主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

カズベキ村の道案内 ~グルジア(ジョージア)

 

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「犬コワイ」私

 

うーん…。ことごとく、埋めるなぁ…。
 道を囲む斜面、苔のように短く生える草の合間を、左右の前足でかいてモロモロと崩してゆく。と、「穴」とまではいかない、少々の窪みが出来たその黒い土の中に、顔を突っ込み、くわえたままだったケーキのかけらを差し入れる。…そして丁寧にも、ちゃんと土をかける。
「食わんの?」
と言うと、ハッハッと息を切らせながら、「うーん。今はいいかも」という目をして、フイと前を行く。
 何度やっても、こうなる。
 食い物を土に埋めておいて、腹が減ったらそれを掘り返して食うという習性――は、リスだったか鳥だったか、テレビの動物特集で見た覚えがあるが、犬もそういうモンなのだろうか。
だが、「パフォーマンス」ではないか?という気もした。
 食う気はないけど「要らん」とは言えない。これは……「おすそわけ」と、会社のお姉さまたちが毎日毎日お人形のような笑顔で配って回る、まんじゅうやクッキー、煎餅やらを、「ワァ嬉しい。でも今はお腹いっぱいなので、持ち帰って大事にいただきますね」と一応笑顔で受け取っておいて、帰宅後「母のおやつボックス」に追加されるのと――同じ気がする。
 受け取る「フリ」だけ。……やっぱりワンコも「要らん」のか。
 パサパサのケーキ。朝食に出た、残り物だ。
 本人がヤなら仕方がない……んだけれども、「食えるもの」はこれしか持っていない。犬って、人間が食べるモンを何でも食べるモンなのかどうかもよく知らないのだが、それでも「感謝」を伝えたい気持ちが勝り、「ハイ、これ食べて」「ハイ、どうぞ」とトライしてしまう。相手は差し出された瞬間、「エッ」と戸惑うように少々と後ずさりして顔を背ける動作をするが、結局口にくわえてくれる。だが即モグモグとすることは一度として無く、全て、道の脇に持って行って、土を掘ってそれらを埋めてしまう。
 確かに、どこそこ構わず掘っている、というよりは、なんとなく土の傾斜とか、草の陰になる具合だとかが隠し場としてはイイ場所、という感じはするけれども、片道二時間の道中で、似たような景色はどこもかしこであり、…覚えてんのかホントに。
 ―――人間と違って、ボクは賢いからね。鼻が効くからね。
 というモンかもしれないが、この行為は、山登りで拾って「杖」として使っていた枝を、「後の人、どうぞ使ってください」と山から去る時に適当なところに立てかけておくような、処理の丸投げ、もとい「親切」にも映る。「リス君でも小鳥君でも、気付いたら食べてね」と。
 ケーキは、この子にとってメイワク…?
 そうだとしても「要らん」とプイすることなく一応受け取る、というのがなんだかいじらしいというか、いとおかし。…カワイイ。
 なんとかこの子を喜ばせたい、というのがますます盛り上がってきて抑えきれず、また「食べて」と肩掛けバックからひとかけを差し出す。その循環に陥っている。――馬鹿な人間の相手も大変、ってか。キミにとっては。
 だって生まれて初めてだったのだ。こんな気持ち
 犬というものに、まともに「親しみ」というか、同志としての信頼を覚える、ということは。

「ボーダーコリー」というらしい。
 全体的には長めの黒い毛におおわれているが、三角形にぴょこんと立つ両耳、そして両目を含む顔両側を除いた、脳天から縦に鼻、口、そして喉元にかけての毛は白く、また胸と前足、後ろ足の先っぽも白い。
 あぁ、白と黒のボーダー模様ってことで?……というとそうではなくて、原産がイングランドスコットランドの「国境」地域である、という意味での「ボーダー」とのこと。八~十一世紀にスカンジナビア半島から英国に持ち込まれた、もとはトナカイ用の牧畜犬で、のち英国の在来種と交配を重ねて今の姿になった。牧羊犬として大活躍する、とっても賢い犬種である。
 ――なんてことを知ったのは「今、ネットを覗けば」であり、当時の私としては、初めてこの子を見た瞬間とは「ゲ、犬」。犬種も何も知ったこっちゃなく、犬はすべて「犬」であり、ただただ瞬時に目が凍り付き、心は茶色と黒のマーブルに染まった。
 そう、怖いのだ。
 吠えるでしょ、噛むつもりでしょう、と想像されてきて、見ただけでもうイタイ。私にとって、犬への恐れレベルは熊とそう大して変わらない。…ってまぁ、熊の方が命にかかわる確率がとびきり高いんだろうけれども、怖いもんはコワイ。よく、他人が散歩に連れて歩いている犬を見て、即顔をほころばせて「かわいいねぇ」と躊躇なく手を出す人がいるもんだが、自分のどこを探したらそんな神経が出てくるのか見当もつかず、全く理解不能。(スイマセン)

