主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

遠野の餅② ~胡桃を擦る

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「和風版」である。

すり鉢と、回る「ハネ」をつけかえれば、見覚えある姿になる。洋菓子屋の、シャカシャカと回転して生クリームを泡立てるぼんぼりの骨組み・ホイッパーのついた、あの機械。ミキサーだ。

「ハネ」…というか要は回転してモノをかき混ぜるウデの部分であるが、会議用テーブルの脚の太さのステンレス棒が二本、U字型磁石のようにくっついており、ソレだけ見れば「すりこ木」なんて発想しない。が、その先端には、床の滑り防止用ゴムの如く、カバーが付けられており、それは「木」だ――それが、主張なのだろう。山椒かどうかはわからず、申し訳程度に取って付けたようではあれど、肝心な部分が木であることで、鬼のこん棒型したアレと変わりありませんよ、と。

「すりこ木」がいかにも業務用「機械」であるのに対し、下にはめられている「すり鉢」は、姿かたちは普通・すり鉢そのものであり、その特大サイズはウチにもある。おそらくこの家に「もともとあった」のを、使っているに違いない。――とも思ったけれども、よく見ればその傾斜した側面・左右に、両手鍋のような取っ手が金具でガッチリと取り付けられており、ちゃんと「これ用」に決まったヤツじゃないとはまらないようだ。…ミニから特大まで、どのサイズでも揃えてないことはなさそうな家だから、「買わずとも済むのに…」と、おかあさんはきっと歯噛みする思いだったろう。

ウィンウィンウィン…と、それを稼働させる機械音の方が、すりこ木と、胡桃との摩擦音に勝っている。

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「三時間、擦るの。」

「三…」

今が、ようやく「二時間」という。

胡桃は「1.5キロある」と言った。見た感じ、胡桃は既に味噌のようなペースト状になっている。ピーナッツバターといってもいい。

だがおかあさんは視線を落とし、「これじゃ、まだね」と当然のようにいってのけた。

「舐めてごらん」と言われるがままに、ハネの当たらない部分を指の先っぽにひっつけて舌に載せると、――ほう、甘味無しで舐める「胡桃そのもの」とは、嗅ぎ取ろうと集中しないと結構「無味」なもんなのだな、などとは思う。だが何が「まだ」なのかわからない。

「ちょっと、ざらついているでしょう」

――これで? と、…そう言われれば、ちょっとあるような、ないような。だが、それは重箱をつつくというか、キリがないと言うか。物質である以上、かたちの面影はやっぱり残るんじゃないのだろうか。

とは思ったけど、「うん。」と、一応は返しておいた。

「擦っているのは、胡桃だけなんだけどね。これだけでも、ちょっと甘いでしょう?」

「ウン」。――「無味」と思ったなんて言えず、これも一応頷いておく。

おかあさんはゴムべらを握り、スイッチを押して機械を止めると、糠床をかきまぜるようにぐるっと内側側面にこびりついているのを落とす。そうして、再びスイッチ・オン。

これが、あと一時間経つと…。

 

岩手県遠野市岩手県を縦断する北上山地の盆地にあり、岩手県全体では、南寄りの中心部に位置している。

三月、焦げ色の土をのぞかせた一面の田には、竹箒のような稲の刈り跡が果てしなく列を作り、道端には草が猫の毛のようにそよいでいる。枯れ色の大地の向こうには、霞を帯びた山が黙りこくって聳え、語りかけるのを許さない。その代わりに、渋く煮出したほうじ茶のように濃い色をした大きな大きな「木」が、あらゆるものを代弁するエネルギーを、その幹、その枝、葉の葉脈にまで滾らせていて、正直不気味にも映った。

遠野物語』を書く気にも、そりゃなるわなぁ、…なんて、オマエに書けんのか、ということは星の彼方へおいておくとして、あの中の不思議な民話が、ポッポッと、灯となって枯草の上を飛んでいるようだ。

