主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

第一歩は「ヘン」~タイ・バンコク  

 

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写真はタイ東北部コンケンという町における麺屋の、ダシが非常に旨い、お気に入り「センミー・ナーム」。「センミー」は米製の細麺、「ナーム」は汁に浸かることを示す。

話はでも実は、写真とは関係ない。汁の無い麺、「ヘン」についてだ。

 もはや行きつけになっている感のあるタイだが、初めてやって来た20世紀も末の頃・まだ大学生だった時は、そりゃあ緊張の糸がハープの弦のようにピンピンだった。今ではデジカメで、コマ送りのように好き放題撮る写真も、当時持っていたのはストロボ発光禁止機能のない、フィルム使用コンパクトカメラ。それでいてオート(カメラが暗いと勝手に判断して)だから、不用意にシャッターを押せば、派手に光って目立ちかねない。周囲の目が気になり、「撮る」ということに及び腰だった。気が引けた。ということで海外に出始めた頃の写真とはまぁ少ないもので(フィルムも金がかかるし)、ましてや、到着当日の、人に紛れての写真などあろうはずもない。

 ともあれ初めてのタイの、初めての食事。それが「ヘン」だった。

 

 

そもそも、『汁無し麺のことを「ヘン」と呼ぶ』とかいう知識以前に、「汁のない麺料理」というものに対するイメージが、私の中でつかないでいた。

まぁ、昨今では日本でも「油そば」だとか「汁なしタンタンメン」だとか当たり前にあるから、メニューを見ても「何?」などと驚きもしないけれども、当時というかこの頃(繰り返すけど20世紀末)はそんなに一般的じゃなかったし、やはり麺といえば温かい汁に入ったものが、私にとって常識だった。そうじゃなければ蕎麦やうどん、ソーメンのザル(冷やし)や釜上げの、別容器に入れる浸けつゆ(麺つゆ)を付けてのメン類。その麺つゆだって、ちゃんとそれなりに液体であって「汁無し」とは言わない。

 汁が無ければ、ナンだ。麺を湯がいただけか――というと、「汁」とはズズズと飲める「スープ」が無い、ということであって、タレ・つまり調味料がもちろん入っているのだろうことは、なんぼなんでも想像はついたが、…調味料なんぞ家にもある。

スープならば時間をかけて「ダシ」を取る。即ち手間ヒマかかるもの。だから客にとって、店に出向く甲斐があるというものなのに、湯がいただけの麺に、家にもある調味料をかけただけのものを味わいに行くのか。――なにが、「技」?店が見せる腕前とは、果たしてどこにあるのか。心血注いで打った麺でありこれ自体を味わってほしい、とかいうならばまだわかるが。

まぁ、あえていうならば「冷やし中華」がそれ・「汁無し」に分類されるのかもしれないが、言い訳すればアレを、「汁あり」と比べてみたのち選択した「汁無し」麺、とかいう明確な意識はなく、単に「冷えている」のが欲しいから食べている。「夏=冷やし中華」という一択だ。冷えている麺を「冷やし中華」とメーカーが銘打っている既製品の袋の裏に従った結果、ああいう、調味料ダレが皿の下の方に溜まっている姿になるというだけであり、言われてみれば汁が無いな、と気づく程度だ。自ら「汁無し」として求めたわけではない。そういえば三重の「伊勢うどん」も、太めのうどんに濃い色の醤油ダレを和えるという、汁が被っていないかたちだが、私は広島の人であり、すいませんが縁がない。

ともあれ、調味料を和えるだけの麺など、注文しようという気が知れない。「汁無し」なんてねぇ…、というのが正直なところだった。

 だが目の前に在るのは「ソレ」だった。

 

 

バンコク中央駅(ホアランポーン)から徒歩五分という安ホテルに荷を下ろし、さて、すっかり夕飯時となっていた。駅から宿までの道、その路地に、露店の店が出ていたことに気付いていた。

クッションの中から漏れ出たビーズ玉のように、ポロリポロリと、三軒。それぞれ簡易テーブルを一つ二つと椅子を出していて、人がポツポツ腰を下ろしている。

ここで食うべし、という気がした。そんな玉石混交・喧噪の中で、大きなビルの影に覆われた路地に、屋台が在った。クッションの中から漏れ出たビーズ玉のように、ポロリポロリと、三軒。それぞれ簡易テーブルを一つ二つと椅子を出していて、人がポツポツ腰を下ろしている。

ここで食うべし、という気がした。

何があるのか――っていうか、もう何でもいい。どこでもいい。日も暮れたところであり、いくら徒歩五分以内に宿に戻れるとはいえ、早々に引っ込みたい気持ちもある。

車輪のついた調理台の上で、店の人が肉か野菜を切ったり和えたりしている。或いは炒めたり、或いは炙ったり。しかしそれが何が出来上がるまでの動作なのかわからず、またどれでもいいけれども注文をどうしたらいいのか。

