主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

求む「焼き立て」 ~ラオス

 

f:id:yomogikun:20140904051111j:plain

 信念を焼き込めたような、見事な焼き色。鎧をまとっているかのような厚い皮を蹴破るほどの「えぐれ」には、活きがいいという表現を通り越した、「雄叫び」とでもいうエネルギーを感じる。

「フランスパン」の中でいうならば、大きさは「バタール」に当てはまるだろうか。四十センチぐらいの長さ、野球バット(の太い部分)のような胴回り、そしてクープ(切込み)も、たいていのものがそのように三本だ。

 いわゆる「フランスパン」は、同じ配合で同じように捏ねられた生地であっても、パン一個分に分割する重量と成形する長さ、そして焼成前のクープの数がきっちりと決まっており、それによって、フィセル、バケット、バタール、ドゥリブル…等々呼び名が変わることが、ナントカ協会によって厳しく仰せ付けられている――らしいんだけれども、ラオスにそんな区分が適用されていることはなかろう、先の「バタール」と呼んでいるのも私のもいい加減な「見た感じ」である。それよりも一回り小さいものは「縦一本スッパリ」に揃えていたりするところもあれば、デカかろうと小さかろうと、クープは縦に一本スッパリ切ったのみ、というところなど、作り手の好みや主義によって姿は分かれるけれども、ざっと概観して、割合「一本」が多いだろうか。が、同種の棒型パン・「フランス的なパン」が同じく広まっている近隣のカンボジアベトナムに比べると、ラオスでは「三本」も結構よく見られると思う。

 ラオスのパン――は、「カオチー」と呼ばれる。ラオスはかつてフランスの植民地であったために、一目でそれを連想できるパンが根付いている。隣国のカンボジアベトナムのパンも、同様の所以だ。

市場や路上で、どの売場もこじんまりとしており、売り手もたいてい一人のみ。小さな簡易テーブルや、リヤカーを引っ張ってきてカオチーを積み重ね、人通りの多い場所に居座り「買おうかしら」と近づく人を待っていたり、あるいは、ミカン収穫用のような籠に、入るだけのカオチーを入れ、町や市場内を移動しながら、目が合った人に「どう?」と声をかけたりしながら営業する。

 見ものは、「クープ」だと思う。

 生地の窯入れ直前、その肌にシャッと刃を入れた部分は、生地に熱が回り膨らんでゆくなかでめくれ上がり、パックリと開いて裂けてゆく。「切り込む」という、ちょっとしたきっかけ作りを人はしただけであって、あとは生地自身が自ら起こす現象であるのだが、外側の「茶褐色」と、裂けた部分の「白」が、えらくクッキリと分かれた色をしているために、まるで全身コンガリ茶色に焼き上がっていたカオチーを、人がその手で強引に引き裂いたかのようである。片手で表面を押さえ、もう片方の手の爪を、その表面に立ててズボッと深く差し込み、そのままエイッと左右に力を入れて開くという図が生々しく思い浮かぶほど、クープのめくれ上がりは躍動感あり、その踊り上げる部分が収まっていたはずの中身・色白部分は、メリメリミシミシと荒れた肌を晒し「剥がされた」過去を物語る。

 爽快な「勢い」だ。深いところから厚い皮を突き破り、大きく反り返っている姿は、窮屈な服に押し込められた贅肉が、くしゃみと同時に解放されてボタンを飛ばしたあのよう。或いは、ストレスを溜め込んだ日々、「これもよろしく」と書類を放られて「自分でやれ!」とつい大きくなってしまった声。

 その、「スッパーン!」と弾けるパワーを生地に注入するのが、作り手の腕の見せ所――かどうかはさぁ知らないけれども、そういうつもりでなくてどういうつもりだろうか、と言うしかない。鋭利に立ち上がった、小指を思わせる妖艶は、またミロのヴィーナスやらの彫刻が表現する、身にまとう布のはためきのように波を打つ曲線もまた思い起こさせる。

