主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

「菱形ビヨーン」 ~グルジア・トビリシ

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目にした瞬間は、ただその姿かたちに心奪われ、漏れるのはただひとこと――「ナニアレ」。

平型タイプならば、円形や楕円。フックラした立体パンならば、ボール型にクッペ(コッペパン)型に、箱型(食パン)、筒形、ちょっと変わってリング型や編み込み、花型などアレコレとあるけれども、このようなかたちは初めてである。

アメーバ、みたい。

そのカーブした輪郭に思い浮かんだのは、遥か昔に理科の教科書で見て久しい、アレ。ほぅ、縁がないと忘れ去っていた名称でも、ふとしたきっかけで心の深層から浮かび上がってくるもんだと感心するが、とはいえ一応、それは一応、どれも規則的に揃った形ではある。しいて言うならば菱形だが、一組の対角が船首と船尾のように、ビヨーンと長く引っ張られており、なんとなく「Oh,」と言ってそうだ。

大きさも結構ある。伸びた腕の端から端までの長さは、四十四、五センチはあるだろう。「盾」に使ってもいいかもしれない。

まさかパンだとは思いもよらなかった…なんてことはすっとぼけようもなく、パンでなくして何と言おうか・工房の近所一帯には、その匂いがムンムンと漂っているもんだ。

それにしても、パンに「なぜ」と疑問を投げたくなるなんて、――早々、オモシロいではないか。果たして何の都合があって、どういう意図あって「そのかたち」に落ち着いたのか。伸びた二つの腕の先端が、骨の関節のように丸くくびれているのは、そこを(引っ張ろうと)握った跡だろうが、それもまた木工品としての雰囲気が出ているようで、ヒマにまかせて意味ありげだと感じたくなってしまう。

…「十字架」、だろうか。

グルジア正教において崇拝される、聖ニノの十字架――ニノがキリスト教を伝道する際に持っていたという「葡萄の木」を模しているのか。それとも、国旗にあるグルジア守護聖人・ゲオルギウスのシンボル「赤いクロス」を表しているのか。

十字架にしては、その交わり部分にやや肉が付き過ぎであるが、まぁパン生地なんだから細かいことは勘弁してよ、というところだろう。落書きのような輪郭不細工の動物パンでも、「ウサギ」ならば子供が喜ぶかもと期待して買ってしまうもんである。

ともあれこの、「うーん」とどう形容するべしかと考え込んでしまう姿のパンは、「グルジアに来た」ことの念押しとばかりに、あっちこっちで目にすることが出来る。あっちこっち、ではあるけれども、手作りである以上、作り手によって微妙に異なる点がみられるのは当然であり、「伸び」がスマートだったり、逆に中央部分の肉付きがよく、よりアメーバ的に曖昧だったり。緩やかに反って「船」らしかったり。片方の引っ張りだけがスッと長く、より「十字架」を思わせるものもある。クセか、或いは意図的か・それらの個性は「誰が作った」ことを示すハンコのようなものでもあろうが、ともあれヘンテコなかたちであることの傾向は共通しているのだ。

これぞグルジアの典型。――なのに「形容し難い」とはあまりに失礼だろう。強いて、無理やりにも言葉を使って誠意を示せというならば、私は「菱形ビヨーン」と言い表そう。…成形する作業のイメージそのまんまだが、それが一番的を射ているというか、私の乏しい語彙力の中から探った精一杯、である。

 

グルジアの首都・トビリシ

 

パン屋と呼ぶよりは――「パン小屋」。

屋内のコンクリート壁は、ところどころ剥がれて黒い染みが垂れ、中の世界を数百年は遡ってもよさそうな雰囲気に仕立てている。大昔から建つ教会を訪れる時の、厳かで神聖な空気さえ感じられてくるような――と奥へと踏み入れば、監獄を思わせる鉄格子のはまった小さな窓と洞窟的な入口から漏れてくる、外界からの自然光をひそやかに受けた、そこにはひっそりとした空気が支配する、空間。ひとつ、裸電球がぶら下がっているが、部屋を明るくする気があるようなないような、ただまぁるいオレンジ色が、人魂のようにポウッと宙に浮いている。

