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主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

遠野の餅① ~胡桃ダレをつけて

 

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しゃぶしゃぶのゴマダレ。或いは田舎味噌――とも、ちょっと違う。コルクをもう少し深く、暗くした色だ。

「ソレ」に、水をスプーンで一杯ずつ、恐る恐ると加えてゆく。もう少し、もう少し…?「売り」に出していたのは、こういう色じゃなかったはずだ。まだ、もうちょっと…。

首を傾げたり、鼻の下辺りにソレの入った小皿をを持ってきてしげしげ繁々と眺めたりしながら、水を垂らしては掻き混ぜることを繰り返す。既定の分量を守ればそれなりに旨いハズなのに、「たっぷり飲みたい」欲が騒いで多めに湯を注いでは「まずい」と後悔する、粉末コーンスープや調整コーヒー、ココアのようなハメに陥ってはならない。いくら学習しない自分とはいえ、こればかりは絶対に、だ。百円やそこらで買い足せるわけでもなく、失敗は許されない。許さない。

 だからといって、「濃いめに」止めておく、というのもまたダメである。「美味しい」というよりも先に、クドさが際立つだけになってしまう。

『ちゃんとね。味を見ながら、水を足していくのよ。』

念を押す、おかあさんの目を思い出した。ホントなら自分でやりたい、と思っていたに違いない、不安気な眼差しだった。言われたときは、カンタンカンタン、「単に水を足すだけ」だし、とそれほど気に留めてもいなかったが、実際やるとなると、このときとはまさに、その印象が天か、はたまた地かと決まる分岐点なのである。自業自得的コーンスープの過ちなんかが頭をよぎり、「単に」なんて軽く流せる行為ではなかったと緊張する。

量を求めてはならない。ただひたすらに「あるべし状態」を思い描き、そこに近づけるよう精神を統一させよ。

 プラスチックの容器から、カレースプーン約三杯分を小皿に取り分けた「モト」は、カスタードクリームよりも固い。膜を張ったような光沢ある表面に、水を加えて混ぜると糊のような粘りが糸を解くように緩まり、色が明るさを増していった。まるで、何かを足しているかのような変化だ。…って確かに水を足しているんだけれども、水=「薄めている」という言い方はそぐわない。モトをマイナスにしてゆく感がなく、その朗らかな色は、何か新たに生み出されたかのように思える。

と、油断したか。スプーン何杯目かに、ワッと水滴が勢いよく垂れ落ち、絵の具を垂らしたような「白」が、表面のそのスポットにシミを現した。

――ヤバイ

入れ過ぎた、と思っているのに、手はリズムのままにスプーンに載る一杯すべてを滴らせ、掬い取ればいいのについグルグルと、それをかき消すべく混ぜてしまった。「入った」んだから無かったことには決してならず、全体的にえらく優しい、えらくミルキーなベージュへと変化して、隠滅どころかその証拠をつきつける。

これこそ「薄まった」のかもしれない――とは思ったのは束の間、すっかり混ざり、その状態の色として安定してみると、瞬間、頭が岩手に戻ったような気がした。

バシッとはまったのだ。

これだ。「この色」。

舐めてみる。と、フワッと、アルコールのように鼻に抜ける香りに、思わず天を見た。掴みようのないほど僅かだが、何か妖艶なものの印象を確かに残し、消えてゆく。

そう、この味だ。

容器にある原液を味見した時は、強情な甘さがまず先に立っていたが、随分と丸くなっている。そのまろやかさ・優しさは、ミルクを思わせるかのよう。――…って、十分に擦った胡桃とシロップのみ。加えたものは水だけのハズ。なのに、不思議だ。やはり水もまた、こうなる「味付け」のうち、ということだろうか。

「胡桃ダレ」の方は、これでよし。

あとは餅が焼けるのを待つだけだ。A4サイズはある、瓦のような巨大な「のし餅」を、こちらが電話で指示していておいた通り、厚め・1.5cmは下らないよう父は切り分けてくれていた。石鹸とまではいかない、切り餅一個分としての丁度いい大きさになっており、帰ってきた娘の機嫌を損ねないようにと注意を払う、その姿がモロに伝わる。

二つ、食べよう。トースターに入れて暫く待つこと、四分か五分か…、と、思ったよりも早くその頬は膨らみ、風船となった。箸で慌ててつまみ取り、タレの沈んだ深皿へ、プシュッ、くしゃっ、と押し潰すと、固い表面の割れ目から覗く、生まれたてのような柔らかい部分をとっかかりに、優しいベージュ色は表面全体に絡みついてゆく。餅二つ分には少なかったろうかと思ったが、おいてけぼりに底に溜まっているのはカレースプーン一杯分程度。見た感じとしては、丁度良さそう。

