主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

お土産をどうぞ ~タイ・コンケン 

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どこもかしこもがベトつく肌。滴る汗がまたいやらしく額を頬を這いずり、イライラを逆なでする。喉の奥底から、ヌメッた息が上がってきて、もうどうしようもなくなる。

そんな中で目の前にある、ケーキ――を包んでいるビニールの濁りを見ただけで、指がヌメってきそうだ。…ウエットティッシュが要る。七星テントウのようにレーズンが表面に見える、握りこぶし大のプリン型。バター、いやおそらくマーガリンだろうが、油脂が多めに入った「パウンドケーキ」の類である。

             

 世界の全てが降り注ぐようなカンカン天気の下にある、タイ。

舌を出して息を粗くする、犬と自分との違いなど一体どこにあるのか分からなくなってくる、「なす術ない」と言うしかない中で、欲されるのはジュースでありアイスコーヒーであり、そうそう、サトウキビジュースもいい。脳天を突き抜ける炭酸ももちろんいい。カランと氷を鳴らしながら、キンキンに冷えたもので喉を潤すあの清涼感を、もうろうとしながら焦がれるその前に、糖分の摂り過ぎが引き起こす生活習慣病云々の説教などなんの歯もたたない。

水一リットル一気飲み、或いは氷の塊をどーんと口の中に突っ込んだってもまぁ構わないんだけど、甘い飲み物って、妙に「癒える」から不思議である。単なる水では、飲んでも飲んでも、栓をし忘れた風呂のように満たされた気にならないのだが、練乳が悲鳴が出るぐらい入ったアイスコーヒーなんて、クドいどころか、飴を貰ってピタッと泣き止む子供のように、みるみる渇きが引いてスッキリとするのだ。

…って、血糖値の急上昇で一時的に頭がハッキリするだけなのかもしれないが。

ジュースはオレンジを絞った生ジュースやらなんやら、瓶、缶入りの既製品にとどまらず豊富にある。アンミツのようなデザートもまた、ヨシ。シロップで甘くしたココナッツミルクの中に、寒天や、タピオカ等の「具」を入れ、仕上げに砕いた氷を盛って食べるものだ。

あぁ…と快感を得られる手っ取り早いのは、「冷たいもの」。時にその冷たさが胃腸を直撃し、腹を抑える事態となることもあるが(疲れた時に一気飲み、とかするのがイケナイ)、暑さにからきし弱い自分としては、そういう甘い飲み物の快楽にすがりもしないとやってられない。冷静で居られない。じゃあ暑い国なんて旅すんな、と言われても、それはまたヒトのヒトたるゆえであり、そう世の中を理性的に生きることは難しいもんである。

が、どっこい「温かい」甘いものも捨て難いのだ。

やはり日中ど真ん中、というよりも、早朝や夕方以降など、まだ気温が落ち着いている時間に食べたいし売っているモンであるのが、砂糖入りの甘い豆乳に、寒天や豆などの「具」を入ったお椀。同様これもお椀で食べる、トロントロンの豆腐に、生姜シロップを張ったもの。特にこの生姜豆腐は私の大好物で、レンゲですくって舌の上にトローンと載せてやると、――「力ぬいたら?」と肩をポンポンとされているような、未来について慮っている自分に気付かされるのである。

 要するに、ここでは喉の通りがいい「液体系」がいい。

が、「ケーキ」はいかがなものか。

卵の色…というよりは、マーガリンかバターの塊を連想する、黄色がかったその色。

ロシアなど寒い場所ならば、モサモサの感触が温かいお茶の味わいを一層増してくれるし、体を温める燃料だとも思うことにして喜んで手を出すけれども、トコロ変わればその嗜好もカメレオンのように変化する。それは口内の水分を吸い取り、暑さにうだっているのをさらに鬱陶しくさせるものに映る。喉にも膜が張り、体中がベトつくような重ったるさがある。

正直、食指が動かない。ここでならば、「オレ、甘いものって苦手なんだよね」と抜かす気取り屋と話が合うであろう。冷静に、敬遠もしよう。

――食べたことがない、というわけではない。

友人(タイ人)宅にお呼ばれの際、子供の誕生日だからと「ケーキ」を振舞われたことがある。白をベースに、緑や黄色のクリームで文字や花々を描きつけられた、派手な丸いデコレンショーケーキは、子供だけでなく、子供質が眠っている大人の気分をも沸き立たせるものではあろうが、食べてみれば、うーん…。スポンジは、パサパサと乾燥した食感がまず気になる。クリームを舐めれば、「クリーム」という状態ではあるが、それは見てくれの為の「道具」であり、「甘いような気がする」ヌメりのある物体。…まぁ、市場でガラスケースに並んでいる大半が「冷蔵」ではないから、生クリームでなかろう想像はついていたけれども、おそらくマーガリンかショートニングかの加工油脂で作られたクリームだろう。

