主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

餅の楽しみ ~西安

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食堂の炊飯器ならば、このくらいはあるだろうか。――フタが、である。大人が頭上で両腕をあげ、「オッケー」と大きなマルをつくるよりも、まだ大きいと思う。

そのフタをめくれば、鉄板。電気仕掛けのやつが、その円周をちょうどすっぽりと囲む台に埋め込まれており、フタはその台の端と金具で留められているから、めくってもその置場にきょろきょろとする必要はない。救急箱じゃあるまいし、そういうパックリ口の調理機器って珍しい――ってそのお馴染中のお馴染・炊飯器がそのようだった。ついでに思い出したけれども、ウチに使わなくなってから一五年は経つ「電気フライヤー」もまた、パックリ開け閉め型った。揚げている最中にカチッとフタが出来るから、油が飛び散らない。フツウなら、油が跳ねて、そこらじゅう掃除する羽目になる揚げ油というものを、「すき焼き」をするかのように食卓の真ん中に置き、油から引き抜いた「揚げたて」を口にするなんてことが出来ることに飛びついたんだけど、ウチのそれってばフタを取り外すことが出来ず、洗うのがめっぽうメンドくさいのである。新式はどうなっているのか知らないけれども、「フタは外せたほうがいい」という社内意見がいっこも出なかったのは、ちょっといかんのじゃないかメーカー、と思わなくもない。

 が、「ソレ」、巨大で重そうだし。何度も開け閉めするから、その置き場をイチイチ探してはおれんのだろう。

フタをカチッと開ければ、ジクジクと油を跳ね散らかす音が鮮明になる。円型の鉄板には、そのきわから一、二センチほど内側に引っ込んだ円盤が、表面にまだら模様を焼きつけて収まっている。

 

西安

早朝から稼働している市場はあるだろうかと歩き回っていたが、殆どが、自分の溜息さえ響く静かな通りでしかなかった。早すぎたのだろうか――と、あまりの動きのなさに諦め始めた頃、大通りから中に入ってそれからどう歩いたっけか、青白い空気の中でただ一か所、ポワンとしたオレンジ色の光がはみ出している空間が遠くに見えた。影絵のような数人の後ろ姿が、ジッとそこに佇んでいる。待っている。私もまさに待たれていたように、近づいた。

「煎餅屋」である。といっても、テレビを見ながらバリバリするお茶の間の菓子でもなければ、「餅」という字が付くからって、日本の正月の必需品・「モチ」を意味するわけでもない。「餅」は「ピン」と発音し、中国において小麦粉製品(小麦粉を水で練ったもの)全般を差し、さらに「煎餅」(=ジェンピン)とは、平べったく伸ばすなどした生地を、(鉄板等で)コンガリと両面を焼き上げたものである。小麦粉の――そういえば、「太鼓煎餅」とか日本にもあるよね、というアレも「ホットケーキ」もまぁその分類に入れないこともないのだろうが、中国で「煎餅」と掲げられるとき、生地は、ホットケーキ用ほどにトロトロとゆるくもなく、餃子用のように捏ねることのできる、弾力がある生地を焼き上げたものが殆どであり、かついかにも「菓子」である甘い味は少数派である。たとえに出すならば、野沢菜などを入れ込んで焼く、長野で知られた「おやき」がしっくりとくるだろう。

店頭・三メートル程度の間口に並べてあるフタつき丸鉄板・二台のうちの一台を、白衣を着た店の青年――のような少年のような――が前にしていた。ほのかな狐色に染まった巨大円盤おやき・その底に、ものさしよりも長い棒を、中心を通るように差し入れ、そのまま上へと浮かせてヨイショっとする。と、ほう…。バフンっと、座布団を放ったような風が起こり、うまいことひっくり返った。厚み二、三センチあり、持ち上げた時のしなり具合からしても結構な重みとカサだろうが、さすが慣れている感じだ。若そうな兄ちゃんだが、その無表情には「なんてことないし」という余裕が見える。中国で「美形」とされる分類がどういうのかは詳しくないが、鼻筋がガチっと通って顎はカクカクっと引き締まり、目はスッと鋭く唇はキッと揺るがない――いかにもとっつきにくい、「壁」を感じさせるクールな雰囲気に、逆に引き込まれる。綺麗な男の子、だと思う。

そうしてその表面に、ペンキ用のような刷毛で塗りつけている黄色い液体は、「油」だろう。蓋を閉めて、また開いては塗って…を繰り返し、フタを大口に開けてさらにバフンっとひっくり返す。

じっくり焼いて、待ちわびて――そうして狐色が声高に、黄金を放つようになったならば、焼き上がりらしい。

アラ、今度は弟…かどうかは知らないけれどもやや幼い少年が、やっぱり白衣、そして家訓なのか・やっぱり冷たそうな表情で、同様に一本の棒を円盤の底から差し入れると、反対の手に持った、巨大な掴み棒でもそれ(円盤)を支えるよう挟み、鉄板の隣の台へと放った。瞬間ザザッとした濁音に、歯切れよい食感が想像できる。

 それからの展開は早い。

「それきた」とばかりに一気に人の声が湧き、弟君は、頷きはしないけれども確実に「その声」を一つ一つ聞き入れているらしく、肉屋にあるような長い包丁で、ザクッ、ザクッと、その円盤に躊躇なく刃を振り落としてゆく。ざっと切り離した数切れをはかりの上に載せ、「よし」となったら、それを更に握りこぶし大へと切ってから、ビニールへと収めてお引渡し・お勘定――となる。それにしても、ザクッ、ザクザクっ、ザクッ…――それ、脳に心地いい。

量り売りだから、かき分けるかのように飛び交うお客の叫びは、「重さ」を言っているのだろうが…。それにしては、それらしい細かい数字には聞こえない。じゃあ「○人分頂戴」だろうか。或いは、「その半円になったのを三分の一ぐらい」とか言っているのか。…ワカラン。

おそらく家族分をまとめて買いにきたのだろう、半円分ぐらいドカッと持っていく人も少なくない。私がこと細かに中国語を喋るとすれば、「半円のそのまた半分の、その三分の一ぐらいでいい」となるのだが、そんなにチビッとの注文などしている人なんていない。ドカドカ、ザクッと、大量の破片が気持ちよく袋に消えてゆくばかりである。

弟君といい兄ちゃんといい、若くともその「無表情」にはハクがあるのだ。ちょこっと過ぎて、「はぁ?」ってな感じで顔を歪められたらヤだなぁ。…って、それ以前にどういう言い方をすればいいか。とりあえずグラムで言ってみるか。…って、何グラムでどれだけの大きさなのか、ちょっとよく分からんのだが。量る動作が素早過ぎて、針の振れもよく見えないし。

ザクッとする時に生じる細かい屑が、ほぼ「まな板」同然と化している台の上に、演出のように散り積もってゆく。それを眺めるがままに時は過ぎ、ぐずぐずとしていているうちに「円盤一枚」など終わってしまい、隣で焼き上がったのもすぐである。私と同様、未だ手にせずの人が、「あ…」とネジの抜けた顔をしている。

――が、買いそびれたものの、それがよかったのだ。兄ちゃんは既に鉄板から後ろに下がり、オレンジ色の電球三つ四つが吊り下がるそのもとで、大きな台に載った白い塊を前にしていた。これから焼く為の生地、か。その仕込みが見られるのではないか。

 

一心に捏ねくっているその塊は、強情そうだ。

田舎で使う漬物石・四個分ぐらいはある塊を、やや太い棒状にして、グニグニと両腕で捩じるようにもみ広げては、広がった端を下に折り畳んで小さくして、またもみ広げる。脂が詰まったブルンブルンの腹を揉む、なんだかエステのぜい肉マッサージを思い浮かべてしまうが、それを何度も何度も「ヨシいっか」となるまで繰り返すのだろう。見た感じ、ツンと指でさわったらポワンポワンと震えるような、既に弾力の良さが想像できる生地であり、その半袖シャツから延びる白い腕の、ガッチリとした締まりのよさが仕事っぷりを物語る。…にしても兄ちゃん、真っ白な生地にも負けず、肌「白い」わ。それはまるで、ひな人形を思わせる。

 塊を、ある程度に――ドッチボールぐらいに分割して、長い・五、六十センチはあるめん棒を転がして、広げてゆく。手粉を何度も振りながら、丸く丸く、厚さは一センチ程度か。張りのある動き、その素早さを、めん棒が台に当たる度にたつ「ダン、ダン」の響きが代弁しているかのようだ。

広がったその表面に刷毛で塗りつけるのは、生地の白に対して艶やかな、透明な黄色い「油」。…お仕事中だからまぁ当然なんだろうけど、兄ちゃんの目は、見下ろす姿勢だからよけいに鋭く見える。…逞しい、クールな色白美男子。となると、アンタ結構モテるんじゃないのか。

 で、一面を輝かせたら、その上からパラパラと何かを振り撒き、円の端っこからくるくると巻いてゆく。

ロールケーキのようになった、その「渦」がのぞく両端を、生地の下に潜らせて潜らせて…とやって再び「塊」にまとめ、その上からめん棒を押し付けて、また広く丸く伸ばす。丸く、丸く。…綺麗に丸くなるもんである。