 さて、これを割ろうとしたら、きっと「バリバリ」という音が……。

――と思うんだけれども、見た目に反して「古いじゃんコレ」という経験が少なくない。それも、今日昨日じゃないね?というのが分かるぐらいに。

皮は確かにぶ厚いのだが、時間が経っているためにキレはなく、北海道土産の「鮭とば」のようにムギューッと引っぱり千切る必要があり、顎もよく動かして噛まないといけない。

「焼きたてだったらどんなに…、」と思えど、このカオチーには「次」がある。もちろん、カオチー単独でも買うことも出来るのだが、たいていのお客は「具」を挟んでもらい、プリント紙をクルッとまいて輪ゴムでとめられたカオチーを受け取ってゆくのだ。

なんらかの台を備えた店なら、たいてい「具」の入ったタッパーを並べたり、具を細かく刻んだりするまな板も置いている。パテやハム、焼き豚、キュウリに香草、なます…と、結構豊富に揃っており、選り取りみどりに悩むなぁ…というと、フツウはそうじゃない。「一つ頂戴」と言ったなら、カオチーの側面にナイフでゴシゴシ、切り離さないよう慣れた手つきで素早く開き、その「すべて」を挟みこむのだ。

 カオチーは、箱入りバウムクーヘンにも負けず劣らずズッシリとその体重を増やし、単なる「サンドイッチ」という言葉で流すにはどうにもモッタイナイほど、味の方も一筋縄ではいかない深遠なる世界を見せてくれているのである。

 主役は、「具」か。カオチー自体はたとえ古かろうが、たいして問題ではないのではないか――といいたくなる、それは単なる「皿」に成り下がっているように思えるのだ。

いや、それはかえっていいことなのかもしれない。その「具」の重さ、汁気を受け止めるには、柔らかい「焼き立て」では役不足であり、古くなって頑丈さを備えた古いパンの方がむしろ望むところなのではないか。「具」の為に存在するパンならば、「カオチーのみ」買っても、革靴をくわえている感が否めないのは当然なのだ。袋に何本も買っていく人を見て、「求められている」カオチーについて考え込む。

 が、惜しいなぁ。本命は「具」だと開き直るしかないけれど、やっぱり「パン」そのものも味わってみたい。フレッシュならば、単独で食ったって「旨い」だろう、コレ。「具」の存在に頼らずとも、自立してゆけるパンだろう。

「焼き立て」が食べてみたい。

 ――ってそれはもちろん、不可能ではない。

これを持ち歩くだけで精いっぱいよ、と、「それ」が全てであるところ。カオチーをミカン籠に載せ、その背後にしゃがみ込んでいるおばさんを見つけたならば、とりあえず近づいてみよう。「具」に意気込んでいないところは、「フレッシュ(焼き立て)カオチー」に期待が持てる確率が高いのだ。

 パッと目に映る籠のそれはたった二、三本であって頼りないのだが、それは単なる「見本」。たいていの場合、本命はその下の、クッションのような布の奥にある。「欲しいんだけどなぁ、」という感じでおばさんに近づけば、割れ物茶碗を包みから開くように、分厚いそれをめくってくれるだろう。その布は保温用の布団であり、下には鉛筆を立てるように、刺せるだけ刺して詰まっているカオチーがある。

 開かれた中身から、その温もりがふんわりと伝わり、同時に香りも顔面にもやもやっとたちこめた。

ベニヤ板のような匂い。

焼き立てまもないのだろう。やはり、叫び声と共にめくれ上がったような、力強いクープの姿があった。

 

 さっそく割ってみると、皮はバリバリと期待の音を鳴らし、現れるのは少々クリーム色がかった「白」。

脱脂綿の塊を引き裂くような、モッサリ・モチっと、両手をがっしりと組んだ力強さがある。フワフワと軽くはないが、しかし柔らかい。

 小麦粉と塩と水、パン酵母イースト)とが合わさり、焼き上がった。その事実をひねらずストレートに表現した、素直な風味である。埃にまみれて奥の方に隠れている、その甘味を嗅ぎ取りたい。大人しいけど確かに存在するものを、ほじくるように堪能したい。――が、味わおうと口に放れば、その噛み応えの心地よさに酔い、集中できないのだ。果たして快感なのは、その弾力か、それとも木のような芳香か。臆病な甘味なのだろうか。分かるようでわからないもどかしさがまた、魅力的ではある。