「誕生日にはケーキを食べる」という、どこぞの習慣をもってきましたと言う以上に無く、まぁそれはそれ、と儀式のように平らげたならば、さあ待ってましたと本気にダイビングすべきは、彼らが振舞う料理の方である。正直、舌の肥えたタイ人としては、ホントにそのケーキで満足なのかと、正直疑問を抱いたものだ。

 そこそこに大きい町にならば、ケーキやクッキー、菓子パン等、欧米志向な菓子を揃える(日本でいえば「洋菓子」)店は、一つや二つはあるもんのようだし、市場においてもあれこれと並んでいるのを目にすることが出来る。が、なんというか、ワーイと嗜好品を味わう喜びに浸るというよりも、「ん?」とソレを二度見しながら食べる、ということが多くないか。

たとえば、「一口ケーキ」。マドレーヌよりもちょっと小さめのものを、いい香りを放ちながら売っている店を、市場の一角でよく見かけるものだ。

タコ焼き用鉄板のように、幾つかの窪みがついた(貝っぽかったり、花形だったり)天板に、生地を(その窪みに)流し込み、オーブンで焼き上げたもので、小さいから焼き上がりも早く、売り場には山に積んであったりする。縁日にあるベビーカステラの屋台を思わせる、その匂いにつられて近づけば、焼き立てホヤホヤをたいてい手に出来るだろう。五個、小さな袋に詰めて五バーツ(十五円)等と、安い。

心浮き立つままにゲットし、即口に入れてみれば、しかし――「…ん?」。焼き立てだからパサパサではない。ないんだけれども、噛み潰したら跳ね返ってくるゴワゴワとした弾力が、「ケーキ」というにはちょっと気になる。そこそこに甘い、素朴な味…で終わるには、咀嚼しているうちに、菓子とは違う、なにか「余分なもの」――匂いなのか、味なのか、が気になってくるのだ。

添加物、…膨張剤・「重曹」のせいなのかとも考えたが、想像するに、生地のくっつき防止の為、焼く前に必ず天板に塗りつける油の質と、天板の金っ気ではないか。おそらく生地にはバニラオイル等の香料が入っていないから、生地に移った天板臭さがストレートに分かるのではないか。香料とはもしかすると、こういう野暮な匂いを消すことが第一目的であったのかと、新たな発見に学んだが、ともあれお菓子とは、バニラやシナモンという、いかにもな「イイ匂い」で誘ってくるもんだと思っている私としては、それはあまりに純朴。素直すぎて、もういいや、となってしまう。

が、その逆に、鼻にウルサイほどに「いい匂い」過ぎる、「クッキー」。

ベットリとしがみついてくる、いかにも人工的な香りが――そう、こちらでちょくちょく見かける、ケバケバしく化粧を塗りたくった女性から放たれる香水のように、ビンビンに効いていたり。…暑さにだけでもゲンナリ酔いそうなのに、と、いくら大食漢・珍しモノ好きな私でも、一度に二枚で十分だったりするのである。

 とはいえ、食べもしないで敬遠するのはよくない。「意外と…!」と目を剥く反応を期待して、経験を積むべしと口にしてみた四角い「バター(とは思われないから、マーガリン)ケーキ」は、アラしっとり。…というよりも、上から溶かしバター(マーガリン)をジュッとかけたんじゃないかというほどに、モロに油っぽく、かつクソ甘かった。バチバチと焼いた秋のサンマのように、これも上からレモンをキュッとしてから食べたいなどと、ケーキに対して発想したのは初めてである。

素朴か、或いは、強すぎるか。

…極端なんだよなぁ。ちょうど良い、ということが滅多にない。まぁ、この印象も私の個人的なモンだと言われればそうなんだけど、ケーキやクッキーといった「あちらの菓子」(洋菓子)とは、タイに昔からある、この地域ならではの「甘いモン」とはとても比較にならない。それらは、女性が雑貨屋で物色する、窓辺に置くガラス細工のようなものに過ぎないのだ。いくら欧米志向が世の傾向とはいえ、タイで「ケーキ」なんてあまりに無理矢理、余計なお世話である。それらを口にするよりも、涼しげなココナッツあんみつ一杯平らげた方がなんぼもいい。気候風土を無視して、グローバルになぞならんでいい――という結論に自分としては安定着地していたところで、この「お土産ケーキ」が、カフェー姉さんによって手渡されたのである。

 