そうして、今度はより端整な円盤が出来たら、空いている鉄板の上に載せる。大き過ぎず小さ過ぎず、鉄板サイズ内に収まるのは、さすがだ。あ、先に鉄板に油は敷いたっけ…というと、この生地の前に、散々と塗りながら焼いていたから、その「残り油」で充分だろう。そうしてゴマをパラパラと振り、大口開けていた「フタ」を下ろす。

やはり途中、上からタップリタップリ惜しみなく、刷毛に油を滴らせながらじっくりと焼き上げてゆく。

 

何枚、売れてゆくのをやり過ごしただろうか。

というよりも、「もう一回」――ついつい、生地を触るその手つきと、それが焼き上がってゆくまでの変化に見惚れ、匂いに酔い、包丁のザクザク音に聞き入ってしまう。だがもうそろそろ、…いい加減、買おう。買いもしないのにずっと立っていると、不審者が…という視線をされかねない。

「二元分、頂戴」

なんとなく、そういう言い方が分かってきて、告げてみると、弟君の表情は、前に注文したおばさんの時とそれほど変わることなく、あっそ、という感じで腕はザクッと途切れずに続いた。――ヨシ。

二元分は結構ずっしりとして、食パン一斤よりもまだ重いんじゃないのかコレ。一回で全部は食べられないだろう。「一元」と言ってもよかったようだ。

塗りたくった油でほぼ「揚げ焼き」状態だったはずだが、油っ気をそれほど感じさせない、表面の肌は軽やかだ。サックサクしている。が、指は確かにヌメっているから「感じさせない」だけであり、カロリー満点なのは免れないだろう。

ザクッと切られた断面は、想像通り「パイ」状である。生地に油をぬり、巻いて丸めて重ねてまた広げて巻いて…とやることで、生地と油が「層」を為してゆく。それに火を通せば、挟み込まれている油の層が、それに接する生地を直接熱する。だから生地の層・一枚一枚が明確になる。

 捏ねたからのばす。伸ばしたから丸める。丸めたからまた伸ばす。伸ばしたから焼く、焼けたから売る――という一連の流れを冷静に回転させる兄弟のように、「買ったから帰る」という、当然の成り行きに沿い、何事もなかったかのような顔をして立ち去る。――んだけれども、「お宝」を手に入れたワクワクで、足元が踊っている。早足になる。早く、食べよう。 

 

 表面サクッとはしているが、中の層はパリパリしているというよりも、グインと伸びがいいようだ。

香ばしい。生地は、小麦粉、塩、水のシンプルな配合だろう。だから、油で焼くからこその、香ばしさが生きる。油で焼くからこその、甘みが分かる。膨張剤が入っているのかどうかはわからないが、このフックラ感は、熱されて層が浮いたことによる膨らみのように思う

生地をロールにする際、パラパラ振り撒いていたのはおそらく塩だろう。が、ほんのわずかに当たる程度でしかなく、もうちょっと強くてもいいのに、と思う。――「これだけ」を食べるならば。

ということは、「これだけ」じゃないのか。地元の人は、これを片手に、オカズを食べるのだろうか。

――なんてことを思いながら二へっとしているのは、あら、年甲斐もない。きっと、こういう顔で買いに来ている女子高生が、数人いるハズである。

携帯している方位磁石を取り出した。この場所を覚えねばならない。明日もきっと、辿りつくのだ。

ちなみに餅は、「千層餅」という。

 

黒パンよこんにちは ~チェルノウィツィー

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ウクライナ。バスでルーマニア国境を越えて数時間、「チェルノウツィー」という町にやって来た。

…んだけれども、辿りついた宿のオーナーは英国人。その家族、いや友人にも見えない、お手伝いさんのように掃除洗濯雑用をやりこなす、ひょろっとした中年のような青年のような年齢不詳の男性もまた、英国人。オーナーの美人若奥さんはウクライナ人だけれども、もんのすごい流暢な英国英語を話した。「洗面所で洗濯はするな」「石鹸は自分のものを使え」「皿は必ず元の位置に戻せ」云々、いちいちと規則が事細かに書かれた掲示の紙はまぁわかるけれども、家族間の呼びかけも、喧嘩も、家族の食事に交わされる何気ない一言二言も、何から何まですべてまるっきり「英語」オンリーの世界。一つか二つの、床を這いまわる赤ん坊も、この箱の中ではゆくゆく「そっち側」で話をするようになるのだろう。

ウクライナに来た、という気がイマイチ高まらない。

加えて、赤ん坊には手がかかる。美人妻は子育てに疲れているのか、「ご機嫌ナナメ」であることが、旦那や青年に対する言動・態度からビリビリと伝わってくることが結構ある。とはいえ、旦那は「そんなキミが丸ごと好きだよ」と歳が随分離れているだけに包容力もあるのだろう・夜はビットリ、客の存在などお構いなしにくっついて、二人映画鑑賞に浸っているからまぁ安泰なんだろうが、こき使われて八つ当たりされて、の青年的中年はたまったもんじゃないのではないか。不満が積み重なり、いつか爆発するんじゃないかと、フリーの時間はたいていパソコンの前でゲームに熱中している、その物言わぬ背中をジッと見てしまう。

「家庭の中」を、アカの他人(=私だ)がチョロチョロと、邪魔にならないようにウロついている感じが拭えない。

 

ホぅ―― だからこそ、宿から一歩外に出た瞬間のこの爽快感ったら。

単に通りを歩いているだけなのに、非常にスガスガしい。山の清涼な空気の中で深呼吸をするようであり、憑き物が落ちたようでもある。…なんて、オーバーなんだけれども、ともあれ「あんまりプライバシー丸出しの宿というのも考えもんだなぁ」などと思いながら、軽い足取りで町を歩いた。

丘か、というほどの急な坂道はびっしりと石畳で埋まり、それだけで「時代」の雰囲気があるのに加え、道沿いには、これまた美術館を思わせる麗しい建物がズラズラと建ち並んでおり、ゴージャス感がみなぎっている。

「ロミオ様…」というセリフを吐いてもおかしくない豪華な窓枠は、しかし黒ずんだ石壁の、いかにも古臭そうな建物だけではないようで、おそらく築数年であろうものにもはまっているのは、「これが私らの美意識ですんで」というもんなのだろう。ところどころでその窓や入口の傍には、服の皺が見事にはためく、彫刻の天使っぽい像が引っ付いていたりする。…そこまで「荘厳感」を出さんでも、と、最初はズッコケそうになったけれども、結構あっちこっちで「ヤァ」と浮遊しているのを見上げていると、なんとなく、彼らはその背後の建築物から抜け出した魂であるような気がしてきて、建物自体に親しみが湧いてくるから不思議だ。

教会の尖塔が空を突く中を、トロリーバスがウィィィンとレトロに走り、その脇でマウンテンバイクに乗った少年たちが、大声で何かを掛け合いながら、ガタガタと石段を駆け抜けてゆく。乳母車を押す、談笑しているママ友が、ゆったりと通り過ぎる。…石畳の雰囲気はいいんだけれども、足の裏が疲れるなぁ。乳母車も振動が結構くるだろうに、と思うが、こうやって赤ちゃんの時から、身を持って石畳に慣れてゆくのかもしれない。

ルーマニアとは異なる町の雰囲気に、散歩だけで時間をやり過ごせてしまう。…が、やはり一番のわっくわくは、市場だ。

庶民の生活には欠かせない場所であるというのに、トロリーバスで三十分以上かかった。あまりに遠いもんだから、乗り合わせた隣の人に「ここ?次?まだ?」と、ハラハラしてしつこく聞きながらであったが、そんな中、返ってくるのがウクライナ語であること・そのことにニンマリとしてしまう。「新しいエリアに来た」現実が、やっと自分の血管を流れている。

小学校の敷地・二つ分はゆうにあるだろう。ありとあらゆる食品や生活雑貨が揃う巨大市場は、屋根付きの「常設」と、そこに収まり切らず、通路や敷地外を取り囲む道路脇へとはみ出した「場外」とでも表わせるエリアで展開されていた。「常設」の方は、各店舗スペースに余裕があり、一つの店が小屋という感じであるが、「場外」は、段ボールや小さな折りたたみ机の上に商品を並べるという、即席かつ簡単な出店である。

ダンボール箱に積んである中玉スイカとラグビーボール大のメロンの横で、それをポンポンと叩きながら「甘いよ」と叫ぶ、腹の突き出たおじさんのヤケクソのような声が、青空に向かって威勢よく伸びる。うーん、と悩むフリをして、さらに歩を進めた。

瓶に詰められた、小さな小さな赤と藍色のベリーが、太陽にギラギラ照らされてキラキラ宝石のように輝く。綺麗…だけれども、この炎天下に晒されれば傷みは早そうだ。バケツに納まっているネギや香草は、ペットボトルで上から水を振り撒かれ、付け焼刃的に瑞々しさをアピールできてなんとかなるんだろうけれども。

