主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

「フランジャラ」に駆ける青春 ~トルコ・ドウバヤズット① 

 

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ザーッ、ザーッ、ザッ、ザッ…。

「窯」の中から次々と現れるパン。引き出されるその勢いで青色の台の上を滑りゆき、ぶつかり合ってはその動きを止める。

イイ音だ…。

連想するのは、雪の道。少々凍って押し固まって上を歩く時の、あの濁音。――ずっとまみれていたくなる、快感の音だ。頭の詰まりをアイスピックで突き崩すような、どこか芯の部分を刺激する。

パンは棒型。縦に一本のクープ(切り込み)がシャッと入り、そこから裂け、潔く皮のめくれ上がった外見に、ひと目で「フランスパン」と呟くだろう。とはいえ「フランスパン」は厳密にいうと、重量と長さ、クープの数によって、「バケット」「バタール」「ドゥリブル」等々と呼び名が定められている(どれも生地は同じ)。対してトルコで見るその殆どが、クープは一本きりであり、これは分類のうち「クッペ」(「切り込んだ」の意)と呼ばれるものに相当するのかもしれないが、「フランスパン」として紹介されるそれはもっとラグビーボール的にずんぐりむっくりであり、対してこちらは少々スマートだ。両端こそ木の葉のようにすぼんではいるけれども、太さはバット(野球の)の先ぐらいで、長さは三十センチ程度。とはいえその鋭く立派に避けた姿には「フランスパン」を結び付けずにはいられず、実際彼らもそのつもりじゃなくしてなんだというのか・「フランジャラ」と呼んでいる。

 

トルコ東部の最果て・イランとの国境の町「ドウバヤズット」に入ったのは、二月のはじめ・雪景色の只中だった。

通りに面した店の入口側は全面ガラス張りで、屋外からそのクープが見えるように、パンがずらずらと立て掛けられている。「看板」を見るまでもない。フルン(=パン屋)だ。

きっと焼き立てだ。湯気で曇ったガラスに期待を込め、「ごめんください」と中へと踏み入れば、ツンツンと頬に刺さっていた冷気が一気に溶け落ちる。と、同時に目に入るのは「ローマの休日」の真実の口ならぬ、パン焼き窯の扉。

フルンの一般的なたたずまいである。窯扉の前には職人が巨大なヘラ・つまりパン生地を窯の中へ出し入れする道具だが、それを操る姿があり、客は窯からパンが放り出される、まさにその場面に立ち会うことになる。だから焼き上がってから一分も経っていない、スグもスグを手に取ること可能だ。

窓際の「看板パン」も、もちろん商品。だがどうしたって、今生まれたホヤホヤを前にすればそれは色褪せ、「看板」の域を出ないモノに映ってしまう。「コレください」と指を差すのは、まさにいま摩擦ザクザクと響かせている、活きのいい方だろう。

青い店、だ。

窯の開閉扉やその周りは、鉄の焦げた重ったるい色だが、壁は入口のガラス面を除き、藍に近い青色のタイル張り。ちょっとだけ、白がモヤモヤと大理石模様のように入り込んでいるのが、昔くさい風呂場とは違う。そしてパンが窯から出て放られる、畳三枚分はある大きな台の上も、パンを収納する商品棚も、レジ台も、…これはペンキで塗ったね?という、壁に比べればちょっと安っぽいけれどもやっぱり、「青」。写真に一枚撮って眺めたならば、首筋がスースーしてくるというか、素足にピタピタと冷たさが伝わるような寒色が、室内のホカホカと相いれないようではあるが、その異種感はなんとなくSFっぽくて悪くはない。これで店のオーナーに「好きな色は?」と訊いて答えが「ベージュ」だったならば、ズっこける。

 

列車の窓式に、上に開かれた扉のその奥から、巨大なヘラに載って導き出されたパン、ひとつ。…じゃなくて、その後ろからまた次が「ハーイ」と滑り現れ、既に外界にある先輩を、ビリヤードの玉のようにザクッと小突く。間髪入れずにその次が「邪魔なのよ」とザクッ、「通れないじゃないのよ」と立て続けにザクザクやってきて、深呼吸さえ許さない。そして今度は、さすがヘラがでかいだけある・ダメ押しとばかりに四つ五つがまとめて一気に引っ張り出され、ザクザクザックザク。窯の前の台上はパチンコのアタリ玉のようなサマとなり、パンは押し合いへし合い、「ちょっと場所開けてよ!」と、バーゲンセールの群衆さながらに喚き散らす。

