐が緩んだ。

――やっぱり。

見せてくれたその明るい茶色肌は、「パン」。それが頭陀袋に入って、ダンボールに収まっていた。

 と、「買う」とも言ってもないうちからこの魔女ばあちゃんは、これがいいよ、コッチの方がいいかな、と、袋をさらに大きく開き、手を突っ込んでゴソゴソと幾つか引き出して勝手に品定めしてくれるのだ。

 こうなると「見てるだけデス」なんて言えない、…というわけではなく(いやそれもあるが)、厚めの頭陀袋であるのがナルホドと納得できるように、袋を開けた瞬間、その縛り口から温かい空気と匂いがモワモワと揺らめいた。焼けて間もない――となれば、困惑は魅惑へと一気に反転する。朝飯用としてうってつけの、ジャストミートではないか。

 良い景色に誘われるがままにさ迷い歩く、はその通りなんだけれども、人は霞を食っては生きられない。腹を空かしたままでは一日が始まらない。早朝の散歩が日課であるのは、「焼き立てのパンをゲットする」のが我が旅の鉄則である――「パン食い地域」では。もちろん、「ご飯地域」ではご飯であり、トウモロコシだったならばトウモロコシだろう。

円盤型だ。表面のところどころには焦げ色の強い斑点があるものの、全体的に狐色が不足なく回っていて、表面に切り込まれた深い三本線だけが、その奥から白く模様を付けている。

 ともあれ、ソレと分かれば意識のシーソーが「大自然」から現実へと急速に傾くが、一見して躊躇もまた走った。

「デカい」。それがちょうどダンボールに収まるのは、全部で十個にも満たない数であるように、直径約三十センチはあるだろうし、厚みは世界史二冊分はある。持ち上げてみればズッシリして、「ホントに?」とひとり身の自分に問い質さずにはいられない。

食事何回分だろうか。出来れば毎日、焼き立てを買いたいんだけど、これだったら今日一日ではとても消費しきれないだろう。

 

 だが一旦「欲しい」と思ったら。――すごく惹かれるパンにかかわらず葛藤の末ソレを逃したならば、結局あとでウジウジ後悔を引きずるのが目に見えている。
「……まぁ、いっか」
「躊躇」は折って折って小さく丸め、どこか細胞と細胞の隙間にでも挟んでおくことにして、ウン、と頷く。

 ひとつを、蛍光灯を買うような大きなビニールに入れてくれる魔女ばあちゃん。その可愛い笑顔を見ると、なんだかとてもいい買い物をした気分になった。

 それにしても、いくら早朝とはいえ「モノを売る」にはもう少し人通りが期待できる、そう、マルシュルートカが走るルート上の方がよさそうなのに。「道を間違えたんじゃないか」と迷い込んでしまったような、こんな小さな路上にどうして敢えて立っているのか不思議だが、いかにも「ウチで作った」という数だから、気まぐれに通りかかる程度で十分なのか。

或いは、エイ、と魔法で人を呼び寄せるのか。

 さて、こうなれば「大自然、緑のキラキラ」などとかまけている場合ではない。帰るべし、とスッカリ夢から覚めて足早になる。温かいうちに食べたい、早く食べたい。…って今食べてみよう。ちょっとだけ、ひと口だけ。歩きながら、大きなビニールの中身を少しだけ覘かせて、指で千切ってみる。しっかりとした、張りある表面だ。

香りで連想するのは「フランスパン」。あの断面のように、内層にボコボコと大きな気泡があるわけじゃないが、よく焼き込まれた表面に対して、ちぎり取った中の白い部分は非常に柔らかく、控えめながら優しい甘味もまた、似ている。んんん…と、川のせせらぎは全くもって遠くなり、いま浸るのは、自分の口の中の宇宙。

戻って、これをバクーで買っていたチーズと、紅茶をキッチンで淹れて、食べる。――と、『この円盤を終わらせるのは、二日、いや三日目に突入する』と予想したのはいったいどこのダレか。

 半円が、一度の食事でいつの間にか胃に収まっていた。

…ヤバイなぁ、また胃がでかくなる。

 

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窯入れ ~サワンナケートのカオチー③

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昔ながらの木造住宅を思わせる、深い茶色の木箱。着物用桐タンスのようなその大きさの中には、真っ白な生地たちが、じっとおとなしく待っていた。

思い浮かぶのは、スヤスヤと眠る猫の、グーにした手。…ってべつに毛が生えているわけじゃないんだけど、何となく気持ちヨサソウな、そ…っと触れてみたくなるフックリ感がある。

体長約二十センチの棒状だが、真ん中部分がやや太く、それから端に向けてやや狭まっているナマコ型であり、その胴回りは小ぶりの夏大根、といったところか。その腹と同じだけの間隔をとりながら二列に並び、ひと箱に二十四個程度収まっているのが、何箱も積み上げられていた。

醗酵した生地を、これから焼くのだ。

まさに眠っている猫を抱えるように、一番上の箱にある生地を、両側面から左右の手で持ち上げ、手術台が如く傍らに待機している、タタミ一枚分の天板の上に移動させる。「天板」といっても、「工事現場から要らない鋼をもらってきました」というような、これまた使い込まれて歪み、真っ黒になった年季モノだ。