ポクポクとしたキノコが、赤ずきんちゃんが腕に下げるような籠に詰まっているのは、果たして「カワイさ」狙ったディスプレイだろうか。

杏を色・大きさで箱に分けて積み重ね、「こっちが旨いよ」とオススメするのは、、ピッチピチの短パンと体の線丸出しのTシャツで野菜売りにはちょっと見えない、若いお姉さんだ。いかにも「自家製なのよ」という、不揃いの瓶やビニール袋、バケツに詰めてある、チーズやスメタナ(サワークリーム)を前にして、頭巾をまわしたおばあさんたちが、「おいでおいで!」と手を振って訴える。

「食べてみる?」と、足を引っかけるかのようなタイミングでピクルスが差し出されても、行き交うお客たちは冷静な面持ちで、ペースを緩めつつも硬派に通り過ぎる。呼び止められるたんびに足を止めているのは、私ぐらいかもしれない。

さて。

パン売り場が、あちこちにある。あれこれと、ある。

山型、丸型、棒型。編み込んだ鎖型。丸い生地を輪にくっつけた、花型。中華のまな板よりもずっと大きく太い、まるで「切り株」のようなパンは、どういうつもりなのだろうか。

形に加え、色の濃淡があるから迷うのだ。形が独特だと気になるけれども、やはりウクライナで手を出すならば「黒パン」だろう。耐寒性があり、やせた土壌でも栽培可能なライ麦は、この地にとって古くからの主要な作物であり、それを使うために色黒く焼き上がるパンは、昔より庶民の食卓に並ぶ大切な糧であった。とはいえ現在、小麦との配合率等によって食感も色も変わったものが豊富に店には並び、様々な「色合い」から選ぶことが出来る。おそらく粉は全てライ麦と思われる程に「真っ黒」のパンもあれば、表皮(ふすま)交じりの小麦を使った、ほんのりした茶色もある。精製された小麦オンリーの、中身は「真っ白」と思われるパンもまた、珍しくない。

一般に「白っぽい」・つまりふすまの含有が少ない、精製された小麦粉を多く使うほどに、パンはフワフワと柔らかくて軽く、ライ麦やふすまの配合が高い、黒色を帯びたパンであるほど、どっしりと重くなる。これは、パンの膨らみの骨格となる、麦のタンパク質「グルテン」の含有量による。ふすまが入ればその性質を妨げるし、ライ麦自体には元来その成分が少ない。

「常設」のパン屋の方が、棚を備えつけ、テーブルにもズラズラと種類多く並べてあるから、どうしても惹かれる。種類が多くったって買うパンは一つなんだけど、「選べる」と思うとやはり気になる。…とはいえ、「通路」にこじんまりとある、机に並ぶだけの数を売るパン屋というのも、夜明け前、電球一つが灯った薄暗い部屋の中で生地を捏ね、パチパチと薪をくべた小さな窯で焼き上げる――とかいう、純朴なる自家製世界が勝手に想像されてきてこれまた引っかかる。

あれこれと逡巡し、結局「ココ」と腹を決めたのは、「常設」に収まる回転のよさそうなトコロだ。

四畳もないスペースに備えた棚は、エプロンを下げたお姉さんの背丈ほどの高さだが、ぎっちり・隙間なくパンが詰め込まれており、まるで書斎にある辞書や研究書のよう。ひと目、「売れんのだろうか?」。残ったら次の日にまた売るのだろうかと思わずにはいられないのだが、お客が訪れて立つと、お姉さんはその白い指をスッと差し入れて抜き出し、ビニールに入れる――その素早く流暢な調子には、「完売」の字が即チラついた。

大型のパンが殆どだ。棚には収まり良く、直方体の「箱型」が多い。机の上には棍棒型や、ケーキよりも一回り大きい丸型が、色分けされて並んでいる。

…やっぱり、悩む。

黒を欲するならば、とことん「真っ黒」を目指すべきか。だがソレと決めようとすると、「くどいのだろうか…」と躊躇が生まれ、かといってあんまり無難な優しい色では、「せっかくウクライナまできて…」と自分が不甲斐ないような気もしてくる。じゃあ中庸を…とはいっても、グラデーションのように微妙に分かれている色の中から「コレ」と指をさす決め手をどこに求めればいいのか分からない。

多数派よりは、少数派を選んでしまいたくなるヘソ曲がりだから、箱型よりは、丸型を。色は、濃くはないけれども、意味ありげな灰色のやつでヨシとしよう。

同じ「丸型」でも、中心が高く自然の膨らんだというものと、その上に花瓶を載せたってオッケーな、綺麗に真っ平なもの(鉄板を載せて焼いたのだろう。)がある。色は似ているが、アレとソレとは種類が違うことの意思表示か。ふっくらとした盛り上がりに今は琴線が触れるから、そちらを。

ドスが効いた「黒」は、また次にしよう――と、もんのすごく時間をかけ、選んだ。ひとところに立って悩んでは、お姉さんのアイラインくっきりお眼目で「ナニ?」と射抜かれそうだから、その周囲を何度も往復し、野良犬のようにウロつきながら。そんな逡巡など知ってか知らずか、「ハイこれね」と、何ともなかったかのように、これまたアッサリと渡してくれるもんである。

と、重い…。見た感じよりも、2.5倍はずっしりと感じた。

 

家族三人でショッピングか。シンデレラ青年は徹夜のせいか、向こうの部屋でグースカ寝ているのがちらっと見える。

誰もいないキッチンで、じゃあのびのびと――昼飯だ。

電気ポットのスイッチを押して、荷物からティーバッグを一つ取り出したら、早々にパンを取り出す。…の前に、同じく市場で買ったキュウリとハムをスライスだ。

キュウリは、小型だが、ガッチリと果肉が詰まって瑞々しい。ハムは、脂身が豊かにのった豚バラで、チャーシューのようにほんのり赤く艶がある。皮部分のプルンとしたゼラチン質が見るからに旨そうだ。みんなが塊を一本ドカッと買っていく中、「チョッとだけ欲しい」という申し出を、憐れむように切り分けてくれた、店の青年だった。だって一人モンの、しかも旅人なんだよ、私って。

 そしてようやく、パンをスライスする。

南太平洋のタロイモみたいに、灰の中に埋めて焼くわけじゃないんだろうけれども、表面には砂のような粉がまぶっている。地面が隆起したような亀裂が側面から入り、なんというか、老木を思わせる「渋さ」がある。

包丁で突き刺すその手に、グッと力が入る。パンを切るのに「ンっ」と踏ん張るのは、同じく黒パン圏であるロシア以来だ。その表面に、爪なんてとても食い込ませることなんてできないのはもちろん、切り目を適当に入れたらあとは手で引き裂こう、なんてのもまたアマイ。機内食で貰う、プラスチックのナイフなんかじゃママゴトでしかなく、ちゃんとした「刃」のあるナイフが無いとダメでしょう。窯の床部分に、生地を直に置いて焼き上げたのであろう・パンの「底」の部分が特に固く、ダンボールを数枚束にしてカッターナイフでキコキコする時ぐらいに力が要る。

断面は、細かい気泡がギッチリと詰まっていた。

切ってしまったら乾燥が気になるから、まずは口に入れてみる。

何事かが詰まった香ばしさがある。簡単に流し去る(飲み込む)にはいかないネッチリとした弾力は、しかしながら醗酵して膨らんでいるだけあって、どことなく「ふんわり」の感も内包している。噛みしめなくちゃいかんけれども、食べにくくもない。その微妙な具合が快感だ。

深く濃い、しっかりした印象を残す味。噛みしめる喜びをもたらす味。それは、肉を連想するようでもあるし、魚を食べるような満足でもある。オカズを呼びこむ風味、とでもいうのか。だがオカズがなくたって、これだけでも十分食べ続けることが出来るような気さえする。「重い」のは伊達じゃなく、「食事をした」という意識をドシンと打ち付ける貫録がある。

 と、脂身ハムとキュウリを一緒に食ってみると、…こりゃ合わせずにおかでか、進む進む。パンが余計、山の頂上から雪だるまを落とすように、食えば食うほどに食欲が出る。

 ウクライナの旅は、まだ始まったばかり。末恐ろしきかな、と、一人ほくそ笑む。

宿の居心地具合など、全くもってどうでもよくなった。

 

シベリア鉄道 ~ロシアの中の故郷 

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「シベリア鉄道」初めの第一歩は、ロシア極東の町・ウラジオストクからイルクーツクへの三泊四日。三等寝台車での旅である。

車内は通路を挟んで両側に二段ベッドが配置され、片側は進行方向と直角(頭か足を窓に向ける)に並び、もう片側は、窓に体を沿わせた、進行方向と並行に寝るかたちとなっている。三等だから当然一等、二等があり、一等は床にベッドが二つ並んだ、二名用の個室であり、二等は二段ベッドが二つ並んだ、四名が利用できる個室。三等はというと、「解放寝台」と訳される、ドアやカーテンといった仕切りのない、一車両がまるごとが「ひと部屋」・つまり相部屋であり、料金も安い。節約というのがモチロンの理由だが、車内がツーツーだと、どんな人がいて、どういう風に車内で過ごしているのか、乗客たちののんびりとした様子を眺めることもできるし、より、いろんな人と話をするチャンスも生まれる。グループならば個室もまぁいいんだろうが、異国を旅するならば、解放がよっぽどオモシロイ、と思う。