十畳ほどの広さだ。盛り土を固めた「ミニ古墳」のようなパン焼き窯を中心に、作業台そして棚等々が、静止画のように陰影を描いているのは、「昔ながらの」という言葉を誘う雰囲気がある。

ここを教会に見立てるならば、「おやっさん」はさしずめ牧師さんというところだろうが、その薄暗い、小さな明かりが一つだけ灯る小さな工房の中でただ一人、古墳の前に立っている。

 なんとなく、「わかさぎ釣り」を思うシルエットで。

だが、かの釣竿よりははるかに長い、物干し竿といっていいほどの棒を片手一本ずつ握り、天井に向かって口を開く古墳の、噴火口のようにトップに開いた「穴」の中に差し込んでいる。二、三歩離れたこの位置からは奥まで見えないから、その傍にぴったりと立って覗き込んでみたいけれども、容易に近くのはキケン。棒が引き出されるタイミングは突然だ。その先端で腹でも突いてウっとなるのももちろんヤだが、集中力を途切れさせて漂う雰囲気となることの方がなんだかイタい。邪魔したくない。…ってまぁ、ここにいるというだけでだけで十分邪魔であり、「危ないんだけどなぁ…」と内心こちらに気を遣わせているという根本的な問題には気づかないフリをするが。

棒をジッと持ったまま、その先にあるものをじっと見下ろし「時」を待つ。ほんの数秒静止する、その姿にしっくりくるのは、やはり氷の穴に糸を垂れる「釣り人」。…だけれどもしかし、目が違うか。釣りにしても、魚が食いつく感触を逃すまいと、ボーっとしているようでも実は集中しているのだろうが、このビンビンと伝わる「気」の張りようはどうだろう。深い彫りの奥からギラつく眼差しの、そのエネルギーたるや。

剃ってあるつもりなのかもしれないが、角ばった顎と頬を取り囲む、くっきりした濃い髭のあと。そして白い作業着の隙間から垣間見える、もじゃもじゃした胸毛がまたよけいに貫禄を与えている、いかにも「職人」の気を漂わせたおやっさんであり、「気が散る。出て行け」とか怒鳴る姿が絵になるが、怒鳴りたくてもそのヒマもないか・今はダイジな「決め手」の瞬間である。

 

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「穴」の向こうに広がるのは、まさにおやっさんの「宇宙」。――「焼き上がり」を見極める。

このパン焼き窯は、ミニ古墳でも五右衛門風呂でももちろんなく「タンディル」と呼ばれる壺状の窯である。底で火を熾しており、薄く延ばした生地を上部の穴から差し入れたら、内部側面に貼り付けることでパンを焼き上げる。

外観・窯の外側表面は壁同様に黒ずみ、多少剥がれてはいるもののセメントで改めて塗られて凹凸はないが、内部は、底からの炎でその肌をオレンジ色に照らされながら、石レンガが組まれている模様が見える。それは長い長い歴史の積み重なりを物語っているようで、これひとつで山の如し的な、厳かな雰囲気を空間の中に漂わせている。

もっと覗いてみたい、と、頭せり出したいのはヤマヤマなんだけど、やっぱり何の役にも立たない単なる好奇心などで、近づくことは憚られてくる。

ちょっとやそっとじゃ入り込めない「職人技の世界」だ。恨めしいかな・パンが焼き上がり、そこから取り出されるという、まさにベストショットという瞬間であるほど尚更に――とか思っていたら、「カメラ、持ってないのか」。「ほら焼けるよ、みてみて」と、こちらにカメラを出して構えるよう要請し、おやっさん自身も両手に持った棒を構え直し、…それって「ポーズ」のつもりですね。

「そりゃ喜んで」とボタンはもちろん押そう。正直、どうせ撮るならその直前まであったはずの「立ち入るスキのない姿」が良かったなぁと、いかにも記念写真的にニカッと固めた笑顔の前に少々複雑な気分だが、それは贅沢というものかもしれない。ウェルカムと温かく迎えて貰えるだけで御の字なのだ。五十代半ばぐらいか、頑強なブロック塀などない、気さくなおやっさんなのだ。