 ペットというものがウチにはいなかった。…ことはなく、そういや遥か遠い昔に兄がインコを貰ってきたが、兄が一人でなんかやっていた、とあまり記憶になく、あとは熱帯魚がいた(やっぱり兄が買ってきた)。そもそも家の主ともいえる母親が動物嫌いであり(インコをよく許したよなぁと今となっては不思議に思う)、特に犬猫に関して、母は超の付くほどに毛嫌いしていたから、その母が「コワイ」と言うもんは、単純素直で自我無しの子供だった自分も倣って「コワイ」であった。
熱帯魚は、水の中という、同じ空気を共有している実感のない「別次元の生物」と捉えるからこそ飼えたのかもしれない。餌をやれば集まってくるのが面白くて、私も水面に撒いたりしていたが、「生き物」としての思いやりや、配慮があったかというと、全然、だろう。絵画、或いは機械仕掛けで動くおもちゃを見ているのと、大して違いは無かった気がする。動物愛護をうたう人からすると、ひどい、サイテー、と怒られるだろうが、要するに私にとって「人間以外の生き物」とは、言葉が通じるでもなく、「よくわからない」か「コワイ」存在だった。いまでは人間の方がよっぽどコワイと心から思うが、「絵」のようにリアル感に乏しく、正直、それらの命に関して無関心、とさえいってよかった。
 なかでも犬は、スグ吠えるし、飛びかかってくるかの如くだし、「コワイ」以外の何物でもない。加えて小学生の頃、私はよく下を見て歩いていなかったせいか、道に転がっていたフンをしょっちゅう踏んづけていた。そしてナゼかたいてい、その場面を見ているクラスの奴らがいて、「やーい」と後ろからからかってくるもんだから、よけいに「犬はキライ」となっていった。
 大人になってからは「無視」顔をしておけば寄ってこない、ということがわかってきたから、「キライ」とまでは思わなくなったが、とはいえ自分には遠い、タッチすることなど想像できない「コワイ存在」のままだった。

カズベキ村

 

 頂きには雪を被り、その肢体の、ごつごつした輪郭をも白い線で浮き立たせた岩山の連なり。それを後ろ盾に、新緑の色が波のうねりのように広がり、その箸休めの如く、渓流が飛沫を揚げて通り抜けてゆく。ザァァ…っと、こちらが流されるかのような響きの間に入る、ピチッピチッと弾ける小鳥の声に、つい頭を上げてみるも、その姿は見えず、映るのは近くまで迫る雲と青い空。ザァァ…だけが途切れることなく響き続け、やがてまた、ピチッピチッとついばむような彩りが耳に入る。
 ――と、牛が。
 その足元の草を食んでいる。鬱蒼とした林の中に、隠れるように。集落の中を放し飼い、だろうか。いや、黒い幹にキラキラした緑をこぼれんばかりに生やした林とは、どこぞの森林公園みたいに整備されているようにも思えるから、ヒトんちの敷地なのかもしれない。木陰でのんびり、ご満悦、とばかりに尻尾を振っている。

「牧歌的」「絵本的」という言葉が浮かばないワケがない、世界。映る色そのままが何の覆いもクッションもなく、ストレートにやってくるその透明な空気を吸うと、こちらの方が吸い込まれてしまいそうだ。この壮大な中では気が大きくなるのか、集落にはゴミもあっちゃこっちゃと捨ててあるんだけれども、そこに目をつぶれば、心鷲づかみにされる美しさ。ただ歩いているだけで浮かれてくる景色である。
 ――んだけど、ちょっと煮え切らない、というのが正直。

 グルジア共和国(2015年以降、日本における国名の正式呼称は「ジョージア」と決定)の北部、ロシアとの国境までもうすぐそこ、というエリアにある「カズベキ」(ステパツミンダ)にやってきた。コーカサス山脈にある名峰・カズベキ山(標高5047メートル)の麓に位置する村であり、首都トリビシから北へ約160キロ、マルシュルートカと呼ばれる乗り合いワゴンで、ムツヘタ軍用道路を約三時間進んだところにある。標高1740メートル(Wikipediaより)
 なぜここに。――というと、単に、ガイドブックに「行き方」が載っていたから。
グルジアという処をほとんど知らない以上、行けるところは行っておこう精神であり、「カズベキだから」というわけではないと言えばない、ということもない。…ん?…うん。
 「景色は最高」「のんびり癒しの自然堪能」の記述には、やはり惹かれた。人口は2000年において約1500。(2015年では930あまりと、人口減少の一途をたどっている)山間の自然に囲まれた小さな村で、人々はジャガイモをはじめとする農業に従事し、羊、水牛、豚等の家畜を飼うという、静かな暮らしを営んでいるという。
 都会より、田舎ののんびりした世界が好きだ。何処の国でも私は、ビル乱立・人口過密の首都に長く滞在することはなく、より素朴な表情を求めて地方へと逃げがちである。行き先として躊躇する理由はない。