 さて。イルクーツクまでの旅路で、「窓に直角」の下段をとった私の、上のベッドの人。そして、テーブルを挟んだ向かいもその上も、逆隣もその上も、そしてそのまた隣も。そして、通路を挟んだ隣もその上も。

――みんな、ウズベキスタンの人々だった。どこかしら日本人を彷彿させる顔立ちだ。

ロシア・ウラジオストクへは、出稼ぎにやって来たのだという。そしていま、ブリザードとなる冬の間・数か月間の休暇を得て、故郷に帰るところなのだと、人見知りのないクリクリ笑顔で彼らは話してくれた。イルクーツクのその先の、さらに二晩近くかかるノヴォシノヴィルスクという町まで行き、それから列車を乗り換えて、カザフスタンを通ってウズベキスタン――に入ったら入ったで、それぞれの故郷の町までバスを乗り繋いでゆくという、いつ終わんのソレ、と気が遠くなりそうな私の行程「プラス」三泊か四泊、という道のりが待っている。三泊四日の長旅だ、なんてリキんでいたが、全く「アマイ」と思い知らされる。

 テーブル向かいのムーさんは、二六歳。上段の弟君は二十だ。兄弟揃っての出稼ぎである。

太い眉毛で、少々ギザギザとした髪。背はそれほど高くないけど、むっちりとした筋肉がポロシャツから延びている姿は、なんとなくラグビー選手の「主将」である。…んだけど、このムーさん。古い家風の家に嫁いでも立派に通用する、几帳面な性であるのが、ちょっと見ているだけですぐに分かった。

ベッドにシーツを敷くにも、垂れたまんまになどしておかずにキチッと端を折りこみ、朝起きたらキチッとたたむ。私のように、シーツも掛け布団も枕も、尻で踏みつけて皺まみれ、ということはない。買い込んでいたお得用ティーバッグの箱やコーヒーミックス(社内では湯がタダで貰える)、砂糖等の飲料素材は、テーブルの上の窓際に沿ってキッチリと歪みなく並べ、食事の前には必ずティッシュを、それもきれいに折り畳んでから、テーブルの上を拭く。顔や手を拭くタオルは綺麗に折ってベッド脇の手すりにかける。消臭スプレーをワキだけでなく、足の裏までも吹き付ける。

一方弟君は、チャイ(紅茶)が飲みたいといっては飲み物セットの列を歪め、飴の包み紙も放りっぱなし。寝っぱなしでシーツの整理整頓は無し。全く仕方がないワねぇ、と、ちょっと零してしまった砂糖などを、アラアラと拭き取るのは兄ちゃんなのであり、出稼ぎ中のこの兄弟の生活ぶりがうかがえるようである。

 さて、列車移動といって、真っ先に考えるべきことといったら「食事」だろう。

長丁場となるならば、食料の持ち込みは必須だ。食堂車も連結されているが、それを利用している人はこの車両においては皆無だったと記憶する。そもそも節約が念頭にあるからの三等車であり、ハナからそれを利用しようという気ってないのではないか。もちろん私もその例に漏れず、もっぱら食料持ちこみ組である。

途中駅での停車時間が長い時、ホームに出てみれば、周辺住民の小遣い稼ぎだろう・手作りのサラダや、茹で卵、茹でジャガイモ、ペリメニ(茹で餃子)などを籠に入れ、「いらんかね~」と売り歩く人が目に留まるから、そこからワクワク手に入れることもできるし、売店小屋ともいうべきキオスクもたいていあるから、パンやサラミ、カップ麺など、持ち込んだものが底をついても補充することも出来る。

いったいみんなどうやって車内を過ごす気でいるのか――ロシアに生きる先輩諸氏のその品揃えや食事模様をのぞき見するのは、楽しい。パンと、カップ麺、缶詰。サラミやチーズ、そして、タッパーに入れた、手作りらしい「鶏の煮込み」。色の変わったキュウリがトマトと一緒に液に浸かるのは、市場で買ったピクルスか、それとも自家製だろうか――など、「食堂車がある」ということを、正直忘れてしまっているのである。

 

というわけで、「主将」の食事だ。

まずチャイは欠かせない。窓枠の下からせり出しているテーブルにマイ・マグカップを置いたら、ティーバッグの紐をひとつ垂らす。カバンからカップ麺か、或いは缶詰をひとつ取り出したら、マグカップと、カップ麺の時はそれを持ち、車両スミにある給湯器へと湯を注ぎに行く。

 チャイと並んで必須であるのは「パン」だ。それが入ったビニールの中で少々千切ったら、カップ麺をめくった蓋の上か、或いは(缶詰の時は)テーブルの上へ直接置く。「少々」とはいえ、カサとしては四枚切り厚さの食パン一枚分かそれ以上ぐらいはあるだろう。足りないかな、といって、さらにガサガサと千切る時もある。

この人のことだから、ビニールの中で、というのは、クズが飛び散らない為の配慮だろう。だからその「全体像」は見えないんだけれども、千切られたものから推測するに、昔のレコードぐらいはあるんじゃないか。そう、円盤型だ。ウズベキスタンのパンの典型といえば、円周部分が「額縁」のようにフックラと膨らんだ「平焼きパン」である。額縁部分がかなりぶっといようで、平焼きとはいえ、厚み五、六センチはある。

 が、それはウラジオのどこで買ったのだろう?

パンだけを並べるパン専門店や、スーパーのパンコーナーに並んでいたのは、パウンドケーキ型の直方体、或いは巨大なコッペパンや丸型であり、いかにも「ロシア的」な、色の濃いパンだった。「濃い」のはライ麦や、ふすま入り小麦を使う為であるが、その配合具合によって、「うわ」と声をつい出てしまうほど黒に近いパンや、茶色、グレー等、微妙に色合い・濃淡が異なり、断面の目の詰まり方や重さも違う。味わい・風味ももちろん様々で、そのバラエティとはキリがないもんであり、ロシアのパンをすべからく制覇しようなんてことは、たかが滞在一か月程度じゃ無理だわ、と日を経るにつれ思い知らされるのだ。が、それにしてもこういう「平型円盤型」は、どこにあったのだろう。

平型円盤型は、一般的に精製した小麦粉を使う。つまり中身(断面)が「白い」。白いパンも、黒パンに比べれば少ないとはいえ無いことはないが、ほぼ、食パンなどの立体的なパンだった。ウズベキのパンに目を凝らした日々がかつてあった私としては、見たら「あ」と気づくはずだ。

が、私が歩いたウラジオストクの町とは、ほんの僅かなエリアに過ぎないのだろう。もしかすると、ウズベキコミュニティーともいえるエリアで、平型専門に作っているパン屋が存在するのかもしれない。出身者による、出身者のためのパン屋が。「パン食文化圏」に生きる人が、自分が食べるパンの姿・かたちを堅持しようとすることは珍しくない。

とはいえ、移動中だ。やはり手に入れ易い「多数派」に甘んじる、ということか・周囲のベッドのウズベキ人だって、立体パンを食んでいる人も少なくない。もちろん円盤を手にする人も「主将」だけということはなく、中には活け造り四人前でも載るような「大皿」を、ドンとテーブルに載せるグループもあった。一つを、四方から千切って食べるのである。

主将は、カップ麺の汁を持参したスプーンで啜っては、パンをさらに一口大に千切ってから、口に入れる。いや、スープにその切り口を浸してから食む、という方が多いだろう。そして時々、思い出したように、スープの素と一緒に付属しているプラスチックフォークで麺をすくい上げる。

麺とパンの「ダブル炭水化物」に、自分としては拝見するだけで結構です、であるのだが、かの地では麺料理(カップ麺じゃなくて、ウズベキ伝統的な麺料理)はもちろん、米料理(ピラフ)であっても、「パンを添える」ことは当たり前である。パンは何にも替えがたい、「これがなければ食事にあらず」なものである。それ以外の累々はすべて、パンの前に侍る「お供」といっていいだろう。

…旨そうに、汁を啜るもんである。

パンを片手にするその姿は、「スープとパン」の食事だ。中でウヨウヨしている麺とは、ニンジンなんかと共にある、スープの「具」の一種に過ぎないような気がしてくる。

缶詰の時は、その身(魚缶が多い)をパンの上にちょこっと載せるか、缶汁をパンの断面にチョイチョイさせてから、口にする。エキスがじゅわっと染みて、旨いだろう。ビニールの中に残っているパンは、次の食事用に回されるが、汁に浸して食べるのだから、少々硬くてもたいしたことはないのだ。

そうして、砂糖がドップリ入った甘い甘いチャイを、喉潤しに啜る。

だいたい六対四で、缶詰よりもカップ麺であることが多い。それは周囲の人々も同様で、この偉大なるインスタントの匂いは、いつも車内のどこかで漂っている。温かいスープとパン――雪景色を車窓に、なんとも贅沢な食事に映る。

