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主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

泡世界への扉 ~チェンナイ

インド

 

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「軽いから土産にいい」

とは、よく言われる紅茶だが、インドやマレーシア、トルコ、イラン、ビルマ…あとどこで買い込んだろうか、一度たりとも「軽い」などと思ったことはない。「閉じる」ことなんて忘れたような、バックパックのチャックは、エイエイと強引にやっつけねばとてもその呻きを鎮めることはできない。まぁ、他にスパイスだなんだと買いこんでいるからなんだけど、嵩張る大半がソッチであり、どんなに軽くったって量ありゃ重いのだという単純な事実が肩に食いこむ。仕方がない。

インドから帰って、さんざん飲んだ。飲まなきゃ賞味期限が過ぎてしまう。重い思いをして担いで帰った紅茶であるから、オイシイうちに飲まねばならない。チャイ屋に通い、その作り手の傍らに立って覚えたやり方を真似、これが「インドのチャイだ」と家族や友人に披露した。

だが、なにか違っていた。

茶葉の量、そしてミルクと水とのバランスもあるだろう。そして何より「甘さ」が足りなかった。見ていたまんま――とやるにはやはり、体重問題が私の中には頑としてある。さらなるデブの道へと滑りゆくのを恐れ、明らかに砂糖をケチっていたのだ。

啜ると、深く記憶の底に沈んでいたものが、息を吹き返したように浮上してくる。――インドを離れて以来、途切れていたものが、いま、ようやく蘇った気がした。

南インド・チェンナイにいる。

南インドとは、インド亜大陸においてデカン高原、西ガーツ山脈、東ガーツ山脈を含む南方地域であり、タミル・ナードゥ州、アーンドラ・プラデシュ州、テランガーナ州、ゴア州、カルナータカ州、ケララ州、ラクシャドヴィーパ連合区、パーンディッチェーリ連合区、アンダマン・ニコバル諸島連合区を含む。(wikipediaより)。チェンナイは、その逆三角形の先端部分東側にある、タミル・ナードゥ州の州都だ。

前回のインドの旅は、首都ニューデリーからベンガル湾に近いコルカタを結ぶ一帯と、ネパール国境近いダージリンという北部であり、何年振りかのインドではあるが、南は初めてである。その初っ端の町。

 チャイ屋は、宿から歩いて五分。

飛行機を乗り継ぎこの大地に降り立って、道端に溜まるゴミと汚れた壁、漂う下水のような臭いにひるみながら宿を目指す途中、道を尋ねたのがここだった。

 

 

「あぁ、その通りはここだよココ。この地図にあるのは『旧名』だね。」

すぐ近いようだ。方向は合っていたのだと安心すると同時に、目に映った、鍋になみなみある白い液体に魅入ってしまった。蛍光灯に照らされた「白」は闇の中で輝きを放ち、森の中でこんこんと水を湛える泉のようで、神秘的だ。

通りからは階段を五、六段渡してある、少々小高くなった屋内は、壁、そして窓やドアで外(の通り)と遮断されておらず、垂れ下る蛍光灯に湯気がまとわりつきながら踊り上がっているのが、暗い中、遠くからでもよく目立っていた。

そう、既に日は暮れていた。暑苦しさというより冷や汗なのか、荷物を背負い、地図を片手にどことも知れない道をウロつくなかで、何かを温めているという白いモワモワには何かホッとするものがある。

鍋の前にはチョボひげをした小柄なおじさんが立ち、その表面をじっと見つめていた。訊いてみようか、とガチガチに張っていた警戒網を少々緩ませ、明るい店内へ進む段へと体を向けると、予想通りオジサンの視線を拾う。そして、「サア座れ」――あたかもここに来るのを知っていたかのように、すんなりと丸いイスを指し示すのだ。

中の方にいた二人のうちの一人・チョボ髭オジサン同様、五十か六十かのオジサンの手には、――コーヒーカップだ。デミタスカップよりはやや大きいが、小ぶりで取っ手がついている。中にはベージュ色の液体が揺れていて、やはりここは「チャイ屋」である。

飲みたいな…。

導かれるがまま腰を下ろしそうになるのだが、まずは宿に行かねばならん。

あたかもここの主人であるかのような勢いで、率先してシャリシャリ滞りない英語を使うのは、カップを片手にした人であり、客だろう。鍋の前に立つ、店の担い手と思われるチョボ髭おじさんと、あともう一人中にいた男性は、何か言いたげに目をウロウロさせているものの、口は出さない。

どうもお邪魔しました。礼を言うと、三人はそれぞれバイバイと手を小さく振り、見送ってくれた。

 