やわらかぁい、などと、ふやけた顔してモタつくことなど当然なく、ワンさんの動作は機敏だ。一定した間隔をもたせて、一つ一つをサッサと置く。

初めて会った時、彼は十六だった。サラサラ髪の坊ちゃんヘアに、帽子をつばを後ろにして被り、細くて華奢な腕を出した「少年脱してやっと青年」。そしてフラッとやってきた余所者など眼中にないかのようなそのしかめっ面は、カメラを構えても緩まなかった。初対面なのに愛想を振る理由が見つけられないし、という、至極当然・げにごもっともなことが納得されてくる、まぁ分かりやすい素直な反応であったのだが、それでもめげずに生地を触る姿を撮ろうとすると、カッタイ表情のままながらもほんの数秒ピタリと動作を止め、カメラに視線を向けてくれる。チラホラと出しては引っ込める配慮に、「イイ子、だなぁ…」と、微笑ましさがポワンと底から浮かんでくるのだった。

かつては、小麦粉等の粉を計量してミキサーで回す「生地の仕込み」係にあった。それ以外は兄・ホアさんの補助として動いていたのだが、今はその役を弟のヴァンさんにバトンタッチし、かつてホアさんが在った立ち位置・仕込みを除いた作業全般をこなす職人になっていた。

結構な筋肉も付いたように見える。さて笑顔の一つでも向けてくれるだろうか…などと気を揉む必要など全く無く、会うとすぐに「あ、覚えているよ」と柔らかい表情を見せるようになった。カタイ顔を向けられるというのは、「胡散臭いヤツ」である事実を直視するようなもんだから、私としては「一線越えられたか」と素直にホッとはするのだが、人見知りの衣を纏った、あの時思春期だった君は大人になりにけりと、時の流れをもまたしみじみと噛みしむるなり。

 

…と、「ここがちょっと(間隔が)近いだろ」とでも言っているのだろうか、兄・ホアさんは後から、天板に置いた生地一つ二つの位置を少々ずらす。生地と生地との間隔にバラつきがあると、パンの焼け具合にもまた差が生じてしまうのだが、「大量に作っていれば、そういうのもありなん」と流してしわないということに、「カオチー作り」に対する誠実さを見たような気がして、ほう、と唇がすぼまる。

初対面の時、彼は十代を抜けようという頃だったろうが、プックリ頬の童顔だからもっと幼く見えていた。少々長い前髪が作業をする時に邪魔なのだろう、おそらく姉のであろう「カチューシャ」を頭にして、くいっとデコを出しているのが妙に似合っていたホアさんだが、その顎に髭が少々生え、頬だけでなく全体的にポチャッと丸身を帯びたようだ。Tシャツじゃなくてポロシャツ姿なのも、「ゴルフが趣味です」とでも言いそうな中年オヤジ(偏見だが)の雰囲気を出していなくもない。…ってまだ、三十なんだけど。

いや、三十になったらそろそろ「引き際」なのだろうか。工房の中に常に在るというわけではなく、時々、気が付いたら姿を消している。そして十数分したらまた戻ってきて、手を出すというよりは、腕を組み、ワンさんの手つきをじっと見る…など、一線からは身を引いてはいるが目を光らせる、「現場監督」に昇進したという感じではある。…と思えば、急にフンフン鼻歌を歌い始めて実はボーっとしていたようでもあったり、バナナを手に、大声で歌いながら戻ってきたり。その奇行ぶりに弟達はクスクスと笑い、彼は監督兼ムードメーカー、というところか。ワンさん揃って人見知りだったならば、私としても少々居づらかったろうが、その緊張感がほぐれていたのは彼の陽気さのおかげだろう。

 

並べ終えたならば、生地の表面を、水の入った霧吹きを使って湿らせる。この「霧吹き」は、百円店に売っているようなカシャカシャとその都度押すヤツではなく、一回押したら「シャァァ」と出続ける高性能モノだ。

そうして、「クープ」を入れる。「フランスパン」を言えば思い浮かぶ、表面にパカっとした口を開かせる為の切り込みである。

縦長に寝ている生地、向こう側の先端に左手の人差し指を軽く当てる。切る最中に、生地が刃につられて引っ張られてしまわないための、「押さえ」として。

そして右手に持った「刃」を生地の表面に当て、一本、手前にシャッと引く。潔く。

――浅い。こんなもんで、あの立派なクープがお目見えするのか。切り込んだ線の深さは五ミリもいかないだろう。

クープを入れることで火通りと膨らみがよくなり、そこから耳を立てるように起き上がって焼けた外観は、「良い、悪い」を細かくやらしくネチネチと判定する一つの目安でもある。が、それについての詳細は省こう。私としては、裂け、めくれまくって鋭利に立ち上がる「クーブ」であれば、それでもうウットリご満悦なのだ。

「刃」とは、小さなカミソリ。先端をちょっとだけ裂いた細い竹串の間に、彫刻刀の平刀よりもさらに小さい刃を差し込み、紐でグルグルと固定したもの。竹串とはいえそれはあまりにヒョロっとした棒ッ切れで、スーパーで売られている団子の串の方がもっとしっかりとしているだろうが、その刃は全くのダテじゃないことが十分、その切りっぷりから伺える。だが見た目の心もとなさそのままに、こんなものをワンさんってば鉛筆よろしく耳に引っ掛けるなど、軽々しいにも程がないか。…不安定じゃないのか、ソレ。汗で簡単に滑り落ち、耳元をシャッとかすって血まみれ…とか、想像が先走りして、こちらの耳こそキーンとしてくる。…汗を拭きなさい、汗を。

 

 

肌を撫でるように軽く、素早くその天板にある生地すべてに「一本線」を切り込んだなら、いよいよ窯と 相対する時だ。

「腹黒さ」を色に出すとしたらきっとこんな感じだろう、いかにも重そうな鉄扉である。四つのうちの一つを、ホアさんはしかしいとも簡単に、扉にタオルかけのようについた取っ手を手前に倒し、キィ、とあさってにすっ飛んだ音を響かせた。庫内は入り口よりは少々大きい、天板一枚を受け入れてちょうど、という広さである。