数年前、とあるきっかけからお餅屋さん夫婦と出会い、以来、遠野にやって来たならばその顔を見ないことはなく、またその餅を食べないことは決してない。さらに広島に戻るという時は、私ってここが自分の里だったっけかというほどに山盛りのお土産をズッシリ、目頭熱くさせるほどにぶら下げて帰るのが常となっていた。

そしてこの度は、ただ「味わう」だけじゃなくて――と、それまでふつふつと静かに湧いていた興味を二人に告げ、「餅づくり」を、見せていただける展開となったのだ。

 

 工房は、通りに面した自宅のその奥に立つ、別棟にある。蔵だったのを改造した感じだが、とはいえそこは家の敷地からいったん出て、両側にご近所さんちがある小道を十メートルぐらい進んだ先という、飛び地のようなところに在った。確かに、自宅とは離した方がいいかもね、人の出入りもあるだろうし――などとなんとなく思うけれども、「店」という感じはまるでない。確かに通り沿いには「餅」と小さな看板が交通標語のように立ってはいるけれども、暖簾もなく、一帯は普通の民家が建ち並ぶのみだから、一見客も「客」に果たしてなり得るだろうか・大方「どこ?」と呟いて通り過ぎてしまうのではないか。

そう、工房は店頭販売を掲げているわけではなく、まさに作業のみの場である。日々「産直コーナー」へ出す分と、予約分をここで作っている。もちろん、ご近所さんは回覧板を持ってくるようなノリで「お餅まだある?」とやってきて、予約に被らなければ売ることが出来るが、たとえ一個二個とはいえども予約した方がよさそうだ。

扉を開き、靴を脱いで一段上がったところは、デスクと椅子が二つ、棚などが置かれた、六畳程の事務所部屋となっており、材料費を計算などするのだろう。ストーブと腰かけ椅子が真ん中に置かれ、一休みするべくスティックシュガーが筒に数本立てられており、片隅のミニ流しには、コーヒーカップが伏せられている。

ここを抜けた奥が、本舞台である。

 十畳、いやもう少しあるだろうか。昼を過ぎた午後三時、眠くなるような柔らかい光が窓に差し込んでいる。

じっとしているだけで息が荒く、自然と口が半開きになる広島からやってきたいつぞやの夏、ハッと我に返るような涼しさだった遠野だが、とはいえ西日に照り付けられてはシンドイだろうか。すりガラスで光は幾分丸みを帯びてはいるけれども、西日に正面向かう流しはもちろんのこと、真ん中にドンと置かれた、畳三枚分はある調理台のステンレスは反射して、電気を点ける必要もない。

 いかにも「業務用」である大きな調理台、餅つき機、胡桃を擦るミキサーなどといった機械を除き、商売用の場というには親近感が湧いてくるようだ。流しの下に取り付けられた白い開き扉とか、引き出しの取っ手の具合がいかにも素っ気ない感じが、「昭和の台所」的と言おうか・昔住んだアパートや祖母の家の台所を想い起こさせて懐かしい。壁に沿って置かれた木目の食器棚はいかにも「お宅」であり、冷蔵庫も大きめではあるが、一応は家庭用スタイルである。「関係者以外立ち入り禁止」と貼り紙した食品加工場などの雰囲気などからはもちろん程遠い、工房というよりは「お宅拝見」の気にさえなる。

とはいえ、ボールや鍋、ヘラなどの器具があっちこっちと置きっぱなしなどという「生活感」はさすがにない。お玉やしゃもじ、ゴムベラやフライ返し、菜箸などは、「気を付け」を言い渡されたように流しの上に整列してぶら下がり、ボールやザル等もサイズ順に網棚に伏せられている。その下に敷かれたタオルの、漂白したてのような白さが目にとまる。いますぐ保健所職員が抜き打ちチェックに来たって、全く狼狽えるべくもない清潔さだ。