  雪が見えているのは伊達じゃない。……寒いわ。
 五月、トビリシでは快晴が続き、汗ばむほどの気温だったが、霧を纏ってひんやりしている。山だし、と長袖を着てはいたものの、一枚じゃあ心もとない気がした。
 自然の豊かな村。静かで、癒しの世界というのは全然間違ってなかった。理想郷、美しい世界そのものだ。
 だが、「絵本」過ぎる…。
 まず、店がない。…ってあるにはあるが、雑貨を売っているような所が二軒。「カフェ」の看板が一軒。それ以外に見つからない。
 …市場は?
 庶民の台所であり社交場。色彩豊かな食材がワンサカと並ぶなかで、それらを巡ってやりとりする人たちの様子を見て回るのが旅であり、お楽しみ、である私なのだが、その存在が一向に伺えないこの静けさよ。加えて、パン――ここではどんなパンが食べられているのかと、パン食文化に興味があるものの、パン屋が存在する気配も全くもって感じられない。
 そんなぁ…。
 なんて、ショックを受ける方が悪い。そもそも田舎とはそういうものなのだろう。「自給自足」――自分ところで作って自分で食べる、その循環がほぼ出来上がっているのだ。パンもまたしかり。
 「買う」ものとは、ウチにないもの――絶対に「ここ産」ではない、どこぞより運ばれてきたイチゴとか、パッケージされたチョコレート。自分のところで作り出せないものを、お祝いの日なんかに「奮発して」手に入れる、という程度であり(雑貨屋のイチゴはバカ高かった)、それは雑貨屋二件もあれば事足りる、ということだろうか。
 とはいえ、今まで旅してきた中で、どんなに小さな町でも「市場がない」ということはなかった。おそらく、週一回か或いは月に何回か、定期市とか何かしらのイベントが立つのだろうとは思うが、三日程度の滞在で、私には結局「当たり」がなかった。
 そして問題はもうひとつある。
 地元「ならでは」の食にどう触れたらいいのか。――と、一軒あった「カフェ」に入ってみたが、えらくビックリされてしまった。そんなに久しぶりの客なのか。おかげで下ごしらえから見学することができて(なーんもしてなかった)食いモンにありついたのは一時間以上経ってから、となったのだが、まあそれはそれでちょっと楽しかったものの、おそらくこの「カフェ」も、町内会の集まり的イベントでやっと利用されているに過ぎない気がした。
 自給自足とは、言わずもがな「家庭」で食うモンが、基本。
 旅行者などの部外者が「あの国の飯はマズイ」などと、食に関して良い印象を得られず不平を漏らすトコロというのは、たいてい、食堂やレストランなどの「外食」ではなく、「内食」――家庭料理の方にいいモンが隠れているものである。
 ――そう。「外」がダメなら(ダメっていうか「無い」)、「ウチ」だ。
 というわけで、期待は宿に向かった。それも自分ちの空いた部屋を貸している、という、一般家庭とほぼ変わらないような民宿であるからして、祈るような気持ちで。
 ……だが、まぁ…。
詳細は省き結果を述べるならば――ブツクサ・ガッカリ悶々気分、というのが正直なところだった。 でもデザートまで付いているから、せめてそれを慰めに、と、口にしたパウンドケーキは干からび、口に入れると、ボロボロと岩が風化して砂へと砕けてゆく、その過程のよう。出された紅茶を一口啜ってみれば、ほぼ出し殻で淹れたような風味の無さ。ウチで飲む、しつこく湯を足した時の緑茶のようだと虚しく笑えてきた。
 よって、思わずにはいられない。
 ……することが、無い。
 「何かをする為」にと構えて旅をしたことはないし、それどころか、いつもなんもしてないように思える自分だ。しかし「食べもの」「それを作っている現場」といった、自分のワクワクを引き起こす源泉となる場面が目に出来ないとなると、とたんに「何しに来たっけ…」と後ろ向きな虚無感に覆われる。 
 景色は抜群だが、眺めているばっかりじゃあなぁ…――ここに「いる」ことの実感がない。
「綺麗なところ」。……みんなただ、それだけでここに来るのか。ただのんびり、眺めて寛ぐだけか。余暇においても、「余暇として」充実できることを求めソワソワ行動詰め込んで、結局のんびりと時間を過ごせていないという、私も「典型的日本人」のうち、ということか――なんていうのはともかくとして。
 「それだけ」ではなく、ここに「呼び物」があるらしいことは一応、知ってはいたのである。
 景色の良さを謳うならば、どこもかしこも牧歌的なグルジアだ。首都でさえちょっと郊外に出れば「深緑の国」と言いたくなるほど自然にあふれ、緑に枯渇を感じることはないのだが、ガイドブックがこの地を敢えて載せているのは、「サメバ教会詣で」というイベントが出来るから。