窯のすぐ脇に置かれていた、既に「窯色」にくたびれたバケツ。「あとで掃除する為だろうか」とチラと思った以上に気になど留めていなかったが、ホアさんは今それに身をかがめ、コップで中身をすくうと、開かれた入口から窯内部に向かって勢いよく浴びせる。相撲取りが塩を振り撒くように――と、その瞬間、シャァァァっ!と蒸気が上がり、あぁそっか、この為なのだと目が覚めた。水だ。

窯に蒸気を入れると、生地が伸び(膨らみ)易くもなる等のメリットがある。バケツはボーっと突っ立つ私のように「ただそこに在る」んじゃないのだ。

それを合図に、天板を既に抱え持った体制にいたワンさんが、すばやくソレを中へと突入させる。すぐに扉を閉め、足を振り上げてケリつけ、しっかり「フタ」。さぁ、旅立ちだ。

 

「特大サイズでよろしく」と籠職人に注文して、編み上げてもらったのだろうか。ホテルの清掃係がシーツを入れて抱えてそうな竹籠を、重なっている中から一つ取ってきて、足元に置いておく。

放置されていた厚手のボロタオルを手に、「扉」を開いた。既にムンムンと、この空間全体をひっくるめてダシにしたような、「カオチー」の香りが充満してきていたが、キイっとさせた瞬間,それが一段と強まった気がする。

右手には、「杖」…というには少々短い、子供の傘ぐらいの「鉄の棒」を握っている。先端が、まさに傘の柄のようにクイッとハテナに曲がっているのだが、握り手はその逆だ。

黙って収まっていた天板を、まずは手前に少しだけ引き出したら、…おぉ、おぉ、「カオチー」たち。新品の木材色した肌に、その表皮を突き上げるようクープをパックリ弾けさせた、面々。

縦長に収まっていた天板の縁の、体に近い側を左手で持ち、その反対側の縁は、右手に持った「鉄の棒」のハテナ部分で引っ掛けて支える。そしてそのまま後ろに下がり、ザザザっと底を擦らせながら天板全体を更に引き出してゆく。

ごそっと全体を出しきったら、それを抱えたまま、用意していた竹籠の上で「立てる」ほどに傾けさせる。焼き上がった「カオチー」は、その中へとボタボタ落ちてゆくのだが、こちらとしては「アブな…」と呟かずにはいられなくなる。引っ掛け箇所として穴が開いているわけでもない天板を、棒の先のハテナが支えているなどと、まぐれみたいなモンにしか映らない。

…とはいえ、ズルッと滑らせてガチャ―ンと地に落とした場面なんて一度も見たことがないのだから、やはり掴みどころを得ているのだ。一体何度こなして慣れたのだろう。

「ねっ!」

――焼けたでしょうっ! という、ワンさんヴァンさんの誇らしげな笑顔がなんともカワイイ。ベトナム人は概して日本人よりも若く見えるから、彼らもまた中高生の兄弟と言っても通用するだろう。それほど間を置かず、外気に触れたカオチー・一つ一つからはパチパチと音が弾け、それは二人の心と呼応しているかのようだ。ホヤホヤたちを吸い付くように見つめていると、あら?とどこかに離れてしばし見なかったホアさんが、戻って来た。

「食え食えっ!」

…って。ボスがまた、どこに行ってたんスか。

以前までは、この人が主役でやっていた作業だ。このままゆけば、オヘソをまず先頭にして通りを闊歩する、オヤジ達とそう変わらない体系となるだろう。この、大トリともいえる作業に没頭していたあの姿は、もっとカッコよかったぞ――などというのはまぁさておいて、それはもう、飛びついて「いただきます」なのである。

 

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熱工房 ~ サワンナケートのカオチー② 

 

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カッとんだ太陽の光を受けた、濃い木陰。

そんな、シンとした暗さに「工房」はあった。

埃のような、木材のような、いや、味噌のような――?倉庫の中のように、そこに在るさまざまなものがじっと息を潜めた匂いが、七、八坪ほどの空間を纏っていた。だが、言うならばそれは「動」のイメージに満ちている。置物のように肌をボロボロした老木でも、その体内では大地と太陽のエネルギーを吸収しながら「生」を繋ぐ壮大な営みが展開され続けているように、シンと静まり返ってはいても、こちらの目には見えないだけで「何か」はきっとこの空間を活発に動き回っていると想像ができる、「生きている」匂いだ。

蛍光灯は天井のスミにくっついているけれども、昼間だから点けないのだ…というか、このクソ暑苦しいのに点けたらもっと鬱陶しくなるだろう。ガラスなど貼らない通気口のような窓、そして天井――上にちょっと載せただけのような、スコールにぶち抜かれんじゃないか思わずにはいられない、軽そうなトタン屋根。そして、その壁との隙間から差し込んでくる太陽の光が、部屋の中を「今は昼です」と告げている。その明かりで十分、か。

 「窯」もまた、黙りこくってその隅にじっと佇んでいる。

コンクリートの肌は黒ずみ、その色とはもはや、その正面にはまっている鉄扉と変わらない。微妙にグラデーションを作る、自らの体臭のように奥深いところにまで染み込んだ暗黒色には、火だって何だってびくともしないような貫録があった。

隣接する、生活用の家屋と仕切っている壁は青いペンキで塗り直されてはいるが、ここを囲むコンクリート壁もまた、木肌かと見まごう程に焦げ色に染まっているから、この空間はいっそう暗く沈み込んでいるように感じる。だからこそ陽の光の煌めき、そして、赤い炎のゆらめきが、――生きる。心に訴える。