疲れに丸め込まれて眠り込んだものの、六時にもならないうちに目が覚めた、翌朝。

チャイ屋を訪れてみると、昨日のチョボ髭オジサンが、やはり鍋の前にいた。片手に持った容器で、中の白い液体を額の高さまですくい上げては、ジャァァっと注ぎ落としている。こちらに気が付くと、当然アメリカン的な大げさな歓迎ぶりはなく、頷きで「来たんだね」と反応し、中に進むよう促した。顔の感じがなんとなくチャップリン――と、あら。昨日の、静かなもう一人のオジサンもいる。

幅四メートル程度の入り口・向かって左には鍋の載ったガス台があり、右の壁にくっつけてある台にはクッキーを入れた瓶が幾つか載っている。その間をすり抜けた八畳ほどのスペースには、将棋ぐらいできそうな小さな机が二つと、センセイを前に患者さんが座るような丸イスが五、六個まばらに置かれていた。昨日の英語おじさんのように、そのうちの一つを選んで腰を下ろす。朝っぱらのまだ薄暗い中だから、前を通る車も殆どなく、背景にもみじが散るような静けさだ。

対して大柄のもう一人も、クッキーの瓶をきれに並べ直すなどしているからどうやら店の人間のようで、同じくニョッと、髭を左右対称に生やしている。なんとなく袴が似合いそうで、ええとあれは誰だったっけ、と連想するのは、昔の五千円札・夏目漱石――。

 

牛乳パックが幾つ分だろうか。そしてこれがチャイ何杯分になるのだろうか。豪勢な、見ただけで太っ腹だなぁ感を覚えずにはいられない。

ゆらゆら湯気を昇らせるミルクは、四人家族のカレー用(お代わり込み)程度の寸胴鍋に、縁・二センチ下までに湛えていた。この鍋には取っ手がなく、電気炊飯器の釜を直接火にかけているような感じなのだが、インドではこれが定型。外国のインドコミュニティにある料理屋でも目にする、「あぁインド」と実感するアイテムの一つだ。ちなみに蓋にも取っ手がなく、開けにくかろうなぁとは思うんだけど。

ともあれ蓋のないその中身は、早朝だからかそれほど減った様子はなく、私は一番乗りに近い方なのかもしれない。

チャップリンおじさんは、計量カップのようなアルミ容器を片手に、ミルクをジャアッ・ドボボ…とすくっては落とし、手持ち無沙汰ですと言うかのように何度も何度も繰り返す。日本にいる限りでは、ミルクにこんな音をさせることはあるまい。表面に小さなあぶくが溜まり、それを見るだけでなぜだろう、「ワぁっ」と心が弾んでしまう。

 二口あるコンロのもう一方にはやかんが載り、そのフタはどこかに失くしたのか、「ジャージャー」とは別のアルミカップがスッポリと丁度はまっている。中には茶漉しが引っ掛かけられていた。

 チャイを淹れる。

旅館で見かけるビールグラスよりは、ほんの少し大きい中に、スプーン山盛り二杯の砂糖が、それが入ったプラ容器からピッと宙を飛ぶよううまく投げ込まれた。「砂糖を入れる」・ただそれだけのことであるが、的を外さないその動きは「チャイを淹れる」ことが長年の専門職であることを物語るようだ。「甘さ控えめにして」と口を出すスキもなく、ここは潔く、お手前頂戴したい。

やかんを浮かせ、注ぎ口に茶漉しを添えながらグラスに傾ける。ナルホド、茶漉しの行き場(フタ代わりのカップの中)がやかんと一体化している方が、「どこ置いたっけッ?」とならなくていい。

注いだのはチョロッとだ。中で茶葉ごと煮えていた茶は、透明な赤というよりは、濁りのある煉瓦色。

さらに、寸胴鍋のミルクをアルミカップですくい、グラスを満たすまでに注ぐ。その比率に「どっち」が主役?と悩むのもつかの間、ほんのりと淡いオレンジ色に染まったグラスを額の高さまで持ち上げたら、もう一方の手にアルミカップを、こちらは腰当たりの位置に持ち、そこへ向かってジョジョジョ…っと注ぎ落とす。――出た。

そして右手から左手、左手から右手へと、「注ぎ落し」を交互に三回程繰り返す。インドの紀行文などを読んでいればたいてい登場する、「スゴーイ」と声を出したくなる場面である。

流れ落ちるというよりも、液体が細い一本の紐のようになり、それが空中に放られているかのよう。ハリのあるその動きに、ヨーヨーを操る糸を連想する。

 そうして、最終的に供する「コップ」へと中身を移し、「どうぞ」――ということで、モコモコと表面の泡立ったチャイが、出来上がった。

カップではない。「コップ」――なんだ、紙コップか、と、泡立ちに感動する分、容器の情緒のなさにガッカリもするが、これは訪問二回目になれば、他の客が手にしているのと同様に陶器の「コーヒーカップ」となり、三回目に訪れたときは、受け皿付きへと出世した。ちなみに受け皿付きで供されている客は殆どなく、これは「よそモン」への特別サービスか。

