主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

 ワンタンの悟り ~タイ・カンチャナブリー

 

f:id:yomogikun:20211120055354j:plain

「ダメダメ、三日しかもたないよ」

と、レックさんは即座に否定した。何を馬鹿なことを――とまでは言わず、困ったように笑うというソフトな反応をしながら、またひとつ、黄色い皮をぺランと手の上にのせる。

表情も、話す調子も何ら普段通りのまま、その手元はちっとも滞らないから、こちらも特に邪魔者になった気なんてしないで居続けられる。…ってまぁ、「邪魔者」と自覚したって、退散するかというと…どうだろうかね。

 表面に少々白い粉を吹いた、一辺七、八センチほどの黄色い正方形。私が知る「ワンタンの皮」に、切断面なんて目についたことがあったろうかと、ソレがずいぶんと分厚いことが触らずとも分かる。黄色はなんだろうか。中華麺のように、かん水を使って出来た皮なのだろうか。(アルカリ性が、小麦粉の成分と反応する)

「これ、日本に買って帰れるかな」と、ぼそっと言ってみたのだが、…ダメなのか。

まぁねぇ。この気候だ。冷蔵庫にも入れずリュックに突っ込んだままでは蒸れてしまい、カビでフサフサ、毛糸編みのコースターと化すかもしれない。

三日以内?じゃあ、帰国直前に買うとしたら。帰ったら即刻使うことを心すれば、イケるだろうか。…って、でもねぇ。帰ったらまずお好み焼き食べて、その次は肉じゃが…と、順序がある。だいたい日本に帰ったらとたん行動力は落ち、数日は放心状態でいる私なのであり、ちゃっちゃと豚肉練って(ワンタンの具の)、なんてやるだろうか。

「…日本には無いの?」

「あるけど…」

――まるで、ベツモノだし。

またひとつ、その手の上に。少女のように華奢な、小さな手だと思う――けど、早い早い。その手自体に独立した意思が宿っているかのような、確固たる、という動きだ。

 黄色い皮をのせている方とは反対の手に、箸を一本だけ握っている。

テーブルに置かれた丼には、ピンク色の肉餡がこんもり。そこに突っ込まれているミニスプーンを、箸を握ったまんま持ち上げたら、その腹にこびり付いているのを、皮の真ん中に「チョッ」となする。

ピンクの「チョッ」。――たったこれだけ?とウッカリ声が出るほどの「チョッ」であり、小匙一杯にも満たない。指に、何かの拍子についてしまった味噌を拭ったかのような、もっといえば、向こうの店のが誤って飛んできたんじゃないか、というような…。

これは「具」なのか。「間違ってない?」なんて言いたくなるが、さっきから判を押したようにその量なのである。

で、スプーンは肉餡盛りに再び突き刺して、用済み。既に拳の奥の、「箸」の出番だ。

餡の載った四角い皮の右上・隅っこに、箸をあて、少しだけ内側に巻き付ける。ひと巻きちょいぐらい。

そしてその部分を、「チョッ」の具の上に覆い被せ、箸でもってキュッときつく締めながら巻き込んで、そのまま箸自体に巻き付けてしまう。

箸と一体化した皮の両端を、その両方から真ん中に寄せるようギュッと握ると、ヒダヒダになる。――となれば、箸もまた用済み。

シャッとそれを引き抜いてしまえば、あとにはキャンディーの包みみたいに両端クシャッと縮れた、ねじりマカロニというか、ひらひらレースを纏ったイモムシ、みたいなのが残される。

出来上がり?

箸を引き抜いたあとに開いた口(両端)は、それが引っ張られぬようギュッと押さえているのに乗じて閉じられていることになるのだろう、…多分。正直その場において「最後、端っこの処理は?」なんて疑問を挟む余地などちっともなく、「滝は上から下に落ち」「蚊に刺されたら痒くなり」「牛乳飲んだら口まわりが白くなる」と同様、「箸を引き抜いたらヒラヒラ・イモムシが出来る」――そーゆーモン、という理がある如くに現場を納得していた。「見ているようでいて見ていない」ことに、時間も空間も離れて多少冷静になっている今、やっと気づくことができるのだ。