 

四角い――ような、窯。

高さは身長155センチの私の肩程で、幅は約三メートル。奥行きはテントの支柱ぐらいはあるだろうか。「四角い」というカッキリとした角ある線は真正面からの姿であり、ちょっと斜め横から見れば、コーナーは少々崩れ、その厚さ5センチ程のコンクリート層のすぐ奥に、石を積み重ねた壁が現れているのに気付く。なるほど、コンクリートは単なる覆いであって、「窯」と言えるのはその石壁の内側なのだ。そしてその天井には、人が粘土をペタペタと手で固めたような輪郭でウネっており、所々、含んでいる大きな石の姿を素直にボコッと浮き上がらせていた。

山を貫くツルッとした輪郭のトンネルよりも、大昔から手つかずの、いかにも石が落っこちてきそうな洞窟の方に「おぉ」と声を上げてしまうように、崩れているにも拘らず、いや崩れているからこそ、ワイルドな見た目がいかにも「重厚」だ。…というか、それは崩れているというよりも、「覆いなんて、そこまでカッキリしなくてもいいんじゃないの?」とテキトーなところで(塗り固めるのを)止めたんじゃないだろかと想像できなくもないんだけど、それがかえって「使い込まれてもう何百年」とでもいう、遺跡に似た空気を醸し出しており、この空間の「主」である威厳を放っているのだ。

炎が二つ、その股下のような「個室」にいる。

鉄扉はタンスの引き出しのように横長・長方形なのが四つ――上下二段・二列ではめ込まれており、そのタテ列の真下にそれぞれ開かれたトンネルの中で、揺らめいている。時々、蛍のような明るいオレンジ色の火の粉をプッと遠くまで飛ばしながら。

そう、電気でもなく、またガスを使うのでもない。窯を温めているのはそれ・木で熾した炎である。

窯を見やれば否応なく目に入る、傍らに寄せられている木材は、カットされて、そのまま柱として組めそうなものから、棚にするような厚みの板だったり、或いは生えていたのをただブった切っただけのような、荒れた素肌を晒したものなどが、これから小屋でも建てるのだろうかという程に積まれていた。長さはまちまちだが、殆どが窯の奥行きよりも長いから、そこからエッコラショと何本か抱え出し、トンネルへコラショっとくべられたなら、木は当然投入口からびゅっとはみ出てしまう。黄金にも見える赤い炎を抱えた窯は、まるで口にポッキーでもくわえているかのようにそれをムシャムシャと齧り、火はパチパチと空間を奏でながら、与えられた糧を赤く同化し、舞い続ける。

激しくはないが、安定したリズムで居座るその姿に、――静かなること山の如し。…って山じゃないけど、いまここを見据え、支配している最たるものの「魂」を思った。神聖――だけど、ちょっと怖くもある。その調べとは、窯というものに塞がれて一応は正気を保ってはいるが、いつ暴れ出してもいいんだけど、という脅迫さえ内包している。いったい実態とは、色なのか、熱なのか。揺れ動く美しさに見惚れながら、キミに急所はあるのか、今の心境はどんなもの?――などと考えているうち、魂の骨を抜かれたようにボーっとなった自分にふと、気づく。

床の上で直接燃えている。道路のようなコンクリート床だからまぁ大丈夫なのだろうが、炎周辺は熱いし灰と一体化しているから、屋内とはいえ「外」も同然、裸足にはなれない。散らばった木屑でスイバリも立つだろう(スイバリが立つ=広島において「トゲが刺さる」の意)。――けれども、一見「裸足?」と思うほどに、「彼ら」の足にあるゴムサンダルは心もとない。履きつぶされて薄っぺらなそんなのは、水たまりの中をジャボジャボと歩くようなもんであり、ゴミなんて足の裏に簡単に転がり込んでくる。まぁ、どんなに薄くとも、一枚足に当てているのは裸足よりはそりゃマシだろうが、少々尖った木くずだったならば、簡単に突き破られてしまいそうだ。

開け放してある出入り口は三つあり、そのうち二つは、白光りする屋外へと続いている。光がここに入ってくるように、熱も一応、篭らないようにはなっているのだろう。息苦しさは、それほどではない。――んだけれども、だからって涼しげな顔をしていられる程の余裕は当ったり前ながら全然なく、暑いったら熱いのだ。バッグの中で蒸れている、カメラの悲鳴が聞こえてくるようである。

まもなく、窯の背後から一筋の灰色の煙が、揺らめきながら昇ってゆく。それは音なき「産声」か。熾した炎によって、窯が瞼を開いてゆく、その合図のようにも映った。

――三人兄弟の、熱工房。

ホアさん、ワンさん、ヴァンさん。この時、長兄・ホアさんがそろそろ三十になろうかという頃で、ワンさんは二十三、そしてヴァンさんは二十になったばかりという、エネルギーの塊のような三兄弟だった。

 

 

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平型パン世界 ~ディヤルバクル①

 

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トルコ南東部に位置する町・ディヤルバクル。

郊外のバスターミナルに到着したのは、まだ真っ暗の夜明け前。明るくなってから町まで移動しようと、ターミナル内でジッと待っていたから、宿を見つけて荷を下ろすまでに結構時間は経っていた。というわけで、私はとにかく朝っぱらからハラを空かせて、外へと歩いたのである。