「コンケン」は、「イサーン」と呼ばれるタイ東北部の、真ん中あたりに位置している。イサーンでも人口百七十万を超える大きな県ではあるが、その中心部でも、真新しいビルが聳えていかにも都会、というツンツンした空気もなく、のほほんとしつつも賑わっているという、気楽な雰囲気がいい。タイを訪れてもう何度になるのか忘れたけれども、ここに立ち寄ることなく帰国することは、稀だ。

大きな市場が町の中心部を埋め、横断歩道、道路沿いにもまた、果物やジュース、ドーナツや餅菓子、煎餅等の間食、惣菜を並べた露店のパラソルが重なっている。匂いに釣られ、目新しさに引っ張られ、あっちにこっちによろめいていれば、特に名のある寺だとかを目指さなくとも、一日があっという間に過ぎてしまう。

加えて、この町は飯屋が旨い。それも運命の出会いとまでに思える、私の舌と相性ばっちりな店が数軒あるから、それを一通りこなさねば来た気がせず、スケジュールは行くべき場所でポンポンと埋まってしまうのだ。滞在三日や四日では、新たな店を発見しようなどと費やす暇がない。

市場の中に納まる、とあるコーヒー屋もまた、定位置の一つである。

一人歩きが憚られるような暗さにある早朝――でも、市場は別世界だ。あかあかと、電球を宝石のように灯らせた中で、人がわらわら、目を覚ましたのは遥か昔のような顔で動いている。そのうち、活きのいい湯気を、天に躍らせている場所だ。

コップやコンデンスミルク缶を積み重ねた調理台、湯を沸かす鍋や氷ケース、そして客用のテーブル・椅子。六畳そこそこあるだろうかというコンパクトなスペースだが、ここに、朝っぱらからコーヒーを求める人の、多いこと多いこと。

六時前には既に繁盛の波にのり切っており、貫録ある体格の女主人が、吹き上がる湯気の中で額に汗を滲ませ、コップを並べたり、ビニールをまさぐったり、コーヒーを濾す袋(=ネル)をポットから持ち上げなどしている。

近付き、「おはよう」と声を掛けたら、真っ白にくもった眼鏡をちょっとずり上げて、「おはよう」。朝起きてからまだ浅い、ボケた自分に比べれば、ニッとしたその笑みにあるのは「余裕」だ。とっくに「気」は、立ち上がっているのである。

コンケンの時間とは、日々、ここから始まる。ショートヘアだからまぁそうなのだろうが、くしをシャッシャッと軽く入れただけで眼鏡をかけ、なんとなく美術部員の中学生(偏見)のようなしゃれっ気のなさが私と同類だが、その動きはとにかくテキパキと素早い。頼もしい体格でもあるし、歳はほんの四つか五つ違うだけのハズなのに、とってもしっかりした年配者に見える。

コーヒーはこちらで「カフェー」と、「フ」にアクセントを強くおき、語尾を伸ばし気味に言う。ネスカフェ(インスタント)もあるけれど、豆を轢いたものの方がウマイ。…というのはアタリマエでしょ、とコーヒー好きなら口をそろえるだろうが、こちらの淹れ方での「濃厚」コーヒーが、というのをことわっておく。それは「タイカフェー」或いは「トゥンカフェー」と言い、「トゥン」とは、コーヒーを濾すネット・「ネル」を指す。

コップは、宴会の時のビールグラスの大きさの、ガラスだ。それに、あの甘い甘い練乳の缶を傾け、それをドロッと一センチの深さに垂らしたら、ネルを浸しっぱなしで濃く濃く抽出しておいたコーヒー液を八分目まで注ぎ、おまじない的に無糖練乳を少々タラッとさせて、仕上げる。

練乳一センチというのは「クソ甘い」のではと想像するが、これは同じスタイルのベトナムラオスでのコーヒーに比べれば序の口といえるだろう。ここで詳細は突っ込まないけれども、かの地に比べると、コーヒー牛乳のように優しく、軽いと思えるのだが、まぁ、日本で飲むよりも「濃く」かつ「アマアマ」であることには変わりない。その口の中をサッパリさせる、中国茶の入ったコップ(同型)が、コーヒーに添えられてワンセット。つまり一人につき二つのコップが供される、というのが、コーヒー屋における共通事項だ。

よく笑い、よく喋り、よく動く。肝っ玉太っ腹母さん…と言いたいところであるが、何度再会を果たしても、「まだ?」とお互いに言い合う、独り身だ。タイに初めて通ってからもうすぐ二十年になるうちの一度だけ、「フィアンセ」なる写真を見せてくれたことがあったのだが、その後「さあ、家族は増えたのだろうか」と楽しみに訪れてみれば、そんな話など無かったことのように「そのまま」であり、それに関してひとっことも出てこないから、こちらとしても訊きづらく、あの話は夢だった、と思うしかないのだろう。いつも汗を滴らせてきびきび動いているのに対し、私はいいご身分にのんびりとコーヒーをちびちびやりながらその後ろ姿を眺めているのだが、あんなに忙しそうなのに、いつ来ても痩せていない。