 つばの広い藁帽子を被った、籠を前にしたおばさんは、そんな感動など全く知ったこっちゃないというように、隣の野菜売りのおばさんと体育座りで会議中だ。「隣の奥さんったら、昨日すごい剣幕でご主人を怒鳴っていたのよぅ。」とかいう、冷やかしの笑いが入っており、こんなスゴイものが、井戸端に添えられるありふれた存在であることに、くらくらするほどの羨ましさを感じる。

 

 

道端の連係プレー ~ヤンゴン

f:id:yomogikun:20140729070447j:plain

んんんんん、と、揺さぶられる。

焼き立て――となると、特に腹が減ってもなくとも、惑わされる。

「お焼き」か。ジュワァァァ、パチパチパチ…と、油の音が耳を引っ張った。駅の改札口前でやっている「大判焼き」よりは一回りぐらい大きいのが、水溜りのような油に浸かり、飛沫を上げている。

早朝、オジサン一人と青年二人が、道の脇でパフォーマンスを繰り広げていた。

それはビルマでもポピュラーな、「インド的スナック」の一つとして紹介されるように、作り手である彼らの肌も、かの地を想起させるいい色だ。顔の彫りも深い。鉄棒で空中大回転しても、工事現場で柱一本担いでいてもおかしくない、タンクトップから出ている肩・腕のたくましいこと。カッコイイじゃないか。

鉄板係、兼、接客係を引き受けているお兄さんが、二本のヘラを駆使して「おやき」をひっくり返しながら、「いる?」という顔を向ける。ウンと即答したいのはヤマヤマだが、「どうしようかな」と、悩んでいる表情をしておいた。いまスグ包んでもらっても困る。「見たい」。そのあとで、アツアツを食べたいのだ。

 

四、五人用ホットプレートぐらいの、丸い鉄板――だが、底は真っ平ではなく、横から見たら器のようにもなっているのだが、鍋といえるほどに深くもない。それは中心に向かって、車いす用スロープのように緩やかに凹んでおり、鍋のフタをひっくり返したように、浅い。って、フタなんじゃないかソレ、と思うんだけれども、フタにしては鉄である必要がないから、やっぱりちゃんとそういう方向で使う、そういうもんなんだろう。

(鉄板の)製造過程で、何か間違えたのだろうか思わずにはいられないのだが、見ていれば、その曖昧さもわからないことはない。

深くなっている鉄板の中心部分に油がもやもやっと溜まる中へ、傍らのおじさんからから「ホイ」と、ミニホットケーキ大の成形された生地が投入される。生地は一センチ程度の厚さが四割五割浸かる程度の、「揚げ焼き」となる。

暫くしたらひっくり返して、もう出来上がりという時になったら、それを鉄板の「ふち側」に・つまり傾斜の高くなっている、油の溜まっていない部分へとヘラで寄せ、その斜面を利用して余分な油を下がらせるのだ。

揚げて、かつ油切りもできるし。もちろん炒めることもできる。

便利ではないか、ソレ。

ちなみに火元は、薪である。ドラム缶のような中でメラメラと炊き、その上を塞ぐように、スポッと鉄板を置いているのだ。

 

 アルミかステンレスか、タタミ一畳分ほどの台・テカッテカに滑りがよさそうなその表面には、既に丸められている、た大人の握りこぶし大の生地が幾つも並んでいる。成形係の二人はテーブルを挟んで互い違いに立っており、作業をキッチリと分担していた。