 ミニ古墳。…じゃなくて、「タンディル」。

――深い。穴のある頂点は腰の高さほどだが、内部の底は、地表から更に、かなり深く掘ってあるように思える。思える、なんて曖昧なのは、その奥底をじっと凝視する前に「アツっ」と目を背けてしまい、いまひとつ確信できないのだが、おそらく。

底にある「火」は、チョロチョロと背丈同じく、輪に整列しているから「ガス」のようだ。欲を言えば、昨今の文明から離れた外観のように、「薪」の方が情緒あるってもんだが、それはまぁ、手を出さない人の勝手な物言いである。電気ガス等々「スイッチポン」で殆どのことが滞りなく済ませてしまう、現在の生活スタイルから離れて暮らしてみなさいと言われても、私にはそう簡単に「ハイ」と頷く勇気はない。ふと、昔の日本の台所ってこんな感じだったのだろうか、と思った。もちろん姿かたちは全く違うんだけど、竈はこのタンディルのように、空間の「主」として存在感を漂わせていたのだろう。

ともあれ。

窯に突っ込んだ二本の棒を、メスとピンセット(っていうのかしらないけど)を手にする手術中の外科医のように、カチャカチャと細かく動かし、そしてその腕を、グインと軽く後ずさりしながら、引く。と、片方の先っちょに現れたるは、堂々たる完成形。棒はまさに、その菱形部分のど真ん中を射抜いており、おやっさん合わせて「魚にモリを突いた図」という風にも映る。

そうして焼き上がったパンは、窯というものをこの場所に造る時「ついでに」と塗り固めて設たような、傍らのコンクリート台の上に、放られた。…と、また次が焼きあがる。焼きあがったら、また次が。

大漁である。

ひとつ現したら、それを皮切りに次から次へと引き上げられてゆく。

刺すことができるのは、その棒先に、弓矢の先っぽのような尖った金具がついているからだ。対してもう一方の棒の先は、彫刻刀の「平刀」のようにヘラ状なのが取り付けられている。吸盤でもあるかのように、内部のパンは不思議なほどしっかりと横壁に貼り付いているから、ヘラ状だと密着した部分に差し入れて剥がすのに都合がいいようだ。

クリクリっと意のままに動かしているように見えるが、繰り返すけどその棒とは物干し竿の大きさである。それを、中に貼り付けたパン・ひとつひとつを引き出す度に、出したり入れたりするのである。そりゃあ相当厄介であり、一度に五つぐらい串刺しして出したくもなろう(そうすると抜くのにかたちが崩れるか)。そして、…まぁ、火傷なんてとっくに慣れているしィ、の境地を過ぎてもう何年となるのか知れないが、とはいえ当然ながら熱いのだ。顔面を、熱が直撃しないよう反らせてはいるものの、でもちゃんと覗き込んで焼き具合を見る必要がある。私も時々うっかり、コンロの火でまつ毛を焼くが、…気を付けてね!

 

 

シャキーン、と背筋を張った表面の、まずは「ビヨーン」された先端部に力を入れると、バリン…とベニヤ板のように折れるも、内からはモッチリ、離れよか離れまいかと決めかねているらしい白い綿が、湯気をモワンと吹き上げる。…イイじゃないの。

ホワホワの気泡はえらく粗い。「粗い」といえばフランスパンの断面であり、ところどころに大きな気泡が散らばっているのがヨシ、とされるもんであるが、こちらはどこもかしこも粗いというか、シャチハタ印大の穴が、全体にびっちり蜂の巣のように埋まっている。

離れよ、と未練を断ち切るよう引きちぎり、その断面を鼻に押し付けて立ち昇る熱を実感すると同時に、気泡の奥のその向こうから、もじもじと何か言いたげな、籠った香りに気が付いた。それは太鼓の、表面を押さえて弾く、丸みある音のようでもある。

ひと齧り。ザクぅ…っとした「皮」の、その歯応えに唸る。

中もまた、大きな気泡だからフワンフワンかと思えばどっこい、モグモグするべき噛み応えがある。気泡の膜がしっかりしているのだろう。

「塩味」だ。それを特徴として紹介されるパンと言えば、これまた「フランスパン」が定番だが、しかしながらフランスパンが、そう言われれば気づく、という程度であるのに対し、こちらは予めことわってもらわなくとも、画用紙の上に落ちた黒ゴマを拾うように明らかだ。「菓子です」と開き直っているメロンパンの皮にも負けない、塩味としての自覚を本人(本パン?)もきっと持っている。

