主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

サワンナケートのカオチー  ~具入り点描

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 寿司職人にも劣らないだろう、次にやることが分かっているからこその、休みない手。

「何をどのように入れてくれるのか」の観察に目を凝らすこちらの前で、サラッとした表情を変えることもなく流れを止めないのは、想像としては七、八つぐらい年上だろうか、のお姉さんである。

腰丈の台の上に設えられた、透明ケースの棚にある幾つかの容器の中から、ヒョイヒョイと各種の「具」が、ジャンプするようにカオチーの「口」へと収まってゆく。

 

サワンナケートは、「ラオス中部」と分類される地域でも南端に位置する、メコン川沿いの町である。水の確保が容易で気候条件も良く、肥沃な土地で、ラオスの中でも農作物の生産が高い。タイとの国境地点でもあるから、ベトナムへと繫がる道の要所として栄える「交易の町」とも紹介されるが、私がそこを初めて訪れた時のきっかけとは、まさにタイからベトナムへ向かう通過点・つまり途中下車的に、だった。

到着し、町を把握しようと宿を出て、ブラブラ歩き始めてから十分もかからなかったろう。

路の脇に、屋台が出ているのに気付いた。棚と調理台がセットになった、商売道具一式の前には女性が立っており、その足元には、籠がある。――と、洗濯物入れのような大きなその中に、ポツポツと頭を覘かせている茶色いものに、近眼といえども反応した。そういえばモワモワと「香り」が鼻腔をついている。

「カオチー」、か。

ソレと確信する前から顔が緩み、のんびりとしていた足どりにも急にエネルギーが注入されたようだ。さすが「根付いている」というべきか。到着早々、簡単に見つかるなんて。

「あ、ものほしそうだな。買うのだろうな」というだけでなく、綿パンに、たすきがけショルダーバッグ、そして見慣れない顔―とくれば、「外国人」であることは一目瞭然・近付いてきた時点で、向こうも分かっただろう。

が、「いる?」と向けたその、ポニーテールを揺らしたお姉さんの笑顔は、外国人への少々不審交じりのハニカミでもなく、もちろん(日本の)デパートにあるような、ピシッと教育されたかたちでもない。「この野菜安いよ」と市場のおばさんが、通りがかりの買い物客に話しかける時のように、サラッと軽いものだった。とはいえ、とっさにラオス語をどう使うべしかとモゴモゴとしていたものだから、買おうかどうしようかと悩んでいるように見えたのだろうか・「優柔不断にねぇ」と呆れている感じでもある。

キレイな人だ。

成人女性はほぼ、くるぶしまでかかるロングの巻きスカート姿が見受けられるという中で、ジーンズパンツという出で立ちはハイカラにも映り、かつそのスッとしたスタイルの良さでバッチリときまっている。顔立ちがこれまたスタイル負けしておらず、キレがいい美しさ、とでも言おうか。

冷静沈着、…かどうかは知らないんだけれども、何ものにも動じない雰囲気を漂わせているのがまた、カッコイイ。

「一つ、ください。」

 

 

ラオスでは、フランスパンによく似た棒型パンが、あちこちで見られる。

19世紀、植民地獲得の潮流に乗るフランスは、東南アジアに進出し、ベトナムカンボジア保護国として獲得、一八九九年には「仏領インドシナ連邦」を成立させ、ラオスもこれに組み入れた。その影響で、かの地のパンを食する習慣もまた広まった。

それは、ラオスの言葉で「カオチー」と呼ばれる。

サワンナケート第一号のカオチーは、「具入り」――太さは野球バット、長さは二十センチ弱のパンの側面に、ザクザクとナイフで切こんでメリメリと開き、そこに数種の「具」をいっぱいに詰め込んだもの、だった。

スゴイ…。

そう呟くしかない、口をガッと開けて中身を抱えるそのボリューム。そして「味」。それはかつての宗主国・フランスだってかなわない、ぐらい言ったって許されるものだろう。…って、フランスに行った経験はないんだけれども、どこにヨメに行ったって恥ずかしくないその出来映えである。

いったいその中身とは何ぞや、というと――

「パテ」。もやしと大根、人参の「酢のもの」(要は「なます」であり、まさにその味)。「ハム」。刻んだ「香菜」。「ネギ」。「チリ(唐辛子)ペースト」。「ソース」。

これらを順に、切り開いたパンにギュッギュッと詰め込んでいけば出来上がりで、……こう書くと「なんだ、『軽食』じゃん」と思えてしまうぐらい迫力は無いから、じゃあ一つ一つに言及していこうか。

 

「おそらく」などと但し書きしているのは、(具の)調理過程を実際に見る機会がなかった為だが、そこは舐めるように味わってみて、想像できるところ、である。

「パテ」は、豚の脂身や内臓をペーストにしたもの。「おそらく」タマネギやニンニク等の香味野菜も少々加え、グニグニと交ぜて丸いアルミ容器に詰めて、火を通してある。上部にはしっかりと焦げ目がついているから、おそらくカオチーを焼く窯で焼いたのだろう。型(容器)から外して皿に取り出すと、大きさも形もまるで一台のケーキのように出来上がる。…んだけど、黒い。焦げ目部分に限らず、「食べ物」に見えなくもそりゃないけど、ホントに食べるの?と、少々躊躇を覚えてしまうほどだ。――が、ナルホド、こういう色となるのに納得の、「甘辛」味。砂糖、そしてここ一帯で一般的な調味料の「ナンバー」(魚醤)、或いは醤油(中国醤油)といった類で濃く味付けされている。そしてまた、練りこまれた脂身の甘みが効いていて、全体的にコッテリ、ご飯がいくらだって進んでもいいような感じである。