窯に対峙するおじさんはその内部にすっかり集中していて、台上の揉め事なぞ知ったことではなさそうだが、それを「ハイハイハイハイハイ…」となだめすかすよう、両手でキャッチしてゆくのが高校球児君だ。…ってモチロンここはトルコであるんだけれども(トルコで野球ってするの?)、「少年」というにははにかむ程度に成長し、「青年」というにはまだ華奢で青葉のような清涼感。そして校庭を駆けるひたむきな姿がばっちりとハマるならば、独断ながらそれは高校球児である。これまた青いTシャツは粉とパン屑にまみれ、まるでホームに飛び込んだ後の汚れ具合。クルッと天然パーマな髪も、その初々しさにピッタリだ。

彼は焼き上がったパンを二つ、両方の底を合わせて抱えると、酒屋の瓶入れのようなプラスチック籠の中へザクッと差し込む。横に寝かせるのではなく立てて入れるのは、冷蔵庫でも「生えていた」姿勢にしておくのが長持ちする秘訣、などという野菜の収納方法に倣っているわけではもちろんなく、不公平にも最初に入れたヤツが圧力で潰れてしまわないように。

「素手」である。

掴むのはまるで転がっているボールであり、「アツっ!」の一言などない。腕、顔と同じくいい色に焼けた肌の、がっしり大きな手ではあるけれども、だからって「熱に強い」かは別問題だろう。あまりに当たり前のように触るから、ウッカリこちらも手を出せそうな気がしてくるのだが、もう、アッツイノナンノ!と妙な小躍りをしてしまった。

――いい動きだ。

千本ノックに立ち向かう青春。そして目もまた、マウンドに立つピッチャー或いはバッターのそれ。パンを合わせ持つその度に、入れて、入れて、また入れて…と、それを籠と接触させる度に、鳴らせるパンの「ザっザっ」は、まさにプロであることの証明か。「アチーよ!」とおそらくは言いたいのだろうが、それがひっくるまって眼力へと回り、そこは集約されたエネルギーは体の細部へと発信されるモーターとなっている。きっと。

「ザッザッ」はしかし枕のソバ殻代わりにしたくもなる快音なんだけれども、鳴れば鳴るほどに、パンのその外皮を擦り、傷付けている、ということでもある。そもそも窯から放り出された時点で青台との摩擦に晒されており、近親憎悪のようにお互い小突き傷つけあっているのだ。…ヒビ割れちゃう、ハゲちゃう、砕けちゃう――この世に誕生したばかりだというのに、その体の一部だった屑が振り撒いたかのように散っている。「ザクザク」は鳴らさない方が、ホントはパンにはいい。自分が客だとしたら、クープが鋭利に空間を突きあげるやつであり、もちろん欠けてないヤツが望ましい。

が、「んな細かいこと言ってられるかい」というこの状況だ。籠が詰まったなら、また次を、部屋のスミからとってきて足元に置く。アツイと言ってみても、顔をスプーンの裏に映すように歪めてみても、どうやってもパンは窯から流れ出し続けるのであり、過保護にソロソロと触ってもいられないのだ。「愚痴っているヒマはない」ことは、きっとここで働き始めた初日・数時間もせずに悟ったこと。コレをどうにかできるのは自分しかない――顔にひとつ皺を刻むのも余計な労力というもんである。…なんて言っている私は、ただ見ているだけのくせしてシワ寄せまくってしまうんだけれども、いやはやこの高校球児君の懸命な動き、その真っ直ぐな目には、こちらのココロもにわかクリスタルに澄み渡ってくる。密かに思いを寄せるマネージャーが傍らにいて、一枚のタオルだけに氷を一粒挟み込み、「ハイ」と差し出す場面があれば、尚良し。

日々励んでいれば、「クソ熱い」この現実にもたじろがない、皮膚四、五枚纏ったような据わりが手に生まれる――かどうか知らないけれども、そんなこんなでみなさん、「パン職人」として一人前になってゆくのだろう。

あれよあれよとマウンドは整備され、おかげで後の衆はラクに登場できるようになった。プールのすべり台から万歳しながら滑り落ちる子供たちのように、のびのびとしている。

 

台の上が広々してくると、ヘラもまた動かし易いでしょ。…とも思うんだけど気にしているのか、どうか。

ポロシャツ姿の窯おじさんは、ひなびた町のタバコ屋のオヤジ風だが、鼻は高く、眉は太くて頬骨はゴツっと張り、目は鋭くギンギラと光らせる、若き日はおそらくモテたろう、という彫りの深い顔立ち。…イメージされるのは、なんとなく「ねずみ男」(鬼太郎の)。なんでよ、というと、ときおり「撮ってる?」と向ける思いきりの笑顔・その口のニカッとした大三角形(=口がデカい)が、頭巾を被って尖がった頭の三角顔になぜか結びついてしまうのだ。

全長三メートル、いや四メートルはあるヘラがすっぽり入ってまだ余りあるという、かなり広い窯であると分かるのに対し、壁に開いたその「窓」・即ち内部への入れ口とは、横幅が24型テレビ程度だ。あまりにこじんまりしているのが、「どこでもドア」や「タイムマシンへの引き出し」のように、魔法がかって感じられる。そこを境に、世界が変わるのだ。その入口から向こうは、人が立ち入ることのできない、パンのみが居座る世界。