 ともあれ。折り紙の新品の束のように、分厚く重なった黄色い皮がビニール袋にあり、それが一枚一枚、みるみる姿を変えていった。四角いトレイに、コロコロ生まれ出るイモムシに、こちらは「ホー」と見入るのみだった。

昼のドラマを耳に流しながら編み物、とでもいうような、穏やかな横顔。だが「家のお母さん」と言うには、髪の毛をかっちりと頭のてっぺんで纏め上げ、キレーに口紅を眉を描いたお化粧顔だ。特に眉の線が、観音様のようなその雰囲気にまこと似つかわしい。

たいていは視線を落とし、とはいえよそ見してもどうということもなく、レックさんの手先はただひたすらに動き続ける。何個、というつもりもなく、客足のない今のうちに、作り溜めておく気なのだ。

「面白い?」

「うん」

見惚れている私に、ブンが布巾を持ったまま近付いてきて、言った。思わず笑ってしまう。日本語だ。

学校で習っているらしい。可憐な美少女16歳――ぱっちりした目にスッキリ整った鼻筋、唇。どういじっても可愛いだろうに、髪の毛はただ一つに後ろで括っただけ、というのがまたニクい。

出会った日本人から貰ったという、そこそこ分厚い「タイ語・日本語会話集」――旅行における必要なフレーズを集めた本を、ホラ見て、と学校帰りのカバンから出して見せてくれるのだが、――教科書以外に入れるのがソレ?と、「学ぶ」ことに対する好奇心にまず感心する。私など、カバンが重い理由はほぼ、友人と毎日貸し借りする漫画本のせいだった。(教科書は学校に置きっぱなし。)

帰りがけにそのままここに来ているのか、制服姿でお手伝い中。別のテーブルの前で、立ったままずっとフォークとスプーンを白い布巾で拭っている。

 

タイ、バンコクより西へ約150㎞。ミャンマーとの国境に寄った、カンチャナブリーの町。

太平洋戦争中に建設された、泰緬鉄道にかかるクウェー川鉄橋――「映画『戦場にかける橋』の、でしょ?」と知られるそれをひと目見よう――と意気込んでいたわけでもなく、いや行ったら行ったで見に行くけれども、この町に向かおうとしたきっかけは別にある。他の町で出会った友人の郷里がこの町であり、里帰りしているはずの本人を訪ねるも仕事で留守。だがそのお姉さん・レックさんが「よく訪ねてくれたね」と、こちらの相手を買って出てくれた――のが始まりだ。

この人は家族で夜、メン屋台を営んでいるという。…となりゃあ、「見学させて」とならない展開はなく、「ナイトバザール」として屋台が建ち並ぶ通りは宿から徒歩でほんの数分であることも乗じ、夕方になれば「どうも」と訪ねる(おしかける)日々となったのである。…メンドクサイのに出会ったなぁ妹、とレックさんは内心思っているかもしれないが、湖畔の水面のように穏やかなその観音スマイルに、んなこと微塵も感じていない、ということにしておいた。

午後五時前。日差しは多少、角を落としてはいるものの、翳ったとまではいかず、夕飯時にはまだまだ早いように思える。「ナイトバザール」の通り一帯、テーブルを出したり鍋を運んできたりと、どこの店も人々は「準備中」だ。

だがそこから漏れだしているのは、色気、或いは、企みとでもいうべきか――串肉を炙る、といったハッキリした動きは無いものの、鍋からはみ出すスープの湯気、それとも肉から、野菜の断面からの香味のせいか、モワンと色を付けた、思わせぶりな匂いが漂っている。

早々に魅せられたのか、「いま食える?」とそんな中でも客はポツリ訪れるもんである。そしてひとつでもテーブルがセットされていれば、まだキューリ全部切り終えてなくとも「準備中です」などと追い返すことはあまりない。

「いらっしゃい」――レックさんもまた、屋台の表舞台(調理台)にデンと立つ旦那さんよりも素早く、顔を上げて反応した。

既に心積もりしていたように、現れる早々注文を言ったひとりを「ソッチに座ってね」と、テーブル三のうちの一つ、唯一まっさらに整っている方に導いたら、もういい頃ね、と、占拠して広げていた肉餡と皮、イモムシ入りトレイをテーブルから片付け始めた。