これを、大きさは切符ぐらい、厚さ五ミリ強にスライスして、切り開いたパンの端から端まで行き渡るよう並べてある。四切れ、いや、五切れはあったか。「何口目」かでようやく到達する、日本のサンドイッチやアンパン事情など、足元にも及ばない。

「なます」は、そこまで酸味は強くないものの、サッパリ、すっきりとした味付けのものが、日本の定食屋で付く「小鉢」など余裕で越える量、パテの上に広げられる。

ここまでで既に、結構な「かさ」がある。

その上にやはり「端から端まで」載せる、短冊にスライスした「ハム」は、厚さもパテ同様。「五ミリ」という字面は大したことないように思えるが、ちょっとモノサシを取り出してもらいたい。レストランの「サラダ」に添えられている、ピラピラハムの次元じゃない。

この「ハム」は、日本のスーパーでよく見かけるもののように、肉をロープで縛ってから塩水に漬けて…という処理を経たものではなく、肉をミンチにしてからこねくり回してまとめ、蒸し固められたものである。大きさは、だいたい「お歳暮」等の贈答用ハムの塊ぐらい。あまりに整った筒状に、肉としての面影はなく、また断面の模様も均一で、たとえるならば「巨大な魚肉ソーセージ」で、正直、見た目は安っぽい。だが、たいした期待をかけずに食べてみたところ――コレが旨いったらウマイ。旨すぎて、もうその味を思い出せないほどだ。ラオスだけでなく、ベトナムカンボジア、そしてタイでも、市場などではコレ、塊が一個単位で売られており、…一人旅の私にとってはデカ過ぎて、欲しいと思えど「躊躇」が先にたつ、もどかしくさせられるものの一つである。中でも大絶賛すべきは、カンボジアのソレであり…って、ここでその詳細はヤメにしよう。

で、旨いハムを載せたその次には、「香菜」の刻んだものをパラパラと。

「それだけでいいのか」という、まるで隠し味的な量であっても、その風味はおとなしく引っ込んでいることはなく、パテやハムの甘みとドッキングし、第三の味を作り上げてしまう威力を十分有しているのだが、決まり文句・「その独特な匂いを苦手とする日本人は多い」。

そして今度は「そんなことでいいのか」と、香菜とは逆に、ミジンにも何もされていない「葱」(「アサツキ」のような、細葱)を、そのピンとした、あるがままの姿で二本か三本、挟み込む。

ここでポイントとなるのが、根っこ(…というか、ラッキョウのような球根の部分)付きであること。これまた独断だが、「肝」がつかないカワハギを出されてもあんまり嬉しくないように、これがあると無いとでは、味に雲泥の差があるのだ。もし、私が野菜嫌いだった幼少期にこれを口にしてしまっていたなら、おそらく「生涯の敵」となっていたであろう・強い辛さをむき出しにした、野菜臭さの心臓部ともいうべき「球根」は、コッテリ「脂身的な」濃い味のパテと、「肉ッ!」というボリュームのハムと引っ付くことで、決してそのものを単調にしない力を持っている。香菜の強い風味もさることながら、この葱もまた、癖になるアクセントを作り出しているのだ。「香菜は切っても葱は切らない」―これが、カオチーのセオリー…かどうかは知らないけどそうなっていることが多いのは、「あまねく人に、『根っこ』もちゃんと分配されるように」という配慮ではないかと勝手に思っている。

 次。

唐辛子をチョップした「チリペースト」を、瓶から小さなスプーンにとり、挟み込んだハム等に撫でて付着させる。これはたいてい「要るか・要らないか」を訊かれ、私はもちろん頷く。料金込みでもらえるモンならなんでももらう、がモットー…っていうか、辛いのが好きなだけだが。具を挟み込む一番に、これを(パンの)断面に染ませる場合もあるが、パンよりもやはり「脂身的なもの」に引っ付けてもらった方が、しゃんと味が締まるようでイイと思う。

さらに、茶筒程度のプラ容器に入った「ソース」を、スプーン一すくいか二すくい、垂らす。使い回しのプラ容器であるから、数種の調味料を独自でブレンドしたもののようには見えるけれども、「既製品」をただその中に移し替えただけかもしれない。こちらで「ソース」というと、それは醤油ベースに甘味諸々を加えて濃くしたような調味料があるから、アレだろうか。

ともあれ、以上、最後に小さなプリント紙をクルッと巻き、輪ゴムをパツッと掛けたら出来上がり。

これが英訳されると、「サンドイッチ」。――ズシっと重みを増した完成品を手にすれば、…納得いかない。確かに具を挟み込む・その行為からして、呼ぶとすればそうなってしまうのだが、しかしその名前の響きとは、この重みからするとあまりに軽やかである。ハムとチーズをササッと挟んでスマートに終える、「軽食」とはちょっと「格」が違うのだ。

そのタップリの具のせいで、半開きに天を仰ぐ口。見ているだけで、こちらの顎が外れてくる。こりゃあ、食べ難いだろう――なんてことは、嬉しい悲鳴なんだけど。

齧るそのたびに感じ入る「味のハーモニー」なるものは、何日も煮込んで深みの増した「おでん」のように、滋味なる余韻をあとに残す。手に抱えていた重みは、そのままそっくり胃の中にズッシリと移動し、その存在感は「ファーストフード」などという曖昧な名詞にもはまらない。

これはれっきとした「お食事」以外のなにものではなく、歩きつつとか、片手で食みつつトランプに興じるなどとかいう「ながら食い」なんて勿体無い。カニを目の前に控えるよう、イスに座って黙って食え、といいたくなる。

 

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