まずは通過儀礼だ。

据わりの悪そうなテーブルを前に、背中を丸くするおじさんが食べているのは、どうやら麺だ。――あぁそうだ。麺の国。

何とか口に出した注文の後、「これね」と運び係のおばさんは面倒見の良さそうなカンジで、ニコッと笑って丼を置いていった。テーブルの前のソレをのぞき込んだ。――と、「ん?」

 首を傾げた。

汁が――「無い」。そしてメンが…太く、ない。ビーフンのような極細麺だ。

「なんで…?」

自分が頼んだのは「汁有り」=「ナームで」ある。麺はきいめんのように太いのが好きだから、確か「センヤイ」と呼ばれるものにしよう。

「センヤイ・ナーム」と口に出したはずだ。

だがやってきたのは、汁なしは「ヘン」。そしてビーフンのような細麺は「センミー」。つまりその丼は呼ぶならば「センミー・ヘン」。

あとで振り返るに、「センヤイ・ナーム」と言ったこちらの言葉が「センミー・ヘン」に聞こえた、というのではなく、そこが「汁無し」のみの店だったのだろう。かつ、たまたまだったのか、センヤイ(太麺)を置いていない店だったのだ(私の経験では、センヤイはおいていない、という店に時々出くわす)。確かに注文の際、店のおばさんが不審な顔とともに訊いてきたのだ。おそらく『うちにはコレ(汁無し細麺=「センミー・ヘン」)しかないんだけど、いい?』といったところだろう。緊張のせいで、どの麺があるかも見えていないし分かってもいないから、うんうん頷くだけでしかなかったが。

 

とりあえず現地のものにタッチ出来れば何でもいい、御の字だ――とか冷や汗出しながら思っていたのにかかわらず、いざ期待枠の外のものが降ってくるとガッカリした。うまく意思表示もできない、その勇気もない自分自身がもどかしい。

ともあれつっかえすことなど出来やしない。

使い込まれてざらついたピンク色のプラスチック丼に、こじんまりと小さな「山」が収まっている。その斜面に刺さったアルミのレンゲが、夕日から譲り受けたようなオレンジの、どこかから吊り下がるポウッしたあかりを照らし返していた。

頂きを飾っているのは、おそらく豚肉チャーシューらしきスライスが数枚と、お好み焼き用イカ天のような、何かカリカリしてそうなものが、一握りもない程。

 山肌に沿い従うのはもやし。残雪のようにまばらに散るのは、緑青々しい、草刈りの跡のようなちょっと長めの刻み葱。

 その下に、「本体」がある。

こげ茶色の汁を纏って輪郭を強調ながらも、底辺でとぐろを巻いているのは、麺。米のメン。

丼の縁に渡された箸が妙に愛しく、懐かしい。

いじけても仕方がない。文字通りこれが新たな世界への「ハシ渡し」かと、救いを求めるよう二本の棒をまず手に取ったのだ。

麺を底から掘り出してみる。既にしっかりと醤油的な調味料色に染まっているその細い線を、ちゅるっと口に入れてみる。…と、「ん?」

いけるのだ。

勢いがある。言うならば、お好み焼きや餃子が煙を上げているような、イケイケモードの味だ。しっかりと濃く、焼きそばのようでもあるが、それよりもぬるりと滴る艶めかしさがあり、また麺の歯応えが生きている。良い部分しかない。ハッカ飴を口にした瞬間のように、「おいしい」しか出ないことの意外に目が覚めた。

要は、バランスなのだ。――と、思い浮かぶのは酢豚である。この定番料理は数多の料理本に調味料の配合が載っているけれども、「これだ」とピッタリくる味に出合うことは稀だ。おそらくそれは、本にある肉や野菜の量と、実際のこちらの量の割合にも因るのだろう、簡単なようで簡単にいかない。

「調味料をただ和えるだけだ」――なんて言い捨てていたが、ただ和えていて、ただ「ウマく」はならないのである。

おばさんを遠目で見た。まとまってやって来たお客の為の丼に、数種の調味料だか粉末だかを加えてゆくその手つきは手裏剣を飛ばす如きであり、計量スプーンで測ったりなどしていない。――これぞ、「技」。

 タイ、だけでなく近隣の国でもそうなのだが、「汁無し」にしろ「有り」にしろ、また「炒め」にしろ、テーブルに麺を出されたら、客は口にするその前に、傍らに置かれているはずの唐辛子・砂糖・ナンプラー魚醬油)といった「調味料セット」に手を伸ばし、好きなだけ振りかけて、最終的に自分で味を決めるもんである。だがこの時の私は精神的にそんな「余裕」は無く、ただただこの「初タイの味」を体全体に取り込むことに夢中集中していた。おそらく、テーブルの上にセットがあることにも気付いてなかったろう。

 

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第一歩は「ヘン」。金色の微笑みと~タイ・バンコク - Google ドキュメント

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