読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

伝統的「パンケーキ」 ~シビウ

f:id:yomogikun:20150606082114j:plain

赤茶けた煉瓦の塀は、所々が剥がれ落ちて粉を吹き、荒れた肌を晒している。石畳に染み付いた、あたかも木洩れ日でできた影のようなグレーの斑模様が、「時代」をいっそう漂わせるようだ。

ルーマニア中部・トランシルヴァニア地方の町、シビウ。

 朝八時になろうかという頃、散歩へと宿から出てそぞろに歩いてみると、町はしんとして、犬の散歩をする人の靴音が響き渡るほどである。日本じゃ「見えざる力」に背中を押されたウンザリ顔の人々が、電車の中でひしめいている時間であり、その感覚でいえば、早朝五時か六時ともいえる静けさだ。ガッコや会社の始業は一体何時がフツーなのだろうか・八時代から営業していると気付くのは銀行ぐらいであり、なんだか飛び抜けて例外の施設、のように思われてくる。

ぐにゃりとした柔らかさ、とでもいうのか。フリーハンドで建物を描いたような緩い輪郭――どこか絵本の世界のようで、リアルな感覚がない。唯一震えも揺れもない、ものさしでシャッと引いたような線を思うのは教会であり、それがかえって神聖な場所であることを感じさせる。

通りに沿って並ぶ家々や商店の建物はたいてい二階建てだが、個性を尊重されてかなり高さはまちまち・ケースの中の色鉛筆のように、ノッポもあればチビもあり、加えて坂道でもあるから、よけいに空の高さが異なって映る。それぞれがこれみよがしとオデコをおろす、その屋根の表面にビッシリと張り付く瓦とは日本のものに比べれば小さいのか、近眼の私がパッと見ると、籐製の籠の網目のようだ。或いは燕の巣。所々がカサブタのように剥げ、時の流れに自然に任せたまま放ったらかしているのは、これも味わいのウチ、と開き直っているのか。

建物と建物は隙間なく密着しているからゴチャゴチャした印象を受けなくもないが、てっぺんが水平なビルが入り込んでいるわけでもなく、無秩序的な感はない。どころか、寄り集まっているからよけいに、なのだろう。噛めば噛むほどその旨みが滲み出るスルメのように、時の流れるに連れて醸成した汁を濃く湛えており、その匂い・地に据わったひとつの「世界」を、町全体でもって異文化からやって来た人間に知らしめているようだ。

一二世紀にドイツ人入植者たちによって作り上げられたこの町は商業で栄え、1571年から1711年までは、ハンガリー人が支配層となるトランシルヴァニア公国においての重要な町であった。トランシルヴァニア公国はのちにハプスブルク帝国の支配下となり、さらに第一次大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が解体されると、シビウはルーマニア王国(1878年オスマン帝国より独立)に併合される。(のち、ルーマニア王国は王政が廃止されて「ルーマニア人民共和国」となり(1947年)、「ルーマニア社会主義共和国」の改称(1965年)、1989年の革命を経て、現在の「ルーマニア共和国」となる。)

シビウにおける現在の人口は約十七万人。民族構成はルーマニア人が95%を占め、ハンガリー人(2%)ドイツ人(1.5%)と続く。(wikipediaを参照)

「ドイツ色が強い町並み」らしい。…と、「ドイツ色」たるものが、行ったことが無いからすんなり「そうね」とは出てこないんだけれども、「中世っぽい」とか「歴史的」等の言葉を並べたくなるこの感じが、だろうか。コクのある味わい――それも、無理に保存している感がないから嫌味がない。ツーリスティックな気取りがない。

私としては、旅のルートにあり、地図も(ガイドブックに)あるし宿もそこそこの値段みたいだし、という理由でドロップすることを決めたに過ぎなかったが、テレビの旅番組のナレーター気取りで、町をそぞろ歩くことに酔うこともやぶさかではない気がする。墨汁を零したように、角っこから蔦が絡み伸びて壁を覆い、窓の部分だけ「ナニ?」と目を開けている家なんかまるでおとぎ話の世界であり、「ねぇおばあちゃん」と話しかけたくなってくる。

旅というものに、特に風情を求めてはいない私でさえこんな風だから、観光メインでこの辺を回る人にとってはほっとけない町だろう。小さくとも、外国から・多くは欧米からの旅行者がそこそこにやって来るようで、いかにも外国人受けを狙っているカフェや土産物屋が並ぶエリアもあることはあるし、私が泊まった家族経営の小さな安宿もまた、ただ安いだけじゃなく、庭には石ころを敷き詰めてガーデニングもさりげなく、屋内には雑貨屋的なインテリアを配置するなど、町にしっくり溶け込んだ家屋でありながらも快適さ・居心地の良さを目指していることがひと目でうかがえた。おそらく宣伝には、外国の「自分の家」のような感覚でくつろいで欲しい、という文句がきっとある。