鍋から遠い位置に立つ、若者が先発である。

ボール状の生地を、まずは大きく広げてゆく。一つ取って、手の平で台に押し潰したらその端を持ち、ペチン、ペチンと台に叩きつける。持つ位置を変えながら、やがて宙にあおりもしながら、衝撃とぶんまわされる遠心力を利用して、それを薄く薄く広く大きく伸ばしてゆくのだ。その動きは、シャボン玉が空中で揺らめくようなスローモーションにも映るのだが、シロウトでは、裏を剥がしたばかりの「湿布」に時折起こるように、生地と生地がピトッとくっついてダンゴになったり、しわが寄ったままになったり…と、舌打ちを免れないだろう。

勢いに乗った生地は、しまいには「膜」のように向こうが透け、寿司の宅配皿六人前ほどの大きさにもなった。クッキーの生地を伸ばす時のように、めん棒をゴロゴロと転がすだけではこうは出来ないだろう。「技」があってこそ、である。

だが、勿体ないことに、それを「湿布」にしてしまう。

傍らにある、仏具の「チーン」のような容器の中にチョッと指を突っ込んだら、手をそのまま台に貼りついた生地の上に翳してツぅ…っと「液体」を滴らせ、ピッとキレよく振る。大匙一杯分ぐらいだろうか。それを、掌で生地の表面全体に塗り広げた。

台のテカりは、このせいだ。「油」である。

生地表面に爪をたて、一部をサッと撫でると、「成敗」とばかりに切れ目が入った。その部分をとっかかりに、扉をパタンと閉じるよう生地を折り畳むと、まっすぐではないけれども帯状となる。それを端からくるくると、というかクシャクシャに巻き、小さくまとめてしまった。

せっかく、あんなに広げたのに…。

とはいえ、前の「ボール状態」とは全く違う。油が、薄い膜となった生地の表面に塗られて、それが複雑に折り畳まれている――つまりこれは「パイ」である。生地と油との「層」が、出来上がっているということだ。

 油まみれで肌の潤い抜群のそれを、向かいに立つ相方――鉄鍋近くに立つ、キャップ帽のおじさんが、手に取る。

両指の腹で押すように、広げる。複雑に畳みこまれた生地はそれほど伸びず、ただ扁平に潰している、という感じだろうか。船の上で、網をよいこらせっと持ち上げるような、漁師姿が似合ういいガタイのおじさんだが、生地を触る指は、正座をついて「ようこそお越しくださいました」の女将のように揃い、なんか優雅だ。

 そうして平らになったら、そのまま油に――鉄板中央あたりに入れ、そこからはヘラを持ったお兄ちゃんの出番となる。 

 

過不足のない、完璧な連係プレー。

何個もペチペチを見ているうちに、「成敗」の切込みは(中心から)ズレた方がいい「帯」になるのだな、とか分かってくるし、テカる油に「大匙一杯何キロカロリー」などとイチイチ思うことなく、単なる水と大差ないもののように見えてくる。だってどうせ、たっぷりの油で、揚げ焼きするのだ。

 気が済んだ。

じゃあ、ひとつ買おう。

 ザラメが振ってある。が、砂糖のとは別に、油をしっかり使って焼き上げたことの甘さがある。層がしっかりと出来て、パラパラとしてはいるのだが、膜一つがビヨンとしなる。

インドにおいては、これはカレーに添えられる。が、ご飯が主食のビルマだ。砂糖を振りかけて食べるという点、やはりこれは「スナック」の位置にある、ということか。

かの地を思わせる人たち。とはいえ、彼らはビルマで生き、暮らしているのだ。

タシュケント・タイプ2 ~座布団の快感

「円盤・平型」・もう一種類。

サイズは同じだが、豪華な『額縁』に比べれば、えらくシンプルに映る。

やはり、中心部分に比べて円のふちに厚みがあるのだが、「額」を浮かべるほどではない。いかにも「見て」と言いたげな、ゴテゴテとした顕著な彫刻模様などはなく、なだらかで自然な膨らみだ。フックラとした座布団のど真ん中に、握りこぶしを押し当てたような感じだろうか。こぶしではなくて、やはり表面、『額』同様に押されているのは「剣山スタンプ」であり、点々模様が花を描いている。