 北カフカスをゆきカスピ海へと流れ込む、約623㎞の大河・テレク川。その支流の傍にすっくと聳えているヴェミムタ山(標高2170m)の山頂に、教会が立っているという。それが、14世紀に建てられたグルジア正教会の「ツミンダ・サメバ教会」。
 カズベキ山のもと、天に抱かれるようにある壮大なビューのこの教会へ、この村から約二時間のトレッキングで辿り着くことができるという。(2018年、一般車も走れるように舗装されたらしい)。
 自然満喫、プラス教会詣での「癒し」コースを満喫できまっせ――自然はともかく、教会に特に興味はないから、ガイドブックの記事は小見出し以外に全く眼中になくやる気もなく、教会に関する歴史だとかの記述ももちろんスッ飛ばしていたのだが、「やることがない」。……絵本の中で、ジッと収まっておれない私がいる。
 ――ならば、登ってみるか。 

 明朝、肩が寂しくなるほど冷え冷えした空気に、「あ、嬉しい」と古めかしいストーブに手をかざす。五月という今の時期、火を熾すのはパン焼きの時だけかと思っていたが、あまい。広島感覚でいえば初冬だろう。
 コーヒーと共に出されたのは、昨晩と同じケーキ。三つあったうち一つ食ったあとの、二つの塊――残ったそのまんまを戸棚にしまい、皿の上を整えることもなくまたそのまんま出した、「あなたの食べ残し」というのがモロに伝わるやつ。それをまるごとビニールの中へと頂戴し、「非常食」としてカバンにつめた。「山で食えば何でも旨い」というではないか。

 ――快晴。外の空気はさらに冷たく無遠慮だが、なんというトレッキング日和。立ち昇る自分の白い息を、青空バックに見上げ、いざ出発。
 と思ったら。
 ――いるではないか……。
 向かう先に、「犬」が立ちはだかっていたのである。
それも、結構デカイのが。真正面、道のど真ん中で、しかも真っ直ぐにこちらを見て。

 どうしよう…。腰から下が、サーッと冷たくなってゆくのを感じるも、現実を前にキッと歯を食いしばった。目を見ちゃダメ、と息を止め、「平静な雰囲気」を慌てて奥から呼び出して、「何も見えてないモーン」とあさってな顔をして通り過ぎることに、心音最高潮に全神経を注ぐ。飼い慣らされている犬でさえ身構えるのだから、野良犬ならばその恐怖は何十倍である。
 野良?――そう、犬種はもちろん、野良かどうかの区別も曖昧な自分だが(ただ「犬」という型しかない)、黒白模様でその大きさ・体つきはなんとなく、よく飼われてそうな感じであるのに、一見してみすぼらしい風貌――毛がボサボサと不揃いで、白い毛色であろう部分は砂埃を被っている。「ひとんちの犬」というには手入れがされていないのが、私でさえ分かった。
 捨て犬だろうか。のちに、この種の紹介写真をと比べても、それは毛がやはり二倍ぐらい長く伸びて、ひとむかし前のフォーク歌手&ギタリスト、という感じだった。
 後ろを見ても、誰もいない。
 …やっぱりヤツの目に映っている存在とは私?「見えてないモーン」で、果たして誤魔化しが許されるのかと揺らいでしまうほどに、彼が見据えているのは私よりほかにない。
 狂犬病の恐怖まで一瞬、ひとっ飛びに想像が及ぶも、とはいえその犬は吠える気配がなかった。睨んでいる、という感じも警戒の様子もなく、そしてまた無関心にボーっとこちらを傍観している、というのとも違う。
 そしてあと二、三歩行けば近付いてしまう、という時になって、フッと背を翻し、スタスタと歩き始めたのだ。地図によれば、……そっちは私の進むべき方向である。

 なんと言うべきか。飛行機到着後のつなぎ通路(?)を渡ってすぐ、「バンコク行きの飛行機へ乗り換える方はこちらでーす」と案内してくれる人。もう少し言い過ぎるならば、手を差し出し、歩みをこちらに合わせて進んでくれる騎士、というか。

「行くんでしょ?」――とでもいう目で。

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 ――結局。

この子は教会までの往復、私に「道案内」を買って出てくれたのである。

こちらがゼイゼイとへばろうが、あっちから石を投げられようが、そっちから美女に誘惑されようが、私を見捨てることなく、最後まで――出会った場所に戻ってくるまで。

 

                               (訪問時2008年)

詳しくはコチラ

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