 

 途中、ホームに下車して売店をのぞいてみれば、ちゃんと「多民族」ってこと分かってますねん、と、平型パンも見かけるのだが――どうも、違う。主将が持っている「円盤」は、ところどころ歪み、厚さが一定していない、どことなくシロウト臭さが漂う…。

「食べなよ」とたいてい声を掛けてくれるのだが、「食っちゃ寝」で太い腹が気になり、イエイエと何度かは遠慮していた。が、すっかり一員のようにこの場に打ち解け、自分のパンも食べきったし、じゃあ…。

私も例に漏れず、定番カップ麺を出した。通路を挟んだオジサンはタッパーを取り出して、手作りらしき煮込みのうち、鶏骨付きの結構デカいのを三つ、静止を聞かず、まだ乾燥状態の麺の上にゴロゴロとのせながら「これ共々、湯で蒸らしなさい」と指示した。…ナルホド。単なるカップ麺が…と、感無量である。

そして蓋を開いた頃、主将は、やはりビニールの中で千切ったパンを、テーブルに裏返した蓋の上に置いてくれる。

ダブル炭水化物…と、一瞬躊躇したものの、私も彼らのように味わってみたい・その興味の方が大きい。

 

パンをいただく。

甘い。砂糖で、というのではなく、白い小麦粉(精製粉)のみであるからこその、柔らかい匂いと捻くれのない味。が、中の気泡はガシっと詰まり、繋がりの強さを感じるその食べ応えに、さすが「パンの国」のパンだと思う。――って、日が経っているだけにパサついており、コシも余計に強く感じられるのかもしれないが、儚そうで、きっちりと存在感は植え付ける、食った気のする「濃いパン」だと思う。

これがまた、恐ろしいほどにカップ麺のスープと合うのだ。「麺」などホント、眼中にちょろっと漂うお飾りとなっており、炭水化物を二重に取っていることなど、ツユほども気にならないのである。それにしても、頂いた豪勢なお肉が、なんてホロホロ…。

それにしてもこのパン、焼き立てはさぞ旨かろう。

「作ったんだよ」

……。

生地は自分で練った――じゃあそれをどうやって焼くのだろうか。ウズベキの円型パンは、石造りの窯内部の壁に生地を貼り付けて焼くのが主流であるが、ロシアでの住まいは寮か何かだろう。祖国であるようなパン窯を、庭に作るわけでもなかろうし…。

答えは簡単。パン屋に生地を持ち込み、焼いてもらうのだという。窯は、残念ながら「タンディル」じゃないけどね――主将は、ロシアの窯を「扉」と言った。ウズベキスタンのパン窯といっても、壺のように入口がてっぺんにあり、そこから生地を中へ入れるタイプもあれば、ドーム状となっている窯内部の一部側面に開閉口があり、そこから生地を入れるタイプもある。どっちにしても、窯の壁にバチンよ貼り付けて焼くのであるのだが、主将が意味しているのは後者というわけではない。つまり日本のパン屋で普通に見られるような、横からパン生地を挿入して窯内部の床面に並べて焼く、立体パン用の窯のことである。

…へぇ。

もちろん使用料は払う。その方が経済的だから、というのもあろうが、やっぱりそれが、譲れないアイデンティティー――パンとは、自分の中にある確固としたものの一つがだからではないかと思う。

「故郷」のものであってこそ、日々のパン。「食った」という実感が得られるものであり、無しではいられないもの。無いならば作らずにはいられなかった、ロシアの日々――か。

とはいえそんなことはしったこっちゃないし、とばかりに、弟君は駅の売店で、二斤はあるブラウン色の食パン型を買い、一人食っていたが。

ちなみに兄弟の食事時間はバラバラで、それぞれが食べたい時に、のようである。喧嘩しているというわけではなく、寝て起きて、喋って食ってまた寝て…っとやっていると、いつが食事時なのか、感覚がそれぞれ狂ってくるのだ。加えて広いロシアである。地域によって時差があり、それを横断しているシベリア鉄道は、一応モスクワ時間の時刻表で動いているが、暗さ明るさからすると一体どの地域を参考に時間を考えるべきか、これまた迷路に迷い込んだかのように、分からなくなってくるのである。

 

その後、訪れた幾つかの町では、たいてい円盤型の平焼きパンを市場で見た。売り手は、中央アジア出身者が伺える顔である。ウラジオストクでも気付かなかっただけで、もしかするとあったのだろうが、それを買うことなく自分で作る――スゴイじゃない。

「ええと、何日かかるからぁ…」と、列車旅の日程を考えながら、量を考えて捏ねたのだろう。なんとも気が利くヨメさん…ではなくて、ヨメさんに気が利くいい旦那となるでしょう、と、主将の婚礼には私も一言祝辞を述べたいぐらいである。

ロシアの市場で売られる「円盤平焼き」は、黒パン各種に比べれば、ダンボールひと箱分とか、小さなテーブルに重ねられるだけ、という規模でしかない。が、やはり譲れない、彼らの必需品だからこそ、そこにある。

そのたび、主将たちを思い出していた。今ごろ故郷では、懐かしのパンを堪能していることだろう、と。

ハム輝くカンボジア ~ストゥントゥレンン

 

 東南アジアにおいて、かつてフランスの植民地下に置かれた、ベトナムラオスカンボジア。独立して時は流れても、「かの時代」の証明ともいうべきものが、生活習慣の中にポッと混じっているということに、部外者であってもたやすく気付くことができるだろう。その一つが、「フランスパン」。

 とはいえ、奥まった地域の小さな農村・隅々まで行き渡っているというよりは、少々賑やかな「町」で並ぶものという感じではあるのだが、フランス的なるその棒型パンは、現地の人々の空きっ腹を埋める手軽な食べ物として実によく手にされており、定着している、といっていい。側面に切込みを入れ、キュウリやら肉やらの「具」を挟み込む屋台があちこちで見られる光景もまた、三国共通だ。

どこにおいても、「エェ?」と唸る。ボリュームにしろ、味にしろ、「絶対フランスなんか足元にも及ばない」とは、私は(フランスに)「行ったことがない」からホントは断言できんのだが、そううそぶいたって知ったこっちゃないぐらいに、ホントウに、ウマイ。どうウマイかはエリア別にクドクドと並べ立てたいんだけれども、私が思うに、その一押しは「カンボジア」だ。

 

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「ストゥントゥレン」はカンボジア北東部にあり、東南アジアを縦断する最大河川・メコンに寄り添った小さな町である。約四〇キロ北上すれば、ラオスとの国境にも近い。

 朝。大河を眺め、同時に遥か遠くから流れてくる、諸々の記憶を受けとり、浸りに浸って気が済んだらば、背を翻して歩いて五分――せわしなく人々が行き交う市場へとたどり着く。一応、墨汁の垂れたような染みがつく壁で区画され、トタン屋根が引っかかった屋内らしきエリアもあるが、その内外、敷地いっぱいに「売り場」はもれなく広がっている。パラソルを地面に立てて日除けとしている、風通しのいい屋外をぶらつくほうが、明るいし空気も爽やか・スッキリ気分で歩き回れる。

地面の上にシートを敷き、並べられるのは、陽の光に当てられてキラキラと映る、活きのよさそうな野菜、果物、川魚。解体してまもない肉。鍋やお玉、包丁等の調理用品や、バーゲンセールのように山盛りの服。料金交渉、挨拶、「どいたどいた!」と叫ぶリヤカーの声かけ等々なにやかやと、何らかの「やりとり」でごった返している中に身を置くと、メコンの水面のように静まっていた自分のエネルギーも、ナニすかしてたんだろ、と目を覚ましてよじ登ってくるようだ。

やはり、市場はいい。

並べている蓮のような花を前に、七つか八つの小さな店主――少年が、そのうちの一輪を手にとっていた。茎をくるくると回してジッとそれを見つめているそのくりくりとした眼差しは、喧噪の中でぽっかりと浮いた静寂。異空間の出現に私もまた釘付けになり、カメラを取り出さずにいられない。

――と、「撮ったの?」

気付いた少年が瞬間に咲かせた、まさに太陽のような輝きったらどうだろう。再び即座に指がボタンに反応するほど私はカメラマンでもなく、本当は、その眩しい笑顔を撮りたかったのに――と、心の中でただ悔しがるだけである。もう一度、と決して用意など出来ない、心そのままの照れ笑いだ。

見惚れつつも歯噛みする、この、ほんの数秒の場面が以後、何年経っても印象深い。「最高の瞬間」とは、手に入りそうですり抜けてゆくもんであると、象徴しているように思えてならない。

 

カンボジアで、フランスパンは「ノンパン」と呼ばれる。それに「具」を挟んだものが、ストゥントゥレンにおける私の「朝食」だ。

雑踏に紛れ込むようにある、小さな戸棚を備え付けた屋台。そこで商う、ちょっとだけふくよかな女性店主は、おそらく四〇代半ばかもう少しか。行くとたいてい、キュウリや焼き豚等の「具」となる材料を、丸太をぶった切ったようなまな板の上でスライスしている最中で、「あ、食べる?」とこちらに気付く反応が、「起きたの?」と階段を降りてきた自分を振り返る母親のように、何気ない。

