主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

魔女のパン ~シェキ

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 アゼルバイジャン北西部の町・シェキ。ロシアと国境を接する、コーカサス山脈のふもとにある町だ。

夜十一時に首都バクーを発った夜行バスが、そのバスターミナルに到着したのは朝六時頃。ベトナムの市場ならば、既に脂ののった活動時間である。が、この世界はまだ薄暗いままに、シンとしていた。

町の中心部へと移動するマルシュルートカ(乗り合いワゴン)が動きだす時間まで座っていようと、ターミナルのベンチでじっとしていた。…と、妙に空気がヒンヤリする。どころか「寒い」。もう五月だというのに。

カフカス山脈のふもとの町、というのは分かっていたものの、まさか「もう使うまい」とリュックの底に丸め込んでいたマフラーを取り出すとは思わなかった。バクーではあたふたと地下鉄に乗り、銀行の場所に迷い、他国のビザを得ようと大使館に通いつめていた日々だったから、「自然」に対する想像力にイマイチ欠けている自分に気付き、改めて地図を広げてみる。

 掃除係のオジサンが、ベンチで震えているこちらに気付いて奥の待合室を教えてくれた。風が凌げるところで一時間弱うたた寝した後――はちょっと省略するけど紆余曲折あって、やっとの思いで民宿を探し当てたんだけれども、…ソコは、まさに「楽園」。

 窓にかかるレースのカーテンがヒラヒラと風に揺れ、日の光を受けて緑に染まる庭を淡くぼかしているのが、なんとも優雅だ。外を覗いてみれば、明かりのようにポツポツと咲いているのは、ピンクと黄色のグラデーションのバラ。真っ白いシーツに包まれたベッドのフカフカ度はこれまでになく、サイドテーブルには、これまた白いレースのクロスがかかり、ガラスの花瓶に挿してある赤いバラが、物言わず佇んでいる。

 ――私ってお姫様だったのか。ほっぺた摘まれるというか、映画のセットのようなシチュエーションに、いったい何をしたご褒美か、と、涙が出そうになった。

 

 美しい田舎町だ。特に夜の帳が開け、緑が光と出合う中を纏って歩くのは、何か上演されたものを見るようでもある。

 遠くで居座り世界を見守る山々の、子供たち――道の両脇に立つ、大なり小なりの木々がそれぞれに伸ばし、広げている掌は、自身一杯の緑を透き通るほどに鮮明に放ち、受け止めきれない陽の光をキラキラとその隙間から零してゆく。あっちの高いのはポプラだろうか、などと、植物の種類なんてトンと無知なんだけど、なんとなくイメージされる木の名前を呟きなどしながら緑の垂れ幕に沿って進めば、石の段を踏みながら流れ落ちてゆく小川が現れる。そういえば耳に届いていたのは、そのせせらぎ。煌めく飛沫に目は奪われ、ウットリ吸い込まれて一緒に流されてしまいそうだ。

 冷えた空気に少々狭めていたこちらの肩も、光を浴びるうちに開いてきたようだ。鳥たちが哂う中、澄んだ青い空を両手いっぱい掴むように、深い深いところから息を吸う。ここでハンモックにでも揺られたなら、横で天使が羽ばたいていてもおかしくない。

心身共に浄化されまくり頬を緩ませながら、気まぐれに角を曲がり、さらに歩き続けた。もうすぐ七時。まだ起きる時間じゃないというのか、人通りは殆どない。

 ――と。

 遠くに、おそらく「おばあさん」と思われる、頭巾を被った女性がひとり、ポツンと立っているのが目に入った。ダンボールを路肩に置いた、その傍でジッと立っている

 もしかして、とピンと来た。

待ち合わせの車が通りかかるのを待っているか。それとも、あの中にはもしや――

距離が縮まり、そちら側へと寄り気味に歩くと、やはり頭巾の下は白髪で、その顔立ちもはっきりしてくる。

彫り深く、厚い二重の瞼と、その目元から細かく散るようにある皺。ちょっとだけつりあがった眉に、イカリ型の高い鼻。

「魔女」を連想した。ギラリと睨まれそうで、話かけるのはちょっと緊張するんだけれども、「それは?」と、ダンボールに入った頭陀袋に興味を示してみると、肩から羽織っている柔らかそうなカーデガンのように、ふわぁ、と、表情の紐が緩んだ。