 目が行くのは、正直コレではなくて、豪華な『額縁』パンの方だ。食べてみたい、と心が湧くのはあちらであり、あのフチに触れ、彫刻部分を割ってみたい…と駆られずにはいられない。

なのに「地味」なこちらに手を出したそのきっかけとは、単に「あっちは(値段が)高い」という理由からである。そして高いだけあって、ごっつくもある。遠目に見るだけでは、一人で食べて(食事)二回分かなぁ、とみなしていたが、手に持ってみれば、確かに『額』がブっといだけあって結構なおもりとなっており、量としては想像の倍近くはあるだろう。

 ちょっとなぁ…。パンはできるだけ、「焼き立て」をその都度買いたい。

対して『座布団』の方はというと、額が貧弱な分「軽い」し、訊けば三、四割も安い。

 

古雑誌を積んだように、一輪車いっぱいにガラゴロと市場に運ばれてくるパンは、たいてい焼き立てだ。

パンの上から被せられている厚い布は、保温効果抜群らしい。めくった瞬間、押し込められていたパン一枚一枚の熱気は呻きをあげ、頬を、鼻を襲うように突いてくる。「手ェ洗った?」などという発想は既になく、隣に立つ、スカーフを頭に巻いたおばさんを倣い、素手でまさぐるのみだ。

『額ぶちパン』が、高級家具の木目を浮かべる深い茶色であるのに比べ、こちらはやや黄色かっているというか、「ちょっと薄いんじゃないの?」という、薄幸的な色白さ。だが、黒ゴマが振りかけられている表面の、ツルッとして、もち肌を思わせる光沢は、負けてはいない。

腰をかがめて物色していると、売り手のお兄さんは「ホラ、ホラ、ホラ、こっちも。どう?」と、円盤数枚を、まるでトランプを「くる」ように、とっかえひっかえ見せてくれる。

真面目で懸命な営業姿なんだけど、このクソ暑いのに黒トレーナーを着ているからか・しかめっ面であるのがなんとなく笑えてくる。

 

f:id:yomogikun:20140728180951j:plain

千切ろうと指を立てると、ミシっという感触。

皮の鋭い破片が散る。現れた中の気泡はボコっと大きく、柔らかい香りに連想するのは、「フランスパン」の、あの感じだ。

口に入れると「ザクっ、パリっ」と濁音が続く。小麦粉、水、塩、パン酵母という、最小限の配合が力を出した、控えめながらも確かに存在する甘さがいい。窯に直接貼り付けて焼くからだろう、裏側の、特に「バリッ」と威張った力強さは、脳を刺激する快感がある。

なぜだろう、黒ゴマに「ハーッ」と清涼感がある気がする。ゴマってそういうモンだったろうか。モトがシンプルだからこそ、振りかけられている異物に、敏感になるのだろうか。

 

 

やっぱりこれも「作り手によって」であって、中の気泡が大小ボコボコ状態のもあれば、詰まって「モッチリ」しているパンもあるのだが、飾りのない香ばしさと囁くような甘味、そしてザックリザクザク「濁音感」を堪能できるのが、『座布団』の特長。『額』では得られない、別の快感がある。求めるならば、コレがいい――となってゆく。そして、保温布団を被っているにもかかわらず、なぜだろう・どっちのタイプがその下に埋まっているのか、次第に察知できるようになってゆくもんなのだ。

そして特にこっちのタイプに顕著な気がするのだが、「焼き立て」を数時間も経たパンは、どんどんと値を下げてゆくのである。フランスパンがそうであるように、「シンプル配合」はやはり「焼き立て」が命。

あっちこっちから「パン売り」が集う市場。競争が激しい中で、お客の見る目も厳しい。一枚でも多く売るためにはやむを得ない…か。とはいえどっこい、「焼き立て」なのを値切っているおばさんもいた。

買い手としては、その強さが理想である。

 