新しい町にやって来たら、まずやるべきお約束は――「フルン探し」にウロつきまわること。だがそれよりも今は、どこでもいいからとにかくロカンタ(=「食堂」)に入りたい。チーズやサラダ。スープでもいい。パンを片手に少々のオカズを添えた、それなりの朝食が摂りたかったから、宿から出た通り・スグに目に入ったドアを、トイレにでも切羽詰ったかのように開いた。複数の店の雰囲気を推し量っては、「あっちか、それともこっちか…」と迷いまくる、いつもの優柔不断からは考えられない「即決」である。

早朝と言っていい時間帯だからか、まだ閑散とした店内のテーブルのうちの一つに陣取り、「はちみつも欲しい」などと告げてから、たいして待つこともなくまずやってきたものを見て、あ、と思った。

パンが、――「平べったい」。

初めてのトルコだった。日本からイスタンブールに入ってから東へ・トルコの大半を占めるアナトリア大陸の中央部や、北部の黒海沿岸の町を経由した後、さて今度は「南東部」へ――と、いろんな方面をつまみ食いするように旅を進めていた。というわけで、ガイドブックではその括りにおける「最大の町」とある、ディヤルバクルにやってきたのである。

それまでの町でフルンに並んでいたパンとは、フランスパンのように棒型で、フックラと膨らんでいるものが殆どだった。とはいえ、平べったいパンもないことはなく、例えばラマザン(断食月)で食べるパンといえば、「ラマザン・ピデ」と呼ばれる円盤状の平型が伝統的であるし、また普段でも、肉やらチーズやらの「具」を、平たく伸ばした生地の上に載せて焼くという、イタリアのピッツァのようなパン(こちらも「ピデ」と呼ばれる)や薄い薄い生地が特徴の「ラフマジュン」と呼ばれるものを提供する食堂が見られる。だが、それらは「具もパンも一気に食べられて便利」という、どちらかというとファーストフード的な存在だし、ラマザン・ピデなど特別なシチュエーションのものである。「白いご飯」に匹敵する、どんなオカズにも添えられるシンプルな味の「いつものパン」とは、もっぱらフランスパン型=「ソムン」だった。

 南東部は、平べったいのが「普通」、なのだろうか。

異なる世界に移動した、という実感。その外観は新鮮で、一目見ただけで旨そうだと思えてくる。

ステンレスのトレイには、もとはある程度デカかったのだろう、手帳よりやや大きめにカットされたパンが数枚載っていた。

ロカンタは、たいてい近所のフルンからパンを仕入れる。

フルンは、近所の人も日々買いにやって来る「町のパン屋」である。中には、全粒粉を加えるなどで、数種類のパンを揃えるフルンもあるが、どこにおいても一番作られているのは、クラム(内層)の白い、味のシンプルなパンである。ロカンタに卸されているものも、万人ウケするその最もポピュラーなやつであるから、そのパンは地元の味といっていい。

それまでの経由地では、ロカンタというと「ソムン」(フランスパン)の、二センチ程度に輪切りされたものが積まれて出されるばかりだったのだが、――ここでは、こうなる。

一切れを手に取ると、焼き上がりから時間が経っていないのか、表面はパリッとしている。「平べったい」とはいえ、それなりにフックラと膨らんでおり、インド料理屋で食べる「ナン」よりも厚いだろう。表面には縫い込んだような格子模様があり、もこもことしたダウンジャケット生地、或いは子供用の座布団を思わなくもない。

スープに、たかがチーズ数切れとはちみつタラリ、トマトとキュウリがちょこっと付いて、…調子に乗って「オリーブも欲しい」などと言ったからよけいに、なのだろうが、「そんなにとられんの?」(お金を)。皿が運ばれて訊いた額は、いつも自分で市場から調達していた朝食と比べると、同じものでもかなり高い。…から、「食べ放題」であるパンをその分、腹に一割り増しぐらいは詰め込みたい。(ロカンタで出されるパンは、ほぼどこでも食べ放題である。)

 

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「餅」の楽しみ ~葱餅

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中国の、「餅」。

その中でも「定番」とされるものの一つが「葱餅」である。…って日本で「『ねぎもち』いかが?」と聴き慣れているからして(試食で)、私はついそう言ってしまうんだが、これは中国では「葱花餅(ツォホアピン)」或いは「葱油餅(ツォユウピン)」と呼ばれ、店の看板にもそのようにある。

作り方を、簡単に紹介しよう。

 

1、生地を作る。――小麦粉と水、塩で捏ねて、暫くねかせる。

2、ねかせた生地を分割して、薄く薄く、麺棒で円形にのばす。

3、成形する。――伸ばした生地の表面に油をハケで塗り、葱と塩をパラパラと一面にふりかけたら、端からくるくる巻いてゆく。

4、長い筒状となった生地を、蚊取り線香のように渦に巻き、その上から麺棒で、厚みを潰すように押さえてゴロゴロ転がし、薄く、円く伸ばす。(五ミリ~一センチ程度)

5、焼く。――油を敷いた鉄板等でこんがりと(ひっくりかえしながら両面)。

 

葱をクルクル巻き込み、潰して(のばして)ある円盤状のそれを上から見たならば、なるほど、葱が印象付ける渦の輪郭は、「花」と模しても、まぁそうですねと言えなくもない。だから、「葱花餅」か。

当然ながら、示した手順はだいたいの流れであって、作り手によって異なる部分もある。客で賑わっている店や、作っている場面が外から筒抜けに見える店があれば、スパイかと怪しまれないようテキトーに工夫しながら観察していると、分割する大きさ(「2」)とは、要は鉄板に載せる時の一個分なのだが、それがイコール菓子パン一個に相当する「こぶし大」だったり、「こぶし」どころか漬物石二個分ぐらいの塊だったりして、鉄板に載るギリギリの巨大円盤を焼き上げるという場合もある。(で、出来上がったものを、必要な量だけ切り売りする)。