その、鎮まれる工房でたったひとり、という風に稼働しているのがミキサー君であり、ご主人様のオーケーサインを夢見てひたすら胡桃を擦り続けている。

『あと一時間ね』

既に経過した「二時間」で、ひとつの作業としては十分に思えるが、トータル「三時間」は必要――豚の角煮を圧力鍋なしでまともに作るような時間であり、CM込みで映画一本見られる。あと一時間か――お茶を飲みに行って帰って来る余裕さえあるのではないか。…ってイエ催促したわけでは全然なくって、ホントに「せっかく遠野にきたんだから」と、三十になったばかりの心優しき孫君に、おかあさん共々近郊にドライブに連れていって貰い、ホクホクして帰って来てもまだ健気に働いていた。お土産のひとつも…という憎まれ口をたたくこともなく。

この特大「すり鉢」に適する太さ・長さの、ホントのすりこ木を想像すれば、足を下ろしているこの二本の棒・一本の太さはその半分ほどもなく、骸骨みたいで見た目には貧弱ではあるのだが、微妙に「斜め」に傾いて回ることで、すり鉢内のどの斜面にもうまくあたっている。しかも二本あるから、見た目に反してホンモノに決して劣らない効率にあるようだ。

ともあれ一時間。正確には少々過ぎて、もうじゅうぶんだろう。

「よかった…、」

実を言うと、冷や冷やしていたらしい。擦り過ぎると油がにじみ出てきて、そうなると「やり過ぎ」なんだと。

…ソレ言ってくれればスグ帰ったのに。――いや、言わないだろうなぁ、おかあさんならば。おそらく「せっかくのドライブだから」などと気を遣うのが先で。だが、三時間もかけてやったものが結局イマイチではイカンのだが。

ドライブだからというわけではなく、機械に元々備わっているであろう「高速スイッチ」に切り替えることがないのは、ウッカリ「機を逃し」油がでてきてしまう事態を防ぐ為でもあるのだろうか。機械化といえば「時間短縮」とセットのように思えるが、三時間というまさに「手仕事」的な時間を、機械にもそのまま当てはめているのである。

擦らないとだめ。やり過ぎでもダメ。――だが、漏れた溜息は安心の表れ。特に油が出ていることもなさそうだ。

色が変わったわけでも無く、一時間前と今とでは、私には見た目に変化が無いように思えた。スイッチを切って動作音が止み、促されて小指で少々を掬いとった瞬間、私って手を洗ったっけか、とよぎったが遅い。口に含んでみると、――「ほら、ね」と、おかあさんの静かな目線にプレッシャーを感じ、一応は頷く。

…まぁ、うん。舌に感じるものが確かに「なくなった」ような気が、するような、しないような…。

そもそも「二時間」の時点で、既に結構なペーストだと思っていたから、「うん、全然違う」なんてきっぱり答えるにはワザとらしいのでは、というぐらいの差だ。更に一時間擦ることで、それはもうトンデモナイ状態が待ち受けているんじゃないかという、目を見開くほどの驚きを期待していたのだが、ちょっと肩透かしをくらったかな、というのがホントのところなのである。

だがそれは私の凡な舌だからであり、日々ソレと向き合っている人には明らかなのだろう。「高速スイッチ」にしても、それをしてしまえば胡桃が必要以上に熱を持ち(摩擦熱によって)、変質してしまう…なんていう微妙な指摘も、おかあさんの口からは出てくるのかもしれない。

――昔はタイヘンだったろう。

なんせ胡桃・1.5キロもある。このゴツゴツを滑らかになるまで擦るなんてのは、相当根気がいる仕事だ。

「そう。そら、タイヘンだったんだぁ。昔はツブツブがどうしたって残ったけど、今はキレーイに出来るもんな。」

すり鉢をミキサーから外し、よっこらせと持ち上げるのを、あぁ、そのくらい手伝うよ…と役に立たない手を添えた。これ、重いのだ。だがひとりでやるのは「いつもの仕事」なのであり、内心「年寄り扱いしないでほしいなぁ、」と言いたいのかもしれないと、即こっぱずかしくなった。ちなみにおとうさんはというと、いまはテレビの前で炬燵の番をしているはず。ここで出番はまだない、か。