――やっぱり。

見せてくれたその明るい茶色肌は、「パン」。それが頭陀袋に入って、ダンボールに収まっていた。

 と、「買う」とも言ってもないうちからこの魔女ばあちゃんは、これがいいよ、コッチの方がいいかな、と、袋をさらに大きく開き、手を突っ込んでゴソゴソと幾つか引き出して勝手に品定めしてくれるのだ。

 こうなると「見てるだけデス」なんて言えない、…というわけではなく(いやそれもあるが)、厚めの頭陀袋であるのがナルホドと納得できるように、袋を開けた瞬間、その縛り口から温かい空気と匂いがモワモワと揺らめいた。焼けて間もない――となれば、困惑は魅惑へと一気に反転する。朝飯用としてうってつけの、ジャストミートではないか。

 良い景色に誘われるがままにさ迷い歩く、はその通りなんだけれども、人は霞を食っては生きられない。腹を空かしたままでは一日が始まらない。早朝の散歩が日課であるのは、「焼き立てのパンをゲットする」のが我が旅の鉄則である――「パン食い地域」では。もちろん、「ご飯地域」ではご飯であり、トウモロコシだったならばトウモロコシだろう。

円盤型だ。表面のところどころには焦げ色の強い斑点があるものの、全体的に狐色が不足なく回っていて、表面に切り込まれた深い三本線だけが、その奥から白く模様を付けている。

 ともあれ、ソレと分かれば意識のシーソーが「大自然」から現実へと急速に傾くが、一見して躊躇もまた走った。

「デカい」。それがちょうどダンボールに収まるのは、全部で十個にも満たない数であるように、直径約三十センチはあるだろうし、厚みは世界史二冊分はある。持ち上げてみればズッシリして、「ホントに?」とひとり身の自分に問い質さずにはいられない。

食事何回分だろうか。出来れば毎日、焼き立てを買いたいんだけど、これだったら今日一日ではとても消費しきれないだろう。

 

 だが一旦「欲しい」と思ったら。――すごく惹かれるパンにかかわらず葛藤の末ソレを逃したならば、結局あとでウジウジ後悔を引きずるのが目に見えている。
「……まぁ、いっか」
「躊躇」は折って折って小さく丸め、どこか細胞と細胞の隙間にでも挟んでおくことにして、ウン、と頷く。

 ひとつを、蛍光灯を買うような大きなビニールに入れてくれる魔女ばあちゃん。その可愛い笑顔を見ると、なんだかとてもいい買い物をした気分になった。

 それにしても、いくら早朝とはいえ「モノを売る」にはもう少し人通りが期待できる、そう、マルシュルートカが走るルート上の方がよさそうなのに。「道を間違えたんじゃないか」と迷い込んでしまったような、こんな小さな路上にどうして敢えて立っているのか不思議だが、いかにも「ウチで作った」という数だから、気まぐれに通りかかる程度で十分なのか。

或いは、エイ、と魔法で人を呼び寄せるのか。

 さて、こうなれば「大自然、緑のキラキラ」などとかまけている場合ではない。帰るべし、とスッカリ夢から覚めて足早になる。温かいうちに食べたい、早く食べたい。…って今食べてみよう。ちょっとだけ、ひと口だけ。歩きながら、大きなビニールの中身を少しだけ覘かせて、指で千切ってみる。しっかりとした、張りある表面だ。

香りで連想するのは「フランスパン」。あの断面のように、内層にボコボコと大きな気泡があるわけじゃないが、よく焼き込まれた表面に対して、ちぎり取った中の白い部分は非常に柔らかく、控えめながら優しい甘味もまた、似ている。んんん…と、川のせせらぎは全くもって遠くなり、いま浸るのは、自分の口の中の宇宙。

戻って、これをバクーで買っていたチーズと、紅茶をキッチンで淹れて、食べる。――と、『この円盤を終わらせるのは、二日、いや三日目に突入する』と予想したのはいったいどこのダレか。

 半円が、一度の食事でいつの間にか胃に収まっていた。

…ヤバイなぁ、また胃がでかくなる。

 

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