或いは、「3」で葱類を巻き込んだら、「4」の「蚊取り線香」とするのをすっ飛ばし、即、端から一個分の大きさに、金太郎飴のように切ってゆく、という方法もある。

どういうやり方であれ、要は、生地は「層」を為している状態であることがダイジだ。つまり、生地と油(+葱)が、隣接すれど混じらない状態が、重なっているということ。

「3」で巻く時、伸ばされている生地が薄ければ薄いほど、筒状となったものをサイドから見た「渦」は、細かい。つまり層の数が多く、焼き上げれば薄い破片がハラハラとめくれるという、(洋菓子の)「パイ」の状態となる。小麦粉をただ水分で練り、なんの層をつくることもなくただ伸ばして焼いたものを口にしてみれば、食べ物というよりは「カタマリ」・まるで粘土を口にしている気分になるのだが、生地内に「油層」があることで、焼いたときにサクっとした食感が生み出されるのだ。熱で鼓舞されて活性化した油層が、隣接する生地層を揚げている状態にすると同時に、熱で生地から流れ出て、その部分に空洞を作るのである。

たいていの店では、「大きく焼き上げて切り売り」か、「金太郎飴方式(「4」は抜き)」であるようだ。

金太郎飴方式の場合、「大きく」生地を分割することがポイントである。それを大きく大きく薄く伸ばせば、それだけクルクルして出来る筒も太くなる。つまり渦もそれだけ多くなるから、「4」を端折ったって層数は十分カバーできるもん、ということなのだろう。量産するには、確かにその方が早いのかもしれない。

一方、家庭でこれを作るとなると、当然ながら、仕込む生地量とは、「店」と比べ物にならないほど少ない。そもそも、焼く為の鉄板だって、フライパンだったりするだろうから、分割量も「こぶし大」となるのは必然的だろう。だが、少量の生地であっても、「筒」に巻くだけでなく、その後に蚊取り線香(「4」)という「二重渦巻き」をすることで、「層」の複雑さを捻出している。…と思うのだが。

 

伸ばした生地は、それはもう「タップリ!の油」で焼くもんなのだという場面を、しばしば目にした。最初に鉄板に敷いてそれで終わり、ではなく、焼き色の様子を伺う時も、裏表ひっくり返す(巨大な円盤ならば、トングのような大きな棒で挟み持ちながら)時も、逐一、刷毛などでタポタポと惜しみなく、ペンキを塗るよう油を撫でつけていた。艶々の透明な液体をたっぷりと浴びた生地は、表面に濃い斑跡をつけ、テカテカと黄金色に輝いて焼き上がる。巻いて閉じた部分が剥がれかけなどしてヒダヒダに波打ち、「葱花」をよけいに思わせる様相だ。美しい…んだけれども、明らかにど凄い量の油であり、カロリー度外視だろう。が、そんな邪念はまさに邪魔で、んなこと言っていては旨いもんはできないのが世の習い。

焼き立て、というよりもほぼ「揚げ」たてのそれを頬張ってみると、――オヤ。油に浸しながら焼くようなものだから、ギトギト・べチャッと、いかにもな油っぽさを想像すれど、意外にもそんな感じは全くない。お見事なサクッと感。とはいえ、濁音響く洋菓子の「パイ」ほどに角はなく、生地を捏ねることで生まれたモチっとした粘りもまた、ある。「甘さ」を連想させる香ばしさに、「油」とは単に火を通す手段のみに留まらず、これもまた餅を構成する必要な要素であることをつくづくと思うのだ。

ちなみに、これも作り手によって様々な「(円盤の)生地の厚み」も、食感・味わいを作り出す要素である。

厚め(一センチそこそこ)の方が、私は好きだ。まぁ、薄いならばそれはそれで――押し潰されていても、ペラペラとみかんの薄皮のようにある「層」の健気さを讃え、分解しながら食べるのも面白いんだけど、厚い方が、よりそのありがたみを実感できる。厚いと中まで火を通すのに、嫌がらせかと思える程に時間がかかり、「まだぁ?」と呟かずにはいられなくなるが、客が催促しようが鉄板が熱かろうが「美味しく」作ってこそウチの味、と職人魂を持って焼いているところを見つけるべし。火の通りがいい加減だと、ヘンにネチネチと粘土感が残るだけで美味しくないんだから、それで正解なのだ。時間がかかる分、表面はしっかりと焼かれてパリッとなるし、無理に押し潰されていない「層」が膨張剤の役割を果たして全体をフックラとさせる。せっかくの「層」、その意味を如何なく発揮されたものを手にしたときの美味しさったらない。厚いとまた、層のせいだけではなく、生地そのものにも「気泡」があるのだな、ということにも気づく。ロールパンやスポンジケーキほど顕著ではないが、ほんのり息をついたような呟きは、生地に酵母などを加えて醗酵させているためなのか。それとも重曹を使うのだろうか――と、合間に想像しながら、もう一口。

小麦粉生地の内外で「油」が踊り、その輪郭を、しっかり甘味へと転化された「葱」と「塩」が縁取る。どれもシンプルな存在ながら、同じ舞台に立ち、お互いの立役者を演じている。「葱餅」――言葉面としては全く惹かれるものがなかったが、旨いヤツじゃないか。

とはいえ、時間が経てば、トンカツがそうなるように油が全身に回って、ベトベトとした印象が表に出てくるから、やっぱり出来たてを食らうのが理想、いや、原則。本当は座って何処かで食べたいが、椅子を探している間に終わってしまう。

 