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「旨いわ」――いや、「甘い」が先か。いったいどちらが先に心を突いたのだろう。

柔らかい綿毛の塊が、瞬間、ホワンと生まれた。と、それから一歩僅かに遅れて、清清しい微風のようなものが、口の中、心の中に、スゥッと吹き込んでは消えてゆく。

…スパイスだろうか。なんらかの個性が、うまい具合に紅茶に絡み付いているのだ。

時間の針の動きは、どの世界においても平等。ここと日本も例外ない。だがそれを口にしたとき、以前インドを去ってからまるで時が止まっていたかのような、自分の中で「断絶していた」ものがあったと確かに思った。脳天に染み渡り、腰砕けになるようなこの優しさ――なんて、日本で「チャイ」と称して飲むものに、感じたためしなど一度もない。「似て非なる」、いや、「似て」などというのもおこがましい。…ってまぁ、「チャイ」を試したのも称したのもワタシであり、つまりワルイのは自分である。再現したいならば、勝手に控えたりなんてダメであり、二の腕を気にするなんてもってのほか。が、だからといって、材料を寸分違わず真似たならば、変わらず「旨い」と感じるかというと、それもまた違うであろうと予想できなくもないけれど。他の各国料理についてもいえることだが、気候などの環境が異なれば、それは現地で口にするものとはやはり「何か違う」となるのだ。

 話を戻そう。――なんてったって「泡」がいい。

これによって、液体が、ただ液体であることに止まらない、なにか「特別」なものであるように思えてくる。ただ泡立っているだけなのに、それが嬉しい。

チャイを淹れる動作から明らかなように、泡が立つのは、ミルクと紅茶の混ざった液を頭の上からジョボジョボさせるから。グラスと、腰位置のアルミカップとの距離は、最長一メートル強はあり、コップという小さな口の中へとうまく落とすのは、かなりの「ワザ」――練習しないと出来ない芸のように思われるけれども、いきなり高い位置からピンポイントに注ぎ落としているのではなく、最初は近い位置で垂らしているのを、徐々に腕を広げてその距離を伸ばしているのだ。となるとそれほど難しくもなさそうだ、なんて思っても、しかし「ジョッ」という音のキレというか、液体が空中に描く線の動きが、やはりああはいかない。まるで竜が、あなぐらの中に移動するかのような躍動感があるのだ。一瞬現れるその先端・つまり注ぎ始めと注ぎ終わりを目に留めようとジッと凝らすのが、なんとなく楽しい。

ポイントは「泡」か――チャップおじさんは、「前段階」から念を入れていた。チャイに合わせるミルクを鍋からすくうという時、なるべくその表面に立った泡が入るようにしていたのである。そうしてさらにジャボジャボして「アワアワ」とさせてゆくのだ。鍋のミルクをすくって落として…の繰り返しは、単なる手持ち無沙汰かと思っていたが、どうやら「やるべきこと」だったようだ。

もしかするとここでは、泡とは「ご馳走」なのだろうか。ミルクを加熱したときに表面に張る「膜」を、タイの目玉(の周りのゼラチン質!)的に取り分けてくれた、ビルマでの旅を思い出しもするが、そのように。

それが、「南インド」ということ?

…なんて、南に入った初っ端がココだから、目新しいものすべて「南だから?」と先走ってしまうのだが、つまりはこのチャイの「泡立て」動作、北インドの旅で見た覚えがないのである。

実際、コレを皮切りに、泡立ちチャイ世界が始まったのだが、それはまた追々ということで。

ともあれ。

後ろでズズッと啜りながら、れっきとしたチャイに再び出会えたことの、感動。旨いです、と伝えたいけれど、オジサン二人はこちらにケツを向けて・つまり道路に向かうように仕事をしているから、声をかけねば振り向いてもらえない。

どうせ「美味しい」と言うならば、会話本を見ながら現地語・タミル語で言いたいもんだが、まだやって来たばっかりで発音はどんなもんかと自信がないし、それを言う為に振り向いてもらうなどあまりに大げさ。いかにも「現地との交流」を欲しているかのようで、わざとらしくも恥ずかしい。

オレンジがかった空に立ち昇る、煙のような白い湯気。それをバックに動く背中を見ていると、一日を始める儀式のような、神聖な行為にあると思えてくるものの、これはオジサン達にとって当たり前の日常であるだろう。

仕方がないからその背中を「オイシイです」と眼力の限りに凝視して訴える。――と、突然振り向かれて目が合い、とっさに頷いたり、何事もなかったかのようにあさってを向いたりして、言葉が出せないことを誤魔化す。

…先輩を物陰から見つめる乙女的な挙動だと、自分でも思う。

 

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