 居場所を失くしたコチラも金魚のフン。レックさんにひっついて、通りに面している調理台の傍らへと移動する。

せっせと働く、「やることのある人」の隣でただポツンと突っ立っている、というのは、いくら見学させてくださいと了解を取ってはいても少々情けないモンがあるから、全神経集中、学会に発表するぐらいのノリで現場を眼球ギラギラと焼きる、目指すは「やる気マンマンに満ちた木偶の棒」。

旦那さんはいま、「カオマンガイ」の持ち帰り用に対応している。カオマンガイとは、鶏スープで炊いたご飯の上に、茹で鶏をのせたもの。メン屋とはいえこれもメニューの一つにやっており、しかも人気だ。

丸い、切り株まな板で肉を切る、そのでかい図体――腹のデンとしたたるみがモロに分かる、藍色のタンクトップの下に白いエプロンを巻き付けた姿は、料理にドスを利かす調味料でもあるか。スポーツ刈りの頭に眉毛がくっきり「キッ」とつりあがったコワモテでもあるから、よけいにだ。うん、うん、と頷くだけで反応少なく表情も変わらず(悪く言えば無愛想)、寡黙なのもまた凄みに変換され、こういう人が包丁を握る姿がオモテにあると、なんだかスゴイもん作ってそうな店、という気がしてくる。

 …んだけれども今は忙しく、新たな客にはレックさんが、その横で対応する模様。

注文は「バーミー」であると、私にも聞こえていた。中華麺である。

「コレも入れるの?」と、イモムシを指さすと、「うん」。――ワンタン。タイ語で「ギアク」といい、つまりワンタンメンの注文だ。

 調理はいたってシンプルである。

麺とワンタン、もやし少々を、メン用の深い網じゃくしに入れて大鍋の中に沈め、その間、温めた丼に揚げニンニク小匙一杯、塩、コショウ、味の素少々を振り入れておく。茹で上がったメン類一式をその中へと移し、上からスープを注いだら、薬味として葱&パクチーを振り撒く。

あとはお客が、テーブルの上の調味料四種――「砂糖」、「粉末唐辛子」、「輪切り唐辛子の酢漬け」と、タイといえばの「ナンプラー」(魚醬)でもって、好き勝手に味を調える。

自分で味付け?――なら、家でも出来るのでは。

…なんてことはしかし、言えるもんじゃないだろう。日本でだってそうだけど、ラーメンのようなスープを家でこしらえるというのはなかなか大変であり、店に来たイミ、というのはやはり「大あり」だ。

夕方の為に仕込むスープは、自宅にて朝から取り掛かるという。豚骨、鶏ガラに加えて、カオマンガイ(鶏ご飯)用の鶏肉丸々一羽も一時間程度、この中で茹でたら肉をさらったあとの骨を再び戻していた。全部で何羽茹でるのか、煮込む鶏肉が増えればそれだけ濃度は増してゆくことだろう。店という多くの人に提供する場であるからこそ、意気込んで揃えられた材料の数々であり、出来上がるその濃度――食べる人数が片っぽの指の数にも満たないのに、「家で」というのはちょっと無理ってなもんである。

とはいえど。そのかかった時間も手間も全く感じさせない、店頭で見せる「仕上げ」とは非常にあっけない。引っかかっているタオルでもシュルッと掴み取るように、またひとつ、メンを片手でホイサッサ、ヘタをしたらインスタント?なんて思われかねない早さであるのが惜しいというか、もっと「もったいぶって」仕上げたらいいのに。そう、「ギアク」――ワンタンだって、今は、さも生まれた時からこの姿だった、かのようにコロコロとそこに在るけれども、ひとつひとつ、過不足なく正確に、手間をかけてこしらえていたものなのである。…それが「プロ」か。手間、などと周囲に思わせないのが。

 と、「食べて」。

ついでに、とばかりに私にも小丼だ。いつもの――ワンタン四つ入った「味見用」。コレの為にあらかじめ多めに茹でていたという、その心遣いが嬉しい。

レックさんは客の丼と小丼を両手に、「さあ」と観音スマイルでテーブルへと導いてくれる。

感謝して「いただきます」。

 汁に浸かってしまえば「イモムシ」なのかなんなのか、くにょくにょとしたヒダが泳いでいるようで、まぁ一見は「幅広の麺」。子分のように、その底からモヤシがチラチラと顔を出し、葱がパラパラと彩りを添えている。