 

単なる散歩は「外出」の範疇にはみなさないのか、頭にカーラーを巻いたまま通り過ぎるおばさんに、のんびりとした街の雰囲気をリアルに感じる。たまに「例外」の、勢いあるツカツカ音に気付いて前を見れば、細い紐を肩から吊り下げてゴージャスにヒダをなびかせる、青いワンピース姿の女性がやってくる。こちらにとっては「結婚式用」ともみなせる服を、普段から着こなす女性をこの地で目にするのは珍しくなく(日本でもたまにコスプレ嬢に会うけれども)、「こんな派手な服は外に着て出られない」というセリフなんて存在しないだろうきっと。勢いに乗って買い、溜まっているライブTシャツも、普段はもちろん、職場へ着てゆくことの躊躇なんてバカバカしいに違いない。

そうやってフラフラ、よそ見しながら小一時間ほど歩いたのは、正直朝飯探しが目的でもあったからだが、全くもって、どこもかしこも「開店前」の時間。出直して来るべしと言われているような、妙に響き渡る鳥たちのさえずりを背に、じゃあ宿に一旦戻って無料のコーヒーでも――という時に、見ぃつけた。というより、気付いたのである。

絵画な景色にすっかりと収まり込み、「店」としての看板や目印などの自己主張はない。宿から町の中心部に出るという時は歩く通りだから、何度もその前を過ぎていたはずなのだが、見慣れてきたからだろうか。何か浮いている…と立ち止まった。――ガラス戸である。ギィィ…っと軋む音を思う、木製の門や重そうなドアが並ぶ中で、ソコだけ中が透き通っているということに、軽率さのようなものを覚えたのだ。というか、開け放たれているし。

中には、すりガラスのテーブルが大小二つあり、パイプの椅子も数個。――「店」。食べ物か。

壁際のキッチンから、肩から腰までが一本の大樹のような、実に頼りがいのある背中をほんのちょっと翻したのは、三角巾を頭にキュッと回したお婆さんである。「どうしたの?」とでも言いたげな皺の中のクリっとした目に、いやあのはじめまして、と、一瞬ドキリと狼狽えた。

隅っこにある2ドア式の冷蔵庫の横に、引き出しと開きが下と頭上にあるステンレスの調理台が並び、その隣にオーブンが備わった三口のガスコンロがある。「店の厨房」というよりは「ウチの台所」とでも言いたくなる、ステンレス台以外は殆どが木目調だ。あれ、「流し」は――というと、そのコンロの隅に、ミニ洗面台とばかりにこじんまりしたものが。使い難そう――ホントに店だよね、と、テーブルのセッティングや、レジの機械の存在を改めて見直してしまう。

が、その太い腕、大きな指の先にある、粉のまぶった「生地玉」に釘付けになった。

野球ボールよりはやや大きめに丸まった、搗きたての餅のようなのが、紅いプラスチックのトレイに十個か十二個か納まっている。赤ちゃんの膨らんだ頬のような、いかにもヤワヤワな感触が、ただ見ているだけなのに不思議とリアルに伝わってくるのだ。その端を口にくわえ、ビヨーンと引き伸ばす心地に酔ってみたい。

裾を出した半袖シャツとズボンの上から、白地に赤縞のエプロン姿。「味噌作り」…なんてやんないだろうし「餅搗き」もしないだろうけど、三角巾を締めたその出で立ちに、町内の婦人会でイソイソ出かけてゆく田舎の叔母の姿が思い出される。が、婦人会でもなく、いまここはお婆さん一人のようで、その腕は生地を本気で扱おうとしている最中である。店番というわけでもなく、ここのメインのなる職人のようだ。

 ――「プラティーナ」と言った。

ガイドブックか、旅行記か、どこか読んだ覚えがある。ルーマニア版「パンケーキ」のことだ。

本格的な「地物」を発見したのかもしれないと、無料のコーヒーなどどこぞに飛んでしまい、浮き立った。もちろん、ひとつ欲しい。

見せてほしい。

 

一旦、台に散っていた粉を綺麗に拭きとり、表面のステンレスを光らせたら、生地を一つ、トレイからムニュっと掴んで前へ。 捏ねて捏ねて、パンのように「醗酵」させたことが伺える弾力だ。