詳細・モトはこちら↓

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サワンナケートのカオチー  ~具入り点描

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 寿司職人にも劣らないだろう、次にやることが分かっているからこその、休みない手。

「何をどのように入れてくれるのか」の観察に目を凝らすこちらの前で、サラッとした表情を変えることもなく流れを止めないのは、想像としては七、八つぐらい年上だろうか、のお姉さんである。

腰丈の台の上に設えられた、透明ケースの棚にある幾つかの容器の中から、ヒョイヒョイと各種の「具」が、ジャンプするようにカオチーの「口」へと収まってゆく。

 

サワンナケートは、「ラオス中部」と分類される地域でも南端に位置する、メコン川沿いの町である。水の確保が容易で気候条件も良く、肥沃な土地で、ラオスの中でも農作物の生産が高い。タイとの国境地点でもあるから、ベトナムへと繫がる道の要所として栄える「交易の町」とも紹介されるが、私がそこを初めて訪れた時のきっかけとは、まさにタイからベトナムへ向かう通過点・つまり途中下車的に、だった。

到着し、町を把握しようと宿を出て、ブラブラ歩き始めてから十分もかからなかったろう。

路の脇に、屋台が出ているのに気付いた。棚と調理台がセットになった、商売道具一式の前には女性が立っており、その足元には、籠がある。――と、洗濯物入れのような大きなその中に、ポツポツと頭を覘かせている茶色いものに、近眼といえども反応した。そういえばモワモワと「香り」が鼻腔をついている。

「カオチー」、か。

ソレと確信する前から顔が緩み、のんびりとしていた足どりにも急にエネルギーが注入されたようだ。さすが「根付いている」というべきか。到着早々、簡単に見つかるなんて。

「あ、ものほしそうだな。買うのだろうな」というだけでなく、綿パンに、たすきがけショルダーバッグ、そして見慣れない顔―とくれば、「外国人」であることは一目瞭然・近付いてきた時点で、向こうも分かっただろう。

が、「いる?」と向けたその、ポニーテールを揺らしたお姉さんの笑顔は、外国人への少々不審交じりのハニカミでもなく、もちろん(日本の)デパートにあるような、ピシッと教育されたかたちでもない。「この野菜安いよ」と市場のおばさんが、通りがかりの買い物客に話しかける時のように、サラッと軽いものだった。とはいえ、とっさにラオス語をどう使うべしかとモゴモゴとしていたものだから、買おうかどうしようかと悩んでいるように見えたのだろうか・「優柔不断にねぇ」と呆れている感じでもある。

キレイな人だ。

成人女性はほぼ、くるぶしまでかかるロングの巻きスカート姿が見受けられるという中で、ジーンズパンツという出で立ちはハイカラにも映り、かつそのスッとしたスタイルの良さでバッチリときまっている。顔立ちがこれまたスタイル負けしておらず、キレがいい美しさ、とでも言おうか。

冷静沈着、…かどうかは知らないんだけれども、何ものにも動じない雰囲気を漂わせているのがまた、カッコイイ。

「一つ、ください。」

 

 

ラオスでは、フランスパンによく似た棒型パンが、あちこちで見られる。

19世紀、植民地獲得の潮流に乗るフランスは、東南アジアに進出し、ベトナムカンボジア保護国として獲得、一八九九年には「仏領インドシナ連邦」を成立させ、ラオスもこれに組み入れた。その影響で、かの地のパンを食する習慣もまた広まった。

それは、ラオスの言葉で「カオチー」と呼ばれる。

サワンナケート第一号のカオチーは、「具入り」――太さは野球バット、長さは二十センチ弱のパンの側面に、ザクザクとナイフで切こんでメリメリと開き、そこに数種の「具」をいっぱいに詰め込んだもの、だった。

スゴイ…。

そう呟くしかない、口をガッと開けて中身を抱えるそのボリューム。そして「味」。それはかつての宗主国・フランスだってかなわない、ぐらい言ったって許されるものだろう。…って、フランスに行った経験はないんだけれども、どこにヨメに行ったって恥ずかしくないその出来映えである。

いったいその中身とは何ぞや、というと――

「パテ」。もやしと大根、人参の「酢のもの」(要は「なます」であり、まさにその味)。「ハム」。刻んだ「香菜」。「ネギ」。「チリ(唐辛子)ペースト」。「ソース」。

これらを順に、切り開いたパンにギュッギュッと詰め込んでいけば出来上がりで、……こう書くと「なんだ、『軽食』じゃん」と思えてしまうぐらい迫力は無いから、じゃあ一つ一つに言及していこうか。

 

「おそらく」などと但し書きしているのは、(具の)調理過程を実際に見る機会がなかった為だが、そこは舐めるように味わってみて、想像できるところ、である。

「パテ」は、豚の脂身や内臓をペーストにしたもの。「おそらく」タマネギやニンニク等の香味野菜も少々加え、グニグニと交ぜて丸いアルミ容器に詰めて、火を通してある。上部にはしっかりと焦げ目がついているから、おそらくカオチーを焼く窯で焼いたのだろう。型(容器)から外して皿に取り出すと、大きさも形もまるで一台のケーキのように出来上がる。…んだけど、黒い。焦げ目部分に限らず、「食べ物」に見えなくもそりゃないけど、ホントに食べるの?と、少々躊躇を覚えてしまうほどだ。――が、ナルホド、こういう色となるのに納得の、「甘辛」味。砂糖、そしてここ一帯で一般的な調味料の「ナンバー」(魚醤)、或いは醤油(中国醤油)といった類で濃く味付けされている。そしてまた、練りこまれた脂身の甘みが効いていて、全体的にコッテリ、ご飯がいくらだって進んでもいいような感じである。