 レンゲですくってみると、今はイモムシというよりは、ひらひらと腕を広げたジュディオングというか、脱皮した蝶々。

 ……これよ。この弾力。

一口だけだ。まだ丼には殆ど残っているというのに、もっと、もっともっと食べたい――という切なさにも似た気持ちが盛り上がる。

やっぱり、旨い――のは、皮か、具か。どっちでもいいんだけど、どっちなんだろう、と、針がチカチカ、どちらを差してみようかと遊んでいる。

その「はねっ返り」に、ワンタンってこんなのだった?と、そう称されるものを食った過去を引っ張り出してみる。麺(中華麺)の添え物という「ワンタンメン」としてであり、まず印象としては、「皮が薄」かった。儚かった。病院の窓から眺める、落ちゆく葉っぱのように。

茹でたら「溶ける」が如くで、いつのまにか口の中を通過しており「食った感」などまるでなかった。…って実際溶けたのか破れたのか、中に在るはずの「具」・肉餡もスープのどこぞへと消えているモンで、皮に包む理由が分からない。中の肉餡は一つにまとめ、わかりやすく「肉団子」にした方がいいのではないか。皮のぶんだけ、メン(啜る方)を増やした方がいいのではないか。「要らないのでは?」――と正直、ワンタンとはその存在意義を量りかねるモンだった。

が、これは違う。

厚めの皮で、しかもヒラヒラのしわが余計に弾力を感じさせるのだろうが、讃岐うどんの「コシ」という言い方がまさに当てはまる。「啜り食い」する紐状とは、ただ形を変えただけで。

ただカタチが違う――けれども、だからこそ。「啜らない」・つまり勢い付くことなく口に入るせいで、モグモグと落ち着いて咀嚼する、その実感が強く残る。ともすれば「讃岐」よりも度胸、据わってんじゃないかと思う程だ。

 その、コシある皮に、中の肉餡が便乗している。

包む際に見たその量とは、「あまりにも…」とウッカリちゃちを洩らしそうになる程に「ちょこっと」であった筈だが、味付けが強いのか何なのか、カッキリ「具あり」の明確な色が、その弾力全体に及ぶのだ。「ワンタンメン」として食うにしても、決してナルト(かまぼこの)のようにメンの「添え物」に甘んじることは無く、「同等」とふんぞり返っていい存在であると思う。

――いや、しかし勿体ない。

「また明日も食える」と悠長なことを言ってられない、この場における命短し旅行者としては、メンと一緒に食うなどという余裕にかまけている場合ではない。心ゆくまで、これだけに没頭することがまさに、正解。

そしてやはり、思わずにはいられないのだ。

「この皮――欲しいなぁ。」

とはいえ結局は「ここの味だから」。タレの必要性など感じない、この肉餡の味と包み技、そして――ワンタン自体のインパクトに忘れそうになるが、それを抱擁する慈悲深く滋味深い、ありがたや的「スープ」と合体するからこその、旨さだ。……それは分かってはいるが、遠い日本でコレを偲びたい、「似た」感じを得たい、それらしき満足が欲しい――と思うならば、この食べ物のアイデンティティといえる「皮」にすがるしかないだろうよ。

f:id:yomogikun:20211120055418j:plain

やや薄暗くなったか、という緩慢な空よりも、人々の方がはっきりと夕方の到来を告げている。「食べる」為に動く時間だ。

新たにお客がやって来たようだ。結構な数の注文らしく、まだ「カオマンガイ」にケリがつかないコワモテパパの横で、レックさんは「こんばんは」とガラスケースの横からニョキっと顔を出し、ブンもまた、スタンバイの丼をカチャカチャと用意する。――制服の白が、早々灯された電球に照らされて、光っている。

家族三人がそれぞれ、立ち位置にすっぽりはまり、迷いなく動いている。

                                                                                                      (訪問時2007年)

詳しくはコチラ↓

docs.google.com

 

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村