ともあれ、――そう、やはり機械なのだ。いくら根性座らせたとしても、人の手ではやっぱり、このように完全ツルツルペーストとするのは難しいだろう。その労力をスイッチひとつで肩代わりしてくれる、機械は御の字もいいところであり、やはり「革命」。「はぁ」と腕のだるさに息ついたり、トイレに行く必要も、腕の筋肉痛などに心配することもなく、一定の偏りない力加減でまんべんなく効率よく擦り続けてくれる。機械だからこそ、どれだけ大量になろうとも「じゃあやるか」とあっさり腰を上げよう気にもなれるのだ。

それにしてもふと思うんだけれども、「昔」ことを考えるならば、さっきの「二時間」の状態でも上の上出来だったろうに。

とすれば、そのこだわり・ミクロをいうような滑らかさとは、機械が入った「いま」だからこそのものであり、それがおかあさんにとって「現代」を生きるということだろうか。言うならば、昔ながらでありつつも、モダンな要素を取り入れた郷土の味――なんて、広告みたいだが。

 

すり鉢を調理台へ、よっこらせと載せたなら、中の擦り上がった胡桃をゴムベラでを数回、よし、よし、と、確認するように回し混ぜ、見つめる。視線を落としているその伏せた瞼は、おかあさん、と呼ぶよりも「職人」だ。

調理台の下から、どこの家庭にでもありそうな大きさの、アルミ製ボールを取り出したら、その中に胡桃ペーストをゴムベラで移す。

「これが、シロップ。」

と、鍋を調理台の隅から持ってきて、見せてくれた。まるで鼈甲飴だ。綺麗だねぇと言いながら、私もお玉の柄を手にしてみると、そのトロッとした重みが伝わってくる。シロップ――いかにも甘いよ、と言っているような色だが、醤油を思わせなくもない濃さはナゼ?というと、ザラメ糖によるという。

「この中に、シロップを混ぜてゆくの。一杯ずつね」

と、表面をゆらり揺らしながら液体をすくいあげ、表面張力でお玉いっぱいにへばりついているのを零さないよう緊張するも、シロップは飛び散ることもなくトロン…と、ボールの中へと滑り込んた。おかあさんはゴムヘラで、最初は慎重に、ペーストを畳み込むようにしてシロップと混ぜ、そして馴染ませてゆく。もう一杯、またもう一杯…と、更に混ぜてゆく。

「これは、温かい?」と、鍋肌を触ってみれば全くもってその逆。完全に冷めきったシロップである。

「冷ましておかないと、ダメなの。じゃないと、胡桃に火が通っちゃうからね」

――ほぅ。

やっぱり、「摩擦熱」も気にしないわけなかろう。すり鉢を使い、手作業のような速度でこなすのは、「手作り感」を損なわないように、とかいう宣伝の為でもモチロンなく、ちゃんとそうすべき「意味」がある。

 

「うん」と言ってお玉を鍋の中に置いた。

「これでいいよ。食べてごらん」

その具合とは、ヘラで持ち上げるとカスタードクリーム…よりももう少し固いか。ジェラートと言った方が、まだ似ているかもしれない。

――新発見、というべきだろう。…って、おかあさんの作る胡桃餅を食べたのは初めてではないのだが、改めて、胡桃というものの味について知らされた気がする。この優しさ――不思議だったのだ。

胡桃は大好きだ。が、「好き」で知っていたのは、パンやケーキの中にポツポツ、豆ごはん的に混ざった胡桃である。耳たぶのような曲線が、カリッとサクッと砕けるのが心地よい、香ばしさが身上であってこその胡桃――だと思っていた。

