主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

窯入れ ~サワンナケートのカオチー③

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昔ながらの木造住宅を思わせる、深い茶色の木箱。着物用桐タンスのようなその大きさの中には、真っ白な生地たちが、じっとおとなしく待っていた。

思い浮かぶのは、スヤスヤと眠る猫の、グーにした手。…ってべつに毛が生えているわけじゃないんだけど、何となく気持ちヨサソウな、そ…っと触れてみたくなるフックリ感がある。

体長約二十センチの棒状だが、真ん中部分がやや太く、それから端に向けてやや狭まっているナマコ型であり、その胴回りは小ぶりの夏大根、といったところか。その腹と同じだけの間隔をとりながら二列に並び、ひと箱に二十四個程度収まっているのが、何箱も積み上げられていた。

醗酵した生地を、これから焼くのだ。

まさに眠っている猫を抱えるように、一番上の箱にある生地を、両側面から左右の手で持ち上げ、手術台が如く傍らに待機している、タタミ一枚分の天板の上に移動させる。「天板」といっても、「工事現場から要らない鋼をもらってきました」というような、これまた使い込まれて歪み、真っ黒になった年季モノだ。

やわらかぁい、などと、ふやけた顔してモタつくことなど当然なく、ワンさんの動作は機敏だ。一定した間隔をもたせて、一つ一つをサッサと置く。

初めて会った時、彼は十六だった。サラサラ髪の坊ちゃんヘアに、帽子をつばを後ろにして被り、細くて華奢な腕を出した「少年脱してやっと青年」。そしてフラッとやってきた余所者など眼中にないかのようなそのしかめっ面は、カメラを構えても緩まなかった。初対面なのに愛想を振る理由が見つけられないし、という、至極当然・げにごもっともなことが納得されてくる、まぁ分かりやすい素直な反応であったのだが、それでもめげずに生地を触る姿を撮ろうとすると、カッタイ表情のままながらもほんの数秒ピタリと動作を止め、カメラに視線を向けてくれる。チラホラと出しては引っ込める配慮に、「イイ子、だなぁ…」と、微笑ましさがポワンと底から浮かんでくるのだった。

かつては、小麦粉等の粉を計量してミキサーで回す「生地の仕込み」係にあった。それ以外は兄・ホアさんの補助として動いていたのだが、今はその役を弟のヴァンさんにバトンタッチし、かつてホアさんが在った立ち位置・仕込みを除いた作業全般をこなす職人になっていた。

結構な筋肉も付いたように見える。さて笑顔の一つでも向けてくれるだろうか…などと気を揉む必要など全く無く、会うとすぐに「あ、覚えているよ」と柔らかい表情を見せるようになった。カタイ顔を向けられるというのは、「胡散臭いヤツ」である事実を直視するようなもんだから、私としては「一線越えられたか」と素直にホッとはするのだが、人見知りの衣を纏った、あの時思春期だった君は大人になりにけりと、時の流れをもまたしみじみと噛みしむるなり。

 

…と、「ここがちょっと(間隔が)近いだろ」とでも言っているのだろうか、兄・ホアさんは後から、天板に置いた生地一つ二つの位置を少々ずらす。生地と生地との間隔にバラつきがあると、パンの焼け具合にもまた差が生じてしまうのだが、「大量に作っていれば、そういうのもありなん」と流してしわないということに、「カオチー作り」に対する誠実さを見たような気がして、ほう、と唇がすぼまる。

初対面の時、彼は十代を抜けようという頃だったろうが、プックリ頬の童顔だからもっと幼く見えていた。少々長い前髪が作業をする時に邪魔なのだろう、おそらく姉のであろう「カチューシャ」を頭にして、くいっとデコを出しているのが妙に似合っていたホアさんだが、その顎に髭が少々生え、頬だけでなく全体的にポチャッと丸身を帯びたようだ。Tシャツじゃなくてポロシャツ姿なのも、「ゴルフが趣味です」とでも言いそうな中年オヤジ(偏見だが)の雰囲気を出していなくもない。…ってまだ、三十なんだけど。

いや、三十になったらそろそろ「引き際」なのだろうか。工房の中に常に在るというわけではなく、時々、気が付いたら姿を消している。そして十数分したらまた戻ってきて、手を出すというよりは、腕を組み、ワンさんの手つきをじっと見る…など、一線からは身を引いてはいるが目を光らせる、「現場監督」に昇進したという感じではある。…と思えば、急にフンフン鼻歌を歌い始めて実はボーっとしていたようでもあったり、バナナを手に、大声で歌いながら戻ってきたり。その奇行ぶりに弟達はクスクスと笑い、彼は監督兼ムードメーカー、というところか。ワンさん揃って人見知りだったならば、私としても少々居づらかったろうが、その緊張感がほぐれていたのは彼の陽気さのおかげだろう。

 

並べ終えたならば、生地の表面を、水の入った霧吹きを使って湿らせる。この「霧吹き」は、百円店に売っているようなカシャカシャとその都度押すヤツではなく、一回押したら「シャァァ」と出続ける高性能モノだ。