 少女もまた、いつものようにその傍らにいる。

 七つか、八つか。髪を、後ろの高いところで一つに括ったその尻尾と、括りきれない耳元や、オデコの短い髪の毛もまたクリンクリンにカールしているのが、いかにも「元気」だ。白いシャツに赤いリボンを襟元に結んだ、「制服」らしい格好をしているから、登校前のお手伝いなのだろう。

 いまは、妹と思しき、さらに幼い女の子を椅子に座らせて、朝食の世話をしている。店のノンパンをひとつ、一口大に千切りとり、ハムのカケラとともに口へ持っていくと、妹はウサギのようにムグムグと目をキョロつかせて食んでゆく。パン屋の子は、パンを食べて育つ…ってか。

 ビー玉のようにクリクリしたお眼目をして、「ハイ」とニッコリ、水の入ったコップを持ってきてくれるその姿だけで、こちらとしては十分「ありがとねぇ」と心温まるんだけれども、本っ当によく働くお姉ちゃんであるのだ。

 母親が「具」を挟み終えたノンパンを受け取ったら、「知恵の輪」にも見える、丸っこいカンボジア語がプリントされた紙を一重にグルッと巻き、輪ゴムをはめてお客に受け渡したり、お勘定をもらうのは既に手慣れている。「キュウリがなくなりそうだから」と、包丁を握っていた母親が具材を仕入れる為にその場を空けることになっても、まな板の前にスッと立ち、胸の高さにあるのをやりにくそうながらも、残された、切りかけのハムの続きを替わりに始める。またここではノンパンの傍ら「肉まん」もまた売っている(既に出来上がったものを蒸し直す)のだが、保温用の蒸し器の蓋をめくってみて、個数が少ないなと判断したなら、それを進んで補充する。この気の利きようは、既に母親の「片腕」だ。

 母親が仕上げた数本をビニールに入れ、注文先に「出前」に走るその後ろ姿――クリンクリンと尻尾を揺らしながら、「駆けっこ」のように懸命に手足を動かすさまは、やはり子供らしい。漫画と遊びにのみ没頭して、「お手伝い」の気など微塵もなかった過去の自分の後頭部を、思いっきりけっ飛ばしてやりたい気分だ――と、長じて既に久しい今でさえ、この子ほどのひたむきさが、はたから見ていて感じられることが、私にも一度たりとあったろうかとふと考えた。

 

 屋台の、スライスなどする調理台には、三段のガラスケースが前に付き、その中には薪のように積み重なったノンパン、肉まんは少々、そして、ノンパンに挟む「具」の各種が並んでいる。

 だがノンパンを取り出すのは、そのガラスケースからではなく、調理台のすぐ下にある引き出しを引き、そこから取り出す。屋台の本体には、足元の開閉扉を開くと炭火が熾っており、その熱で「引き出し」内のものをじんわりと温められるようになっているのだ。「具」の棚とオーブンが一体となった、まさにノンパン用の屋台戸棚なのである。ノンパンは既に何本か温められており、もちろん、この補充にも少女は、母親に負けず劣らず抜かりがなかった。

 さて、「具」の各種を挟み込んでゆく。

 パンの側面に切込みを入れたら、まず、真っ黄色の「マーガリン」を塗る。いったいどこで製造されたモンだろうかと思う間もなく、調理台スミにある小鍋でグツグツ煮えた「肉団子」を素早くほぐして挟みこみ、赤とベージュがマーブルになった煮汁も少々垂らし込んだ。

 そして、スティック状になった「キュウリ」を四本程度載せたら、100円ライターの大きさはある、「ハム」の短冊切り・厚みは約五ミリのを、五切れ――これを、パンの端から端まで敷き詰める。

その上に、これまたコンガリ・味濃ゆそうに色艶のいい「焼き豚」スライス・短冊切り(やはり厚さ五ミリ)を、同様「端から端まで」の重ね塗り。

更に、大根、ニンジン、未熟なマンゴーを、紐のように細切りにしたものの「甘酢和え」――日本でいう「なます」を、ギッチリとギッチリと押さえ込み、真っ赤な「チリペースト」を、チョンと、寿司のワサビのようにアクセントとしたら、終了。

結果、――これ、全部食べんの?と、重さも太さも倍以上に膨れ上がっているノンパンであり、「挟む」という表現は果たして適切だろうかと疑問でさえある。

 だが、食べてしまうんだわコレが。

 一番の立役者は、やはりなんといっても「ハム」。それが張本人だ。フランスパンといえば――正確にいえば、「具を挟んだパンといえば」であるが、カンボジアを一押しせずにいられなくさせるのは。

 それは、「厚さ五ミリのハム」が太っ腹な量に入っているというのもあるのだろうが、デパートなんかの「何とか物産展」で、「自家製」だの「熟成」だの、「職人歴」云々、いいことイッパイ並べ立てて試食させてくれる高級なハムでさえ、これほど強烈な印象を残すことはない。――旨い。旨いったら旨い。いったいどんなレシピが触れ回っているというのか、カンボジアのどこで食べてもコレ、「ハズレ」がないのである。…とはいえ、カンボジアを離れた今、それがどのように旨かったのか、舌の上に記憶を呼び起こすことが出来ないのだが、かつての日々、地味な見た目(というか、魚肉ソーセージ的に真っ平なピンク)に侮ったことを大反省しながら、その感動を毎度毎度、変わり映えなく日記にその字を躍らせている。だがこのハムを、現地の彼らが「ご飯」のオカズにしているという光景を見たことがないから、これはもしかするとノンパン専用の食材。この地の食文化の中で、「パン」とはいわば新参者であるが、それに添わせるハムとして、こんなウマイのを作ることができるとは。――パンの食文化としてはずっとずっと古いフランスでも、きっと無いでしょ、と、またまた知りもしないけど勝手に豪語したくなる。

 そして「なます」の味の塩梅がこれまた…と言い出すとキリがないのでこれ以上は割愛するが、具材のそれぞれが挟み込まれる理由というのがいちいち納得できるのである。

「ノンパン」自体を考えてみると、正直なところ、「具」の素晴らしさに、その存在感は奥に引き下がってしまっているのであるのだが、とはいえこれだけカサのある「具」をへたりもせずにしっかりと支えている。パン自体を味わおうと、「それだけ」を買い、千切ってみると、外皮は温め直さずともピンと張った厚みがあり、中の気泡は大小あってフンワリとしつつも、むしりとる強い弾力が頼もしい。食べてみると、優しい甘味が大人しげに鼻腔をつく。温めることでバリッとはなるものの、それに頼りきっているわけではない、芯のあるパンであり、「具」の前に消えてしまうのは勿体ない――いや、それも「具」を支える、立派な「味」となっているのか。贅沢にも。

 なんか、…「脱帽」である。

 カンボジアの人たちとは、旨いパンに、旨い具をわんさか載せて、食べている人たちなのである。

 少女は時々、小さなバケツに入った「なます」の甘酢が、全体に回るようにとその中身をかき混ぜている。調理台の上にあるから、つま先立ちをしてヨタッとするその必死な姿には、無条件に心打たれるものがある。

この親子は、商売しているんだけれども、…どうもそんな気がしない。って、いや、勿論彼らは必死なのであろうけれども、「お邪魔してます」と言いたくなる、まるで家の台所にあるような後ろ姿がそう感じさせるのだろう。

「イイ娘さんですねぇ、ホント、」と、包丁トントンしているお母さんに話しかけたくもあるけれど、ここはカンボジアである。子供がお手伝いをする光景は、あっちこっち、当然のごとく見られるもんであるからして、それは場違いな人間であることを宣言するようなものなのだろう。

                            (訪問時2006年)

詳しくはコチラ↓

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求む「焼き立て」 ~ラオス

 

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 信念を焼き込めたような、見事な焼き色。鎧をまとっているかのような厚い皮を蹴破るほどの「えぐれ」には、活きがいいという表現を通り越した、「雄叫び」とでもいうエネルギーを感じる。

「フランスパン」の中でいうならば、大きさは「バタール」に当てはまるだろうか。四十センチぐらいの長さ、野球バット(の太い部分)のような胴回り、そしてクープ(切込み)も、たいていのものがそのように三本だ。

 いわゆる「フランスパン」は、同じ配合で同じように捏ねられた生地であっても、パン一個分に分割する重量と成形する長さ、そして焼成前のクープの数がきっちりと決まっており、それによって、フィセル、バケット、バタール、ドゥリブル…等々呼び名が変わることが、ナントカ協会によって厳しく仰せ付けられている――らしいんだけれども、ラオスにそんな区分が適用されていることはなかろう、先の「バタール」と呼んでいるのも私のもいい加減な「見た感じ」である。それよりも一回り小さいものは「縦一本スッパリ」に揃えていたりするところもあれば、デカかろうと小さかろうと、クープは縦に一本スッパリ切ったのみ、というところなど、作り手の好みや主義によって姿は分かれるけれども、ざっと概観して、割合「一本」が多いだろうか。が、同種の棒型パン・「フランス的なパン」が同じく広まっている近隣のカンボジアベトナムに比べると、ラオスでは「三本」も結構よく見られると思う。