さて。

下に垂れゆくのを絡め直すよう、皿になすりつけながら――と、箸で餅を挟んでいるこの時点から既に、その柔らさ、いや、「滑らかさ」に気を取られる。そして既に、それはいつもの餅――ウチで、「餅つき機」を使い搗く餅とは違うと気付いていた。

その光沢だ。例えるならば、湯船からお姉さんがスッと出した腕の、ツルツルしたそのお肌。

見惚れるのもそこそこに、口へと持ってゆくと、米を蒸し上げた時の、あの香り、あの甘さ。――湯けむりのような記憶が鼻から耳を通り抜けて、ぬふふ、とこの口元を引っ張った。

溶ける――ことはなく、溶けそうでいて、そうはいかない。滑らかではあるが、儚いというわけではない。繊細なままには終われない、という、餅たるものとしてのしぶとさがちゃんと芯にある。

そしてもちろん、この胡桃ダレ――米の甘さに追随する、ミルキーな甘味がなんともいい。

上出来の水加減だったといえるだろう、この濃さ。餅を打ち消してしまうほど強くもなく、また弱過ぎて、餅が行き先を求めて彷徨ってしまうような曖昧もない。猫がその上で寝息を立てて熟睡する、肌触りのよいクッションのような存在として。餅を生かし、それを包み込むようにある。

餅は、麻雀台の牌ほどにある。それを顎でグイッと引きのばし、大げさに「ビヨーン」とさせながら口にする快感に浸りながら、当分のシアワセに「ぐふ、」と、鼻の穴から空気が噴き出した。

 

「餅を持って帰りなさい。」

岩手県の遠野にいた。滞在先は、そこを訪れれば必ず顔を合わせるお餅屋さん夫婦宅。だがここを離れてから、旅はまだ続く予定だったから、そう言われても…と、肩に食い込むリュックを思い浮かべてひるんだものの、「送りなさい」と、あっさり言われてしまった。

そう、送るしかない。発泡スチロールに載った餅は、ジッと見ているとこちらの顔面まで伸びてくるような、のっぺりしたプレート状が、一升分――以上。これを持ち歩いての旅など、とても不可能。プラス、日本酒小カップ程度のプラ容器に、それひとつでも「お徳用ジャム」ひと瓶にも劣らない、ズッシリとした胡桃ダレの原液を詰めたものが、二つ。おかあさんが水を加えるのを堪えたのも、日持ちを考えてのことである。

さらにオマケの「寒干し大根」。おとうさんが持ち出した、カランカランと軽そうなそれは、最初へちま(乾燥)かと思ったが、「オレの友達が干したモンだよ。煮て食べな。」。切り干し大根なら包装されたものをスーパーでよく見るしよく食べるが、切らずにまるまる干した「一本」なんて、初めて見た。

「水で戻してね。一回の煮物に、一本使うんだよ。」

「戻したら、ちゃんと水をギューッと絞ってからだよ」

それらを、空き箱へ。dvdレコーダーより一回り小さい、ちょうど餅とタレ(プラ容器)で、縦横の幅がピッタリとくるダンボールは、筆文字スタイルで「かの子豆」という商品名がオモテに印字されていた。これは売り場に出す「おこわ」に使う豆の空き箱で、餅を送るといえばの「定番」であるらしく、問屋に取り置きしてもらっているらしい。

餅の曲線、プラ容器の曲線の隙間に寒干し大根を詰めると、ちょっとアノ、それは…と蓋を閉じられないこと案の定、なんだけれども、おとうさんは問答無用と力づくで黙り込ませた。おそらくこんなふうにして、東京に住まう子供家族のもとにも、「我が家」の証を送っているのだろう。

送り代まで出してもらう気はない。…けれども、こんなにズッシリ、結構送料ってかかるんじゃないかと内心ドキドキしていたのだが、それとなく話を持っていって訊いてみると、送り代は重さではなく「サイズ」であるという。――なんだ。

ホッとしてから改めて、というわけじゃあイエイエ全然、露ほどもありませんが、パンパンに詰まったのを前に、心置きなく「孫」気分でウルっとしたのである。

広島の我が家へと届いた、遠野からの贈り物。まさにそれらは、かの地における日記帳のようなものである。