ねずみおじさんは世界の境界に立つ、「番人」。その采配道具である巨大な木製ヘラは、まるで「気合いれい!」と号令をかける、空手部顧問が握る竹刀にも映る。

窯扉と青台の間に、ヘラを橋のように渡らせ、その上に生地を載せて、あちらとこちらの世界を行き来させる。窯内部へと押しこみ、焼き上がれば載せて引っ張り出し、というのをひたすら、ひたすらに繰り返すのだ。ヘラが台の上を滑るわ弾むわで、ドタンバタンと建築現場的な音が鳴り響く。

中を少々覗かせてもらった。挿入したパンがみんな整然と配置され、大人しく寝ころんでいる。ハタからは、ただヘラを突っ込んで出して、という動作しか見えず、置く場所に気を遣っているサマなど分からないのだが、テキトーなどではなく、ちゃんと秩序立ててパンを置いているのである。

ちょっと覗いただけでも、熱気で頬が一気に火照った。が、いつが「始まり」だったのかそして「終わり」はいつのことか、中腰になってパンの出方を窺うという、ずうぅっとここに立ちっぱなしのおじさんは常にジクジクと燻されて、きっと乾燥肌もいいところ。お肌模様はブツブツと生えた髭に隠れてよくわからないけど、乳液は塗った方がいいんじゃないかと思う。まぁ、汗で流れ落ちてしまうか。

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果てしなき、終わりなき――の、パン。

ねずみおじさんにも、それを片付ける高校球児君にも、外の凍てつく寒さといえども取り付くシマはないのだろう。大量の生地を一分も空けることなく窯に入れ続けたその因果応報・当然ながら同じ数を引き出すことになる。一気に入れたら、焼き上がりも一気。ぐずぐずしていては焦げてしまう。要求される持久力は、きっとスポーツ選手にも引けを取らない。高校球児君は懸命に駆け寄るのだが、一気に出てくるとなれば追いつかず、青台の上は「タマじゃらじゃら」の大当たり状態がしばらくは続く。ひと息つこうというヒマは、飴の包み紙を開くのがやっとだ。

このような時こそきっと、人間性が出るのだ。…もし私がこういう作業のさなかに話しかけられたならば、「あ?」とガン返しかねないだろう…。

高校球児君は「チャイ(紅茶)飲むよね」と出前を取り(出前可能なチャイ専門店がトルコの町なかにはあっちこっち存在する)、「立っていると疲れるでしょ」と椅子を奥からえっちら運んでくる。…疲れるのは君だってば、というこちらの心配をよそに、ホイサッサとパンを詰めるその合間、爽やかでまっすぐな目と笑顔で「ジュースは?のど乾いていない?」とことあるごとに気を遣う。…なんて、イイ子…。子猫を前にするように、いい歳こいてヘラヘラ口元が緩んでくる。

ねずみおじさんはねずみおじさんで、ドタンバタンのその合間にやたらとポーズを取り、こちらが望む以上にカメラサービスを弾んでくれる。非常にありがたいんだけれども、余計な気ィ回してあとでブッ倒れんだろうかと、こっちがハラハラしてくる。集中していただいて、結構ですので…。

そんなこんなでヤマは越え、窯出しもそろそろ終盤、という時。

――ほぅ、高校球児君がねずみおじさんとタッチ交替した。そうか、練習もしないとね。焦る必要のない頃になって、やっと見習いの彼が手を出せるのだ。

それは、いつからか抱いていた「憧れ」だったのだろうか。

ねずみおじさんはトイレ(多分)へと奥に去り、替わって窯口前に来てヘラを掴む。が、その握り方には、なんとなく力ない。手が華奢とかいうわけではなく、初めて箸を握る外国人のように、力を入れる部分の按配が頼りなげなのだ。

とはいえ、ヘラを突っ込んでパンを取り出す、その伏せた目の横顔は美しく、凛々しい。まさしく青春の顔である。

カメラを構えると、緊張しつつも笑おうとこちらを見る、というのが、かぁわいいぃ――ってまるでジャニーズファン。

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ちなみにこの間のパン拾いは、オーナーの息子・中学生ぐらいのチビ君が担当する。鬼監督、というほどでもなかったけれども、大黒柱がいなくなると、ひとネジ緩んだリラックスムードも漂いはじめた。まるで仲良し兄弟のお手伝い…ってイヤイヤ、兄ちゃんは真剣だ。

いまはまだ濁音はない。だがねずみおじさんもきっと辿ってきたように、これがいつの日か背骨の入った音へと変わる。ヘラを躊躇なく握りしめ、日に千本でも二千本でも打ち上げるエースへと成長することだろう。その時に向かい、進めよ、青春。 

                              (最終訪問時2008)

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