 ラオスのパン――は、「カオチー」と呼ばれる。ラオスはかつてフランスの植民地であったために、一目でそれを連想できるパンが根付いている。隣国のカンボジアベトナムのパンも、同様の所以だ。

市場や路上で、どの売場もこじんまりとしており、売り手もたいてい一人のみ。小さな簡易テーブルや、リヤカーを引っ張ってきてカオチーを積み重ね、人通りの多い場所に居座り「買おうかしら」と近づく人を待っていたり、あるいは、ミカン収穫用のような籠に、入るだけのカオチーを入れ、町や市場内を移動しながら、目が合った人に「どう?」と声をかけたりしながら営業する。

 見ものは、「クープ」だと思う。

 生地の窯入れ直前、その肌にシャッと刃を入れた部分は、生地に熱が回り膨らんでゆくなかでめくれ上がり、パックリと開いて裂けてゆく。「切り込む」という、ちょっとしたきっかけ作りを人はしただけであって、あとは生地自身が自ら起こす現象であるのだが、外側の「茶褐色」と、裂けた部分の「白」が、えらくクッキリと分かれた色をしているために、まるで全身コンガリ茶色に焼き上がっていたカオチーを、人がその手で強引に引き裂いたかのようである。片手で表面を押さえ、もう片方の手の爪を、その表面に立ててズボッと深く差し込み、そのままエイッと左右に力を入れて開くという図が生々しく思い浮かぶほど、クープのめくれ上がりは躍動感あり、その踊り上げる部分が収まっていたはずの中身・色白部分は、メリメリミシミシと荒れた肌を晒し「剥がされた」過去を物語る。

 爽快な「勢い」だ。深いところから厚い皮を突き破り、大きく反り返っている姿は、窮屈な服に押し込められた贅肉が、くしゃみと同時に解放されてボタンを飛ばしたあのよう。或いは、ストレスを溜め込んだ日々、「これもよろしく」と書類を放られて「自分でやれ!」とつい大きくなってしまった声。

 その、「スッパーン!」と弾けるパワーを生地に注入するのが、作り手の腕の見せ所――かどうかはさぁ知らないけれども、そういうつもりでなくてどういうつもりだろうか、と言うしかない。鋭利に立ち上がった、小指を思わせる妖艶は、またミロのヴィーナスやらの彫刻が表現する、身にまとう布のはためきのように波を打つ曲線もまた思い起こさせる。

 さて、これを割ろうとしたら、きっと「バリバリ」という音が……。

――と思うんだけれども、見た目に反して「古いじゃんコレ」という経験が少なくない。それも、今日昨日じゃないね?というのが分かるぐらいに。

皮は確かにぶ厚いのだが、時間が経っているためにキレはなく、北海道土産の「鮭とば」のようにムギューッと引っぱり千切る必要があり、顎もよく動かして噛まないといけない。

「焼きたてだったらどんなに…、」と思えど、このカオチーには「次」がある。もちろん、カオチー単独でも買うことも出来るのだが、たいていのお客は「具」を挟んでもらい、プリント紙をクルッとまいて輪ゴムでとめられたカオチーを受け取ってゆくのだ。

なんらかの台を備えた店なら、たいてい「具」の入ったタッパーを並べたり、具を細かく刻んだりするまな板も置いている。パテやハム、焼き豚、キュウリに香草、なます…と、結構豊富に揃っており、選り取りみどりに悩むなぁ…というと、フツウはそうじゃない。「一つ頂戴」と言ったなら、カオチーの側面にナイフでゴシゴシ、切り離さないよう慣れた手つきで素早く開き、その「すべて」を挟みこむのだ。

 カオチーは、箱入りバウムクーヘンにも負けず劣らずズッシリとその体重を増やし、単なる「サンドイッチ」という言葉で流すにはどうにもモッタイナイほど、味の方も一筋縄ではいかない深遠なる世界を見せてくれているのである。

 主役は、「具」か。カオチー自体はたとえ古かろうが、たいして問題ではないのではないか――といいたくなる、それは単なる「皿」に成り下がっているように思えるのだ。

いや、それはかえっていいことなのかもしれない。その「具」の重さ、汁気を受け止めるには、柔らかい「焼き立て」では役不足であり、古くなって頑丈さを備えた古いパンの方がむしろ望むところなのではないか。「具」の為に存在するパンならば、「カオチーのみ」買っても、革靴をくわえている感が否めないのは当然なのだ。袋に何本も買っていく人を見て、「求められている」カオチーについて考え込む。

 が、惜しいなぁ。本命は「具」だと開き直るしかないけれど、やっぱり「パン」そのものも味わってみたい。フレッシュならば、単独で食ったって「旨い」だろう、コレ。「具」の存在に頼らずとも、自立してゆけるパンだろう。

「焼き立て」が食べてみたい。

 ――ってそれはもちろん、不可能ではない。

これを持ち歩くだけで精いっぱいよ、と、「それ」が全てであるところ。カオチーをミカン籠に載せ、その背後にしゃがみ込んでいるおばさんを見つけたならば、とりあえず近づいてみよう。「具」に意気込んでいないところは、「フレッシュ(焼き立て)カオチー」に期待が持てる確率が高いのだ。

 パッと目に映る籠のそれはたった二、三本であって頼りないのだが、それは単なる「見本」。たいていの場合、本命はその下の、クッションのような布の奥にある。「欲しいんだけどなぁ、」という感じでおばさんに近づけば、割れ物茶碗を包みから開くように、分厚いそれをめくってくれるだろう。その布は保温用の布団であり、下には鉛筆を立てるように、刺せるだけ刺して詰まっているカオチーがある。

 開かれた中身から、その温もりがふんわりと伝わり、同時に香りも顔面にもやもやっとたちこめた。

ベニヤ板のような匂い。

焼き立てまもないのだろう。やはり、叫び声と共にめくれ上がったような、力強いクープの姿があった。

 

 さっそく割ってみると、皮はバリバリと期待の音を鳴らし、現れるのは少々クリーム色がかった「白」。

脱脂綿の塊を引き裂くような、モッサリ・モチっと、両手をがっしりと組んだ力強さがある。フワフワと軽くはないが、しかし柔らかい。

 小麦粉と塩と水、パン酵母イースト)とが合わさり、焼き上がった。その事実をひねらずストレートに表現した、素直な風味である。埃にまみれて奥の方に隠れている、その甘味を嗅ぎ取りたい。大人しいけど確かに存在するものを、ほじくるように堪能したい。――が、味わおうと口に放れば、その噛み応えの心地よさに酔い、集中できないのだ。果たして快感なのは、その弾力か、それとも木のような芳香か。臆病な甘味なのだろうか。分かるようでわからないもどかしさがまた、魅力的ではある。

 つばの広い藁帽子を被った、籠を前にしたおばさんは、そんな感動など全く知ったこっちゃないというように、隣の野菜売りのおばさんと体育座りで会議中だ。「隣の奥さんったら、昨日すごい剣幕でご主人を怒鳴っていたのよぅ。」とかいう、冷やかしの笑いが入っており、こんなスゴイものが、井戸端に添えられるありふれた存在であることに、くらくらするほどの羨ましさを感じる。

 

 

道端の連係プレー ~ヤンゴン

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んんんんん、と、揺さぶられる。

焼き立て――となると、特に腹が減ってもなくとも、惑わされる。

「お焼き」か。ジュワァァァ、パチパチパチ…と、油の音が耳を引っ張った。駅の改札口前でやっている「大判焼き」よりは一回りぐらい大きいのが、水溜りのような油に浸かり、飛沫を上げている。

早朝、オジサン一人と青年二人が、道の脇でパフォーマンスを繰り広げていた。

それはビルマでもポピュラーな、「インド的スナック」の一つとして紹介されるように、作り手である彼らの肌も、かの地を想起させるいい色だ。顔の彫りも深い。鉄棒で空中大回転しても、工事現場で柱一本担いでいてもおかしくない、タンクトップから出ている肩・腕のたくましいこと。カッコイイじゃないか。

鉄板係、兼、接客係を引き受けているお兄さんが、二本のヘラを駆使して「おやき」をひっくり返しながら、「いる?」という顔を向ける。ウンと即答したいのはヤマヤマだが、「どうしようかな」と、悩んでいる表情をしておいた。いまスグ包んでもらっても困る。「見たい」。そのあとで、アツアツを食べたいのだ。

 

四、五人用ホットプレートぐらいの、丸い鉄板――だが、底は真っ平ではなく、横から見たら器のようにもなっているのだが、鍋といえるほどに深くもない。それは中心に向かって、車いす用スロープのように緩やかに凹んでおり、鍋のフタをひっくり返したように、浅い。って、フタなんじゃないかソレ、と思うんだけれども、フタにしては鉄である必要がないから、やっぱりちゃんとそういう方向で使う、そういうもんなんだろう。