これを、大きさは切符ぐらい、厚さ五ミリ強にスライスして、切り開いたパンの端から端まで行き渡るよう並べてある。四切れ、いや、五切れはあったか。「何口目」かでようやく到達する、日本のサンドイッチやアンパン事情など、足元にも及ばない。

「なます」は、そこまで酸味は強くないものの、サッパリ、すっきりとした味付けのものが、日本の定食屋で付く「小鉢」など余裕で越える量、パテの上に広げられる。

ここまでで既に、結構な「かさ」がある。

その上にやはり「端から端まで」載せる、短冊にスライスした「ハム」は、厚さもパテ同様。「五ミリ」という字面は大したことないように思えるが、ちょっとモノサシを取り出してもらいたい。レストランの「サラダ」に添えられている、ピラピラハムの次元じゃない。

この「ハム」は、日本のスーパーでよく見かけるもののように、肉をロープで縛ってから塩水に漬けて…という処理を経たものではなく、肉をミンチにしてからこねくり回してまとめ、蒸し固められたものである。大きさは、だいたい「お歳暮」等の贈答用ハムの塊ぐらい。あまりに整った筒状に、肉としての面影はなく、また断面の模様も均一で、たとえるならば「巨大な魚肉ソーセージ」で、正直、見た目は安っぽい。だが、たいした期待をかけずに食べてみたところ――コレが旨いったらウマイ。旨すぎて、もうその味を思い出せないほどだ。ラオスだけでなく、ベトナムカンボジア、そしてタイでも、市場などではコレ、塊が一個単位で売られており、…一人旅の私にとってはデカ過ぎて、欲しいと思えど「躊躇」が先にたつ、もどかしくさせられるものの一つである。中でも大絶賛すべきは、カンボジアのソレであり…って、ここでその詳細はヤメにしよう。

で、旨いハムを載せたその次には、「香菜」の刻んだものをパラパラと。

「それだけでいいのか」という、まるで隠し味的な量であっても、その風味はおとなしく引っ込んでいることはなく、パテやハムの甘みとドッキングし、第三の味を作り上げてしまう威力を十分有しているのだが、決まり文句・「その独特な匂いを苦手とする日本人は多い」。

そして今度は「そんなことでいいのか」と、香菜とは逆に、ミジンにも何もされていない「葱」(「アサツキ」のような、細葱)を、そのピンとした、あるがままの姿で二本か三本、挟み込む。

ここでポイントとなるのが、根っこ(…というか、ラッキョウのような球根の部分)付きであること。これまた独断だが、「肝」がつかないカワハギを出されてもあんまり嬉しくないように、これがあると無いとでは、味に雲泥の差があるのだ。もし、私が野菜嫌いだった幼少期にこれを口にしてしまっていたなら、おそらく「生涯の敵」となっていたであろう・強い辛さをむき出しにした、野菜臭さの心臓部ともいうべき「球根」は、コッテリ「脂身的な」濃い味のパテと、「肉ッ!」というボリュームのハムと引っ付くことで、決してそのものを単調にしない力を持っている。香菜の強い風味もさることながら、この葱もまた、癖になるアクセントを作り出しているのだ。「香菜は切っても葱は切らない」―これが、カオチーのセオリー…かどうかは知らないけどそうなっていることが多いのは、「あまねく人に、『根っこ』もちゃんと分配されるように」という配慮ではないかと勝手に思っている。

 次。

唐辛子をチョップした「チリペースト」を、瓶から小さなスプーンにとり、挟み込んだハム等に撫でて付着させる。これはたいてい「要るか・要らないか」を訊かれ、私はもちろん頷く。料金込みでもらえるモンならなんでももらう、がモットー…っていうか、辛いのが好きなだけだが。具を挟み込む一番に、これを(パンの)断面に染ませる場合もあるが、パンよりもやはり「脂身的なもの」に引っ付けてもらった方が、しゃんと味が締まるようでイイと思う。

さらに、茶筒程度のプラ容器に入った「ソース」を、スプーン一すくいか二すくい、垂らす。使い回しのプラ容器であるから、数種の調味料を独自でブレンドしたもののようには見えるけれども、「既製品」をただその中に移し替えただけかもしれない。こちらで「ソース」というと、それは醤油ベースに甘味諸々を加えて濃くしたような調味料があるから、アレだろうか。

ともあれ、以上、最後に小さなプリント紙をクルッと巻き、輪ゴムをパツッと掛けたら出来上がり。

これが英訳されると、「サンドイッチ」。――ズシっと重みを増した完成品を手にすれば、…納得いかない。確かに具を挟み込む・その行為からして、呼ぶとすればそうなってしまうのだが、しかしその名前の響きとは、この重みからするとあまりに軽やかである。ハムとチーズをササッと挟んでスマートに終える、「軽食」とはちょっと「格」が違うのだ。

そのタップリの具のせいで、半開きに天を仰ぐ口。見ているだけで、こちらの顎が外れてくる。こりゃあ、食べ難いだろう――なんてことは、嬉しい悲鳴なんだけど。

齧るそのたびに感じ入る「味のハーモニー」なるものは、何日も煮込んで深みの増した「おでん」のように、滋味なる余韻をあとに残す。手に抱えていた重みは、そのままそっくり胃の中にズッシリと移動し、その存在感は「ファーストフード」などという曖昧な名詞にもはまらない。

これはれっきとした「お食事」以外のなにものではなく、歩きつつとか、片手で食みつつトランプに興じるなどとかいう「ながら食い」なんて勿体無い。カニを目の前に控えるよう、イスに座って黙って食え、といいたくなる。

 

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