タシュケント・タイプ1~華麗なる額縁

f:id:yomogikun:20140629072044j:plain

早朝から、焼き立てが並ぶ。あっちにも、そっちにも、ここにも。

様々な作り手のパンが、市場には寄り集まってくる。この地のパンの特徴とは、平べったい、直径三十センチほどの「円盤型」であることだが、ざっとみてタイプは二つ。

まずは、「額ぶちパン」

えらく「ふち」の部分が分厚く盛り上がったパンである。中に汁物でも注げるんじゃないかというほどに、器のような頑丈さがある。…と、そういえばパンとは古くから各人の皿としての役割を担っており、現在においてもパン食圏(パンをよく食べる地域)を歩いていれば、皿のようにそしてスプーンのように、それは食物であると同時に、オカズと自身とを繋ぐ媒体となっている光景などよく見かけることだ。

だがこれは、取り皿というより「盛り皿」としてもお役目果たせそうな、ガッシリ感があるのだ。「額」のイメージが浮かんでくるのは、手すりのような立体的部のヒダ模様が、彫刻刀で掘りこまれたかのような見事な装飾の故でもある。壁にだって掛けられるかけられるんじゃないか、コレ。

表面のうつわ部分(凹んだ中心部分)の、ホクロのようにパラパラと黒ゴマが散らされているその肌には、箸の先っぽで突っついたような、無数の「穴」が模様のように点々とあるのが分かる。

焼成直前、円盤型に伸ばした生地の表面に、先生が押してくれる「よく出来ました」スタンプのような道具を、ポンポンと押し付けたことによるのだが、そのスタンプ面には針が幾つも「剣山」のようについている。これで突き刺すことで、生地内にある気泡を外に発散させ、過度に膨らまないよう焼き上げるのだが、そのついでにというか、針は意図的に美しい点々模様がつくよう配置されており、まさに「よく出来ました」のように、「二重丸」だったり、「花形」だったり。作り手によって独特なのを持っていたりするから、それを見比べてみるのも楽しい。

表面も裏も、カッチリと焼き込まれているのを、「額」のヒダ部分をとっかかりに割ってみる。

と、それほどクズを散らすこともなく、ホックリ・ふんわり、名残惜しげながらも素直に千切り取れる。

甘い香りだ。匂いそのままに、食べたらやはり、柔らかい甘味を感じた。表面の明るい褐色と、割った断面に覘くほんのりしたクリーム色から想像するに、小麦粉、塩、水、酵母というパンの基本的材料に、油脂や卵、砂糖等の副材料が加えられているのだろう。――が、あくまで微かなものである。

あるおばあさんは、「ウチのは、他とは違うのよん」とばかりに何やらを説明しながら、その端を千切って渡してくる。…エ。買わないよ?ソレ(もう他で買っちゃったし)、と思いつつも口にすると、やはり甘い。連想したのは「ヨーグルト」だった。

もちろん作り手が違う以上、「このタイプ」と一括りにできない個性が、毛細血管のように存在するのだ。

 

薪パン ~カイセリ

f:id:yomogikun:20140601165755j:plain

トルコの中部・カイセリ――冬。

早朝、バスで到着すると、既に雪が、道路を、狭い路地を、塀を、建物を、街路樹を――町を占拠していた。

ボコボコとした白い大地を乗り越え、踏みしめながら前へと進むも、舞い落ちてくる雪と霧で数メートル先が見えない。町中心部だというのに遭難状態に陥りながら彷徨っていると、温かな明かりが目に入り、そこにすがりつくよう戸を開けた。早朝から開いているといえば、やはり「フルン」――パン屋である。

容赦ない冷気に晒されていた頬に、湿り気のある温かい手が押し当てられたようだ。自然にはない、温かさ。その優しさに、ネジが一気に抜かれ、フニャッと泣けてきてしまう。

それから滞在中、毎日そこを訪ね、パンで暖を取っていた。

 