合間をみては隣に座り、私の会話帳をひったくって興味深げに眺めるから、私も遠慮なく会話を試みる。開いたページのタイ語と日本語部分をお互い指でなぞり、懸命に声にだし、時に上手くいかないやりとりに苦笑する中で、「ハイヨ」とお客がやって来たならば、カフェー姉さんはその度に大きな体をよっしゃと再起動させる。そうして次の合間には、ドリアンやらラムヤイ(龍眼)やらを出してくれながら、旅のルートについての質疑応答が始まる。市場の原動力ともいえるプロフェショナルな仕事人でありながら、私と同じ位置にきて、「言葉」というものに頭を悩ませる姿は愉快であり、…嬉しくもあり。

その友人からの「ケーキ」だ。

バスの中で食べてね。この町を去るという、別れの時。いつが最初だったろうか、彼女が土産に渡してくれたのは。

レーズンが数個ポツポツと見える、カップ型のケーキ。

また会おうね。また、カフェーを飲みにくるよ。 

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 車窓が変わりゆく中、ケーキ・三つのうちの一つを手に取り、個包装されているそのビニールをずらした。「いい匂い」がする。いや、「ケバイお姉さん」系とは、ちょっと違うような…。

食べてみる。――と、「アレ?」。不自然な・つまり人工的な香りが添加されているのは確かだが、絡みついてくるほどではない。ケバイさというよりも、なんだろう…緑の瑞々しさを仄かな、優しい香りだ。

…美味しい、じゃん。

スポンジはベーキングパウダーで膨らませたのだろう、大きな気泡が縦に開いてフワフワしている。ベタつくのは大量の油脂のせいだろうが、「油っぽい」よりも「しっとり」という言葉の方が先に出てくる。その口どけが、香りとピッタリと添っており、もう一口したくなる。レーズンが、いいアクセントだ。これがまたミソのような気がする。

 無理矢理平らげるどころか、もう一個欲しい――結局こぶし大三つ、一度に食べてしまった。

 酷暑のタイで、ケーキにハマる、なんて…。

さすがカフェー姉さん。やはり体に説得力が、…なんて、ハタから見れば私も人のことを言えたこっちゃないけれども、なるほど「また食べたい」と思わずにはいられない、いいモン知っているではないか。地元人が選ぶものにハズレなし、か。

 

手を振るあの姿のあと、いつもこの掌に残るのは、ケーキ。

別れのときになって、いつも思い出されることがある。そもそも「ケーキ」って、こういうもんじゃなかったか――。

甘く、そして華やかなケーキとは、ちょっと特別を意味する、贈り物となり得るもの。…いつからだろうか、「クリームの口どけ」とか「スポンジの柔らかさ」とか「甘味のバランス」とか、ウルサイことを云々言い始めたのは。 

「ケーキ」の見てくれに浮き立ち、クリームに胸焼けしながらもフォークを突刺すことをやめなかった、子供の頃を思い出す。「子供だからって味は誤魔化せない」のはホントだが、しかし「見てくれ」に、子供は自分を言い聞かすことが出来るのである。ヌメッとしたクリーム(おそらくバターかマーガリン製の)が塗りつけられたスポンジケーキを、私は明らかに、心から「美味しい」と思ってはいなかった。が、「ケーキ」という存在自体が嬉しい。それを貰った、という事実がウレシイ。それを目前にしている、という状況が嬉しい。嬉しいんだから、美味しい「ハズ」と食べ続けていたのである。

それ、――かけがえのない思いだったのではないか。

 そして、歳を経るにつれて余分なものをいっぱい引っ付けてしまっていたことにも、気づくのだ。

「旧い友人」と言いたい、気の置けなさを感じている人から貰うものであり、つまり「あなたから頂くものならなんでも嬉しい」というモンである。「貰った」その心遣いが非常に嬉しい。それだけで十分、胸いっぱい。よって、ケーキの味云々は問題ではない。たとえ口に合おうが合うまいが、つべこべ言おう気は全く失せていた――んだけれども、云々できるほどにウマかった。結局、意外にウマかったからこそ思い出せた、ケーキというものがその奥で背負っている価値。…うーん…。

なんでも、家の隣が菓子屋で、そこから買うのだという。…じゃあ、次はそのコネで入り込み、作り方を見学させてもらえばいいじゃん。

次、コンケンに滞在するお楽しみがまた一つ。

 

モト(詳細)はこちら↓

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