凹凸あるかたちのパンだから、部位によって熱の入り具合に差があり、食感が異なるのがまたオモシロイ。

「ビヨーン」の細い部分などはしっかりと焼き込まれて外皮が厚くなり、体操選手の着地姿のようにカッチリした歯触りが快感だし、「菱形」の中心寄りは、厚くフックラの弾力を楽しめる。ど真ん中はというと、四方から引っ張られる部分なだけに少々薄いのだが、周囲はフックラと防護されているから、「ビヨーン」された部位と比べて水分も保たれ、薄いにかかわらずしっとりとしている。

私はまた特に、「裏側」が好きだ。窯に張り付き、熱を最も受けてガッチリ焼き固められたという、そのザクぅ…と、登山靴で大地を踏みしめるような音にはゾクゾクと快感線が背を走る。

湯気はこちらの口に乗り移り、空中へと吹き上がる。唇が伸びてゆく。充実いっぱい、花咲く笑顔が自分でもわかる。…うまぁい…。この「時」を逃すまいと、夢中になって頬張る。

 

食べるだけのいい身分、という場違いな存在がある一方で、おやっさんは作業に勤しむ。次の窯入れだ。

成形台には、既に一つ分に計量・分割されたナマコ形の生地がねかせられている。フックリと、旨そうなサツマイモへと肥え、窯入れの時を待っているのだ。

一つを手元に引き寄せ、両掌で上からポンポンと空気を抜くよう広げて平たくしたならば、窯に生地を貼り付ける為の「専用の道具」に載せる。――というのは、イメージとしてはベビーパウダー用パフの巨大版、とでも言おうか。だが円形ではなく横長だから、なんというか、時代劇で「殿」が座る傍らの、腕をよりかける部分(腕置き?)を思い浮かべるようでもあるのだが、ともあれその、パフ的に少々こんもりしている面に生地を載せ、トドメの仕上げとしてはナマコの両端部を「ビヨーン」とほっぺを引っ張るようにつまんで引き伸ばす。同様、それとは直角方向に、もう一つの対角線をつくるよう少しだけ「ビヨーン」させる。この具合が、作り手の個性の出しどころだろう。

そして(パフ面の)裏に付いた、取っ手みたいな部分をとっかかりにして持ち上げ、窯の穴の中へ、おやっさんの片腕ごと差し入れる。

バフンっ!と勢いよく内壁に生地を押し付けたら、パフだけが穴から戻ってくる。そうしてまた成形台の生地ひとつを手に取って「ビヨーン」成形、貼り付けて…というのを、繰り返してゆく。

ひとつやってはまたひとつ。特に、窯入れは腰の運動がかなり激しいこととなろう。底近くの深い位置に貼り付ける、なんてときは、肩までどころか頭もその中にのめり込ませる勢いであり、かつ足元は地面から浮いている。深いんだなぁ…というか、落ちやしないかとヒヤヒヤするし、頭、焼けちゃうじゃないか。オデコ広く、少々ツルッとしているのはこのせいではないか、などとは余計なことだが、背の高いおやっさんでコレならば、小柄なヒトは大変だろう。155センチの私にとっても無理かもしれない…と思えば、おぉ、(私と)同じような背丈の女性たちだけでこなしている店も確かにあるから、これがこの地のパンのスタイルなのであり、体格がどうのは関係ない。作るったら作るのだ。「ソレ」を。

相当に粉にまみれているのだろうが、それを目立たせない、白いズボンと白いポロシャツ、白いエプロン。そして頭に巻いている頭巾も白。それは、おやっさんを具現しているようにも思う。抱えている苦労をやすやすとは表に出さず、何の労働にも帰依しない単なる見学人に対して、気前よくおおらかに応じてくれる白衣の「天使」――とは少々、見た目イカついけど。

                          (最終訪問時2013年)

 

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