窯の中では、赤々と薪の火が燃えている。

それに横付けするように置かれた成形台の上には、ラグビーボール大のパン生地がいくつも待機していた。エプロンをつけた髭おじさんが一つを取り、両手の指で、上からトントンと押し付けるようにして伸ばしてゆく。やがて、五、六才の子供の身長ほどにも広がったそれを、両手で抱きかかえるように巨大な木ベラの上に寝かせたら、その柄を持ち、窯の中へとスッと差し入れて、うまく生地を置き去りにする。

 一人で一枚食い切るのに、何食分となるのだろう――

…なんて、もの欲しそうな顔が分かり易かったのか、「食べてみてよ」と、その焼き立てを割ってくれた。

ガッチリとした皮。ほわわわ…とその白い断面から漂う、湯気と湿り気。柔らかい。が、引きもちゃんとあるようだ。

口に入れると、その香ばしさに浮かんだのは「きな粉」である。

アッツアツが、凍えきった体の芯に火を灯す。頬が緩み、ほてり、オレンジ色に染め上がってゆくのがわかる。

 

f:id:yomogikun:20140601165812j:plain

まるで、「薪」。ソレを握ってスポーツチャンバラでもできそうな、長細い形とは珍しい。

これは配達用のパンだという。ついて行ってみると、そこはカイセリ名物・サラミの専門店「パストゥルマ」だった。

店頭に大小各種吊り下げられ、並べられている「サラミの塊」だけではなく、それを薄くスライスしたものを、この薪パンの側面に切込みを入れて数枚挟みこみ、軽食として売るのだという。パン一本分でなくとも、お客の注文に応じて、「薪」は短く切ってもらえる。

名物には興味があれども、どっしりズッシリとしたサラミの塊一本買うのは、一人モンにとって決断がいるが、それならば手を出しやすい。買いやすい。

とはいえ、フルンのよしみによるタップリの味見で既に満たされ、買う気はもはや落ち着いてしまったけれど。

ベトナム中部・フエ

市場で朝食。

フエには、米粉やデンプン製生地に、エビを具としてあしらった「エビ点心」が各種ある。

改まった食堂でも食べられるが、市場でも発見できる、庶民にとっての日常の味だ。ちまきのように、一つ一つをバナナの葉で包まれているのを籠に盛り、「いらんかね~」と売り歩いているのをつかまえたり、皿や箸と一緒にいつもの定位置に構え、風呂用だか足置き台だかの低い椅子を用意して客待ちしているおばさんの処で腰を下ろすのが、値段としてもお手軽である。

売り手の周囲をぐるっと取り囲み、くっちゃくっちゃと「音」を食んでいる輪の中に座る。「頂戴」と言うと、食べる分だけ、包みの葉っぱをハラハラとはだき、ボトッと皿の上に落としてくれる。

形状の異なる三種をそれぞれ。

f:id:yomogikun:20140531121358j:plain

  左(バイン・ボロック)…透明な、葛饅頭のような弾力の皮の中には、エビと、豚   の脂身。エビは「干しエビ」の感じ。皮の弾力の強さは、タピオカのようだ。

 上(バインナム)…薄い米皮に、エビソボロ。

 下…柔らかぁい米皮の上にある黄色い部分は、エビというよりイモのような卵のような感触。

三者三様。特に、「バイン・ボロック」の、モチとコンニャクを合わせたようなブリンブリンの弾力に、周囲の客の頬の動きを納得する。

が、葉っぱで包み、蒸して出来上がる角のなさが、胃に優しそうなイメージをもたらす(イメージだけ)。小さいから幾つもを、ペロッと食べてしまうのだが、やはり米・デンプン製品であるからして、結構腹にくるのだ。

どれもヌクチャムと呼ばれる、ベトナム魚醬・ヌクマムを使った甘酸っぱ辛いタレを付けて食べる。

お客は、スッと座り、座ったら立ち…と、ソフトクリームを舐めに来たかのように、あっさり回転がいい。

お手軽――庶民の味だからこそ、妥協がない。