(鉄板の)製造過程で、何か間違えたのだろうか思わずにはいられないのだが、見ていれば、その曖昧さもわからないことはない。

深くなっている鉄板の中心部分に油がもやもやっと溜まる中へ、傍らのおじさんからから「ホイ」と、ミニホットケーキ大の成形された生地が投入される。生地は一センチ程度の厚さが四割五割浸かる程度の、「揚げ焼き」となる。

暫くしたらひっくり返して、もう出来上がりという時になったら、それを鉄板の「ふち側」に・つまり傾斜の高くなっている、油の溜まっていない部分へとヘラで寄せ、その斜面を利用して余分な油を下がらせるのだ。

揚げて、かつ油切りもできるし。もちろん炒めることもできる。

便利ではないか、ソレ。

ちなみに火元は、薪である。ドラム缶のような中でメラメラと炊き、その上を塞ぐように、スポッと鉄板を置いているのだ。

 

 アルミかステンレスか、タタミ一畳分ほどの台・テカッテカに滑りがよさそうなその表面には、既に丸められている、た大人の握りこぶし大の生地が幾つも並んでいる。成形係の二人はテーブルを挟んで互い違いに立っており、作業をキッチリと分担していた。

鍋から遠い位置に立つ、若者が先発である。

ボール状の生地を、まずは大きく広げてゆく。一つ取って、手の平で台に押し潰したらその端を持ち、ペチン、ペチンと台に叩きつける。持つ位置を変えながら、やがて宙にあおりもしながら、衝撃とぶんまわされる遠心力を利用して、それを薄く薄く広く大きく伸ばしてゆくのだ。その動きは、シャボン玉が空中で揺らめくようなスローモーションにも映るのだが、シロウトでは、裏を剥がしたばかりの「湿布」に時折起こるように、生地と生地がピトッとくっついてダンゴになったり、しわが寄ったままになったり…と、舌打ちを免れないだろう。

勢いに乗った生地は、しまいには「膜」のように向こうが透け、寿司の宅配皿六人前ほどの大きさにもなった。クッキーの生地を伸ばす時のように、めん棒をゴロゴロと転がすだけではこうは出来ないだろう。「技」があってこそ、である。

だが、勿体ないことに、それを「湿布」にしてしまう。

傍らにある、仏具の「チーン」のような容器の中にチョッと指を突っ込んだら、手をそのまま台に貼りついた生地の上に翳してツぅ…っと「液体」を滴らせ、ピッとキレよく振る。大匙一杯分ぐらいだろうか。それを、掌で生地の表面全体に塗り広げた。

台のテカりは、このせいだ。「油」である。

生地表面に爪をたて、一部をサッと撫でると、「成敗」とばかりに切れ目が入った。その部分をとっかかりに、扉をパタンと閉じるよう生地を折り畳むと、まっすぐではないけれども帯状となる。それを端からくるくると、というかクシャクシャに巻き、小さくまとめてしまった。

せっかく、あんなに広げたのに…。

とはいえ、前の「ボール状態」とは全く違う。油が、薄い膜となった生地の表面に塗られて、それが複雑に折り畳まれている――つまりこれは「パイ」である。生地と油との「層」が、出来上がっているということだ。

 油まみれで肌の潤い抜群のそれを、向かいに立つ相方――鉄鍋近くに立つ、キャップ帽のおじさんが、手に取る。

両指の腹で押すように、広げる。複雑に畳みこまれた生地はそれほど伸びず、ただ扁平に潰している、という感じだろうか。船の上で、網をよいこらせっと持ち上げるような、漁師姿が似合ういいガタイのおじさんだが、生地を触る指は、正座をついて「ようこそお越しくださいました」の女将のように揃い、なんか優雅だ。

 そうして平らになったら、そのまま油に――鉄板中央あたりに入れ、そこからはヘラを持ったお兄ちゃんの出番となる。 

 

過不足のない、完璧な連係プレー。

何個もペチペチを見ているうちに、「成敗」の切込みは(中心から)ズレた方がいい「帯」になるのだな、とか分かってくるし、テカる油に「大匙一杯何キロカロリー」などとイチイチ思うことなく、単なる水と大差ないもののように見えてくる。だってどうせ、たっぷりの油で、揚げ焼きするのだ。

 気が済んだ。

じゃあ、ひとつ買おう。

 ザラメが振ってある。が、砂糖のとは別に、油をしっかり使って焼き上げたことの甘さがある。層がしっかりと出来て、パラパラとしてはいるのだが、膜一つがビヨンとしなる。

インドにおいては、これはカレーに添えられる。が、ご飯が主食のビルマだ。砂糖を振りかけて食べるという点、やはりこれは「スナック」の位置にある、ということか。

かの地を思わせる人たち。とはいえ、彼らはビルマで生き、暮らしているのだ。

タシュケント・タイプ2 ~座布団の快感

「円盤・平型」・もう一種類。

サイズは同じだが、豪華な『額縁』に比べれば、えらくシンプルに映る。

やはり、中心部分に比べて円のふちに厚みがあるのだが、「額」を浮かべるほどではない。いかにも「見て」と言いたげな、ゴテゴテとした顕著な彫刻模様などはなく、なだらかで自然な膨らみだ。フックラとした座布団のど真ん中に、握りこぶしを押し当てたような感じだろうか。こぶしではなくて、やはり表面、『額』同様に押されているのは「剣山スタンプ」であり、点々模様が花を描いている。

 目が行くのは、正直コレではなくて、豪華な『額縁』パンの方だ。食べてみたい、と心が湧くのはあちらであり、あのフチに触れ、彫刻部分を割ってみたい…と駆られずにはいられない。

なのに「地味」なこちらに手を出したそのきっかけとは、単に「あっちは(値段が)高い」という理由からである。そして高いだけあって、ごっつくもある。遠目に見るだけでは、一人で食べて(食事)二回分かなぁ、とみなしていたが、手に持ってみれば、確かに『額』がブっといだけあって結構なおもりとなっており、量としては想像の倍近くはあるだろう。

 ちょっとなぁ…。パンはできるだけ、「焼き立て」をその都度買いたい。

対して『座布団』の方はというと、額が貧弱な分「軽い」し、訊けば三、四割も安い。

 

古雑誌を積んだように、一輪車いっぱいにガラゴロと市場に運ばれてくるパンは、たいてい焼き立てだ。

パンの上から被せられている厚い布は、保温効果抜群らしい。めくった瞬間、押し込められていたパン一枚一枚の熱気は呻きをあげ、頬を、鼻を襲うように突いてくる。「手ェ洗った?」などという発想は既になく、隣に立つ、スカーフを頭に巻いたおばさんを倣い、素手でまさぐるのみだ。

『額ぶちパン』が、高級家具の木目を浮かべる深い茶色であるのに比べ、こちらはやや黄色かっているというか、「ちょっと薄いんじゃないの?」という、薄幸的な色白さ。だが、黒ゴマが振りかけられている表面の、ツルッとして、もち肌を思わせる光沢は、負けてはいない。

腰をかがめて物色していると、売り手のお兄さんは「ホラ、ホラ、ホラ、こっちも。どう?」と、円盤数枚を、まるでトランプを「くる」ように、とっかえひっかえ見せてくれる。

真面目で懸命な営業姿なんだけど、このクソ暑いのに黒トレーナーを着ているからか・しかめっ面であるのがなんとなく笑えてくる。

 

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千切ろうと指を立てると、ミシっという感触。

皮の鋭い破片が散る。現れた中の気泡はボコっと大きく、柔らかい香りに連想するのは、「フランスパン」の、あの感じだ。

口に入れると「ザクっ、パリっ」と濁音が続く。小麦粉、水、塩、パン酵母という、最小限の配合が力を出した、控えめながらも確かに存在する甘さがいい。窯に直接貼り付けて焼くからだろう、裏側の、特に「バリッ」と威張った力強さは、脳を刺激する快感がある。

なぜだろう、黒ゴマに「ハーッ」と清涼感がある気がする。ゴマってそういうモンだったろうか。モトがシンプルだからこそ、振りかけられている異物に、敏感になるのだろうか。

 

 

やっぱりこれも「作り手によって」であって、中の気泡が大小ボコボコ状態のもあれば、詰まって「モッチリ」しているパンもあるのだが、飾りのない香ばしさと囁くような甘味、そしてザックリザクザク「濁音感」を堪能できるのが、『座布団』の特長。『額』では得られない、別の快感がある。求めるならば、コレがいい――となってゆく。そして、保温布団を被っているにもかかわらず、なぜだろう・どっちのタイプがその下に埋まっているのか、次第に察知できるようになってゆくもんなのだ。

そして特にこっちのタイプに顕著な気がするのだが、「焼き立て」を数時間も経たパンは、どんどんと値を下げてゆくのである。フランスパンがそうであるように、「シンプル配合」はやはり「焼き立て」が命。

あっちこっちから「パン売り」が集う市場。競争が激しい中で、お客の見る目も厳しい。一枚でも多く売るためにはやむを得ない…か。とはいえどっこい、「焼き立て」なのを値切っているおばさんもいた。

買い手としては、その強さが理想である。