そうして、「クープ」を入れる。「フランスパン」を言えば思い浮かぶ、表面にパカっとした口を開かせる為の切り込みである。

縦長に寝ている生地、向こう側の先端に左手の人差し指を軽く当てる。切る最中に、生地が刃につられて引っ張られてしまわないための、「押さえ」として。

そして右手に持った「刃」を生地の表面に当て、一本、手前にシャッと引く。潔く。

――浅い。こんなもんで、あの立派なクープがお目見えするのか。切り込んだ線の深さは五ミリもいかないだろう。

クープを入れることで火通りと膨らみがよくなり、そこから耳を立てるように起き上がって焼けた外観は、「良い、悪い」を細かくやらしくネチネチと判定する一つの目安でもある。が、それについての詳細は省こう。私としては、裂け、めくれまくって鋭利に立ち上がる「クーブ」であれば、それでもうウットリご満悦なのだ。

「刃」とは、小さなカミソリ。先端をちょっとだけ裂いた細い竹串の間に、彫刻刀の平刀よりもさらに小さい刃を差し込み、紐でグルグルと固定したもの。竹串とはいえそれはあまりにヒョロっとした棒ッ切れで、スーパーで売られている団子の串の方がもっとしっかりとしているだろうが、その刃は全くのダテじゃないことが十分、その切りっぷりから伺える。だが見た目の心もとなさそのままに、こんなものをワンさんってば鉛筆よろしく耳に引っ掛けるなど、軽々しいにも程がないか。…不安定じゃないのか、ソレ。汗で簡単に滑り落ち、耳元をシャッとかすって血まみれ…とか、想像が先走りして、こちらの耳こそキーンとしてくる。…汗を拭きなさい、汗を。

 

 

肌を撫でるように軽く、素早くその天板にある生地すべてに「一本線」を切り込んだなら、いよいよ窯と 相対する時だ。

「腹黒さ」を色に出すとしたらきっとこんな感じだろう、いかにも重そうな鉄扉である。四つのうちの一つを、ホアさんはしかしいとも簡単に、扉にタオルかけのようについた取っ手を手前に倒し、キィ、とあさってにすっ飛んだ音を響かせた。庫内は入り口よりは少々大きい、天板一枚を受け入れてちょうど、という広さである。

窯のすぐ脇に置かれていた、既に「窯色」にくたびれたバケツ。「あとで掃除する為だろうか」とチラと思った以上に気になど留めていなかったが、ホアさんは今それに身をかがめ、コップで中身をすくうと、開かれた入口から窯内部に向かって勢いよく浴びせる。相撲取りが塩を振り撒くように――と、その瞬間、シャァァァっ!と蒸気が上がり、あぁそっか、この為なのだと目が覚めた。水だ。

窯に蒸気を入れると、生地が伸び(膨らみ)易くもなる等のメリットがある。バケツはボーっと突っ立つ私のように「ただそこに在る」んじゃないのだ。

それを合図に、天板を既に抱え持った体制にいたワンさんが、すばやくソレを中へと突入させる。すぐに扉を閉め、足を振り上げてケリつけ、しっかり「フタ」。さぁ、旅立ちだ。

 

「特大サイズでよろしく」と籠職人に注文して、編み上げてもらったのだろうか。ホテルの清掃係がシーツを入れて抱えてそうな竹籠を、重なっている中から一つ取ってきて、足元に置いておく。

放置されていた厚手のボロタオルを手に、「扉」を開いた。既にムンムンと、この空間全体をひっくるめてダシにしたような、「カオチー」の香りが充満してきていたが、キイっとさせた瞬間,それが一段と強まった気がする。

右手には、「杖」…というには少々短い、子供の傘ぐらいの「鉄の棒」を握っている。先端が、まさに傘の柄のようにクイッとハテナに曲がっているのだが、握り手はその逆だ。

黙って収まっていた天板を、まずは手前に少しだけ引き出したら、…おぉ、おぉ、「カオチー」たち。新品の木材色した肌に、その表皮を突き上げるようクープをパックリ弾けさせた、面々。

縦長に収まっていた天板の縁の、体に近い側を左手で持ち、その反対側の縁は、右手に持った「鉄の棒」のハテナ部分で引っ掛けて支える。そしてそのまま後ろに下がり、ザザザっと底を擦らせながら天板全体を更に引き出してゆく。

ごそっと全体を出しきったら、それを抱えたまま、用意していた竹籠の上で「立てる」ほどに傾けさせる。焼き上がった「カオチー」は、その中へとボタボタ落ちてゆくのだが、こちらとしては「アブな…」と呟かずにはいられなくなる。引っ掛け箇所として穴が開いているわけでもない天板を、棒の先のハテナが支えているなどと、まぐれみたいなモンにしか映らない。

…とはいえ、ズルッと滑らせてガチャ―ンと地に落とした場面なんて一度も見たことがないのだから、やはり掴みどころを得ているのだ。一体何度こなして慣れたのだろう。

「ねっ!」

――焼けたでしょうっ! という、ワンさんヴァンさんの誇らしげな笑顔がなんともカワイイ。ベトナム人は概して日本人よりも若く見えるから、彼らもまた中高生の兄弟と言っても通用するだろう。それほど間を置かず、外気に触れたカオチー・一つ一つからはパチパチと音が弾け、それは二人の心と呼応しているかのようだ。ホヤホヤたちを吸い付くように見つめていると、あら?とどこかに離れてしばし見なかったホアさんが、戻って来た。

「食え食えっ!」

…って。ボスがまた、どこに行ってたんスか。

以前までは、この人が主役でやっていた作業だ。このままゆけば、オヘソをまず先頭にして通りを闊歩する、オヤジ達とそう変わらない体系となるだろう。この、大トリともいえる作業に没頭していたあの姿は、もっとカッコよかったぞ――などというのはまぁさておいて、それはもう、飛びついて「いただきます」なのである。

 

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