が、それは胡桃のほんの一面だったと気付かされる。そもそも、シロップの熱で「火が通る」と懸念するぐらいなのである。(絶対、摩擦熱も。)おかあさんの求める味に、「香ばしさ」などは眼中にない…どころか「余計」とさえ思えるもの。まぁ出荷の段階で、カビ防止の為に既に「乾燥」はされているから、「生まれたての自然な状態」というとちょっと違うのだが、過度なアピールはこの今は耳煩く、胡桃自身の持ち味をかき消してしまうとさえ言っていい。(「ナマ」も売ってはいるが、早々に食いきるべし)

いま浸りたいのは、このミルキーな滋味。アルコール微かに香る、真綿のような柔らかさであり、神経の中へと染み渡るような細やかさなのだ。

…オイちょっと待て、それだけ舐めて「無味」って言わなかったか、というと確かエエそうでしたね、シロップという「甘さ」を加えてこそ漏れ出た、味わいの言葉である。素っ裸の「胡桃」そのものに対して湧いたこととは言い難い。…んだけれども、脳天を突く甘いシロップを抱擁するのが「胡桃」だからこそ、「柔らかい」とか「優しい」とかいう言葉が出てくるのだ――なんて言い訳にいまは徹するしかない。経験を積めば、素「胡桃」で舐めても、「うん」と勢いよくコックリ頷く日がきっとくる…だろうか。

それにしてもシロップにより、さらに滑らかさは増したようで、その艶めかしさにウットリとしてしまう。

やっぱり、こうなるのを目指して頑張ったのかもいれない、という気がした。――機械のない、「手擦り」時代であっても。

ツブツブした食感をワザと残す、という手もある。

スープを作る、或いはジュース、ジャム、スイートポテトをするにしても、題目となる素材(スイートポテトならサツマイモ)を完璧なピューレ状にしてしまうよりは多少ツブツブに残した方が、存在感があっていい、という意見もあるもんだ。

が、ツブツブは確かに「メンドクサイ」の裏返しといえなくもない。例えばコーンスープの場合、ちゃんとすり潰して、さらにザルで越すなどしたものと、それを省略したものとでは、食べた印象にモロに差が出る。「めんどくさかっのだな」というのが丸バレとなり、「顎を動かさないとダメ。食物繊維も実感しながら」などというのは単なる言い訳にしか響かない。…というのは言い過ぎだとしても、「漬物が(或いは味噌が)上手く漬けられるようになって、ヨメとして一人前」等という言い方がされた時代があったように、胡桃もまた、そのバロメーターの位置にあったのではないか。そのこれが滑らかになるまで擦ることができてこそ「良いヨメ」的な――ヤだな、と自分が当事者だとすればゲンナリしなくもない。というのはまぁおいておいて、つまりツブツブを察知されることは、「サボりました」と告白するようなもんである、と。

つまり滑らかさとは、作り手が「誇る」まさにポイント。おかあさんは「こうじゃないといけない」と、擦り上がった胡桃を見て頷き、繰り返す。「存在感が出て良い」というツブツブ志向名目の言い訳は、「胡桃ダレ」に関してはシャットアウト・全くつけ入る余地などないのである。(いえ、ホントに好きならいいんだけれども)。

 

「うん。」と、答えた。甘いし、素直にオイシイ。といっても指ちょこっとでこの味は、強い。正直、食べ続けるに甘過ぎるだろうが、これは原液であり、水で溶きのばして食べるもんだという。確かに売っている「胡桃餅」に絡んだタレは、これよりももっとシャバシャバとゆるく、流れるようだった。

「食べる前に、水で良い具合に薄めるんだよ。今やると、腐ってダメになっちゃうからね」

今してやれないことを申し訳ないという風に、コップ型のフタ付きプラ容器に、空気が入らないよう埋め込んでいった。

 そういう、タレである。

 

                               (訪問時2015年)

 

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