台の上、小さな容器に入った「サラダ油」に手を浸し、そのテカった手で生地を潰すよう、円型・CDサイズに広げてゆく。くっつき防止の為の、手粉ならぬ「手油」である。

そうしてテカりの移った生地の上に、「具」を載せる。

「数種あるヨ」――と見せてくれた「具」とは、「チーズ」「じゃがいも」「スメタナ(サワークリーム)」等々。そしてデザート的に、「リンゴの甘煮」が、種類別に容器に入っている。

「バルザ」を選択した。「バルザ」とはキャベツの意味だ。普通、「具がキャベツ」とだけ耳にしても、正直「華」がないというか、心の中で「キャベツぅ?」とトーン低く吐き出すだけなのだろうが、ここ・ルーマニアでのキャベツ料理は結構侮れないのである。食事に、総菜屋(スーパー)で出来合いを買い込むことが結構あるが、上手そうな色の肉煮込みの、「ついで」とばかりに、炒めてあったり、漬け汁に浸かってしんなりしている「キャベツおかず」をよく買うんだけれども、たいていハズレがなく、ともすればメインよりも印象に残るほどに味がイイ。これも、おそらく無難に満足できるはずだ。なますのように千切りになっているそれは、やはり見た目は地味なんだけど、きっと。

しんなりとしているその汁気をギューッと絞ってたっぷりと、広げた円盤の上に載せる。…タップリすぎやしないか。食う側としてはモチロン、多ければ多いほど喜ばしいんだけれども、果たして包めるのだろうか――と見ていると、生地の端っこ部分、僅かに残されたなのりしろをつまんで、クイッと円の中心部分まで引っ張たら、生地が動かないよう抑えている逆の手にそのつまんだ部分を渡す。それからはもう肉まんの具を包むイメージで、ぐるっと円周に沿い、つまんでは寄せ集めてゆき、最終的に具を包み込んでゆく。どっしりと、安定感のある大きな手だ。そして一つ動作を変えるごとに、「ネ」と念を押す。――こちらとしては、隅っこからチラチラと眺めさせて貰うだけのつもりだったのだが、ノリはお料理教室的に、ゆっくり、スローで手つきを見せてくれるのだ。いきなり踏み込んで来たハズなのに、こちらも最初からそのつもりだったかのような気になってくる。面倒見の良さがにじみ出ている顔である。

そうしてすっかりと包んだら、上から押し潰すよう再び円盤に広げる。直径二十センチ程度か。具は中で生地にビトッと密着し、ツブツブとしているのが伺えるけれども、どうにか突き破らずにいてくれている。

f:id:yomogikun:20150606081514j:plain

で、これを焼く。既にコンロに準備してある、昭和の台所にあるような鉄製の真っ黒いフライパンに油を「ひく」(「しく」か?)――どころではない。ポトポトポ…と、実にいい音を鳴らしてボトルから注ぎ込まれた油は、波打ち、天井の照明を反射していた。作り手である頭巾ばあちゃんの腰回りに、ウン、と納得してしまう。

 

――出来た。

コンガリなったならば、トングでフライパンの上からぶら下げるように挟んで余分な油を滴らせ、とりあえずキッチンペーパーを敷いた皿の上へ置く。みるみる油のシミが出来てゆき、――どうか、ぐんぐんと油を吸い取っておくれ。

英語で説明するとしたら、…まぁ、「パン」(フライパン)で焼くからそれはそうなのかもしれないけれども。お好み焼きを「広島風パンケーキ」というのと同じぐらい、現物を見るとちょっと無理やりな感を抱かなくもない。

「パンケーキ」というと一面が綺麗なキツネ色に焼き上がった円盤型に、バターを載せ蜂蜜を垂らし、ナイフで三角に切りながら食べる、というアレを浮かべる(それより分厚いのが「ホットケーキ」)。その断面は少々気泡の並んだスポンジであり、「ケーキ」という言葉もそう違和感がないが、この円盤の、斑に強い(黒い)焦げ色がついたヒョウ柄は、蜂蜜タラりのそれよりも、どちらかというとインドのチャパティに似ている。1.5センチ程度の厚みは、卵の力でフンワリさせたスポンジではなくて、「具」が包み込んであるせいであり、「パンケーキ大」のいわゆる「お焼き」(長野名物を想像して)である。いや、「焼き」というよりは「焼き揚げ」――素直に「揚げパン」と認めてあげていいと思う。

 

出来上がった円盤状を半分に折り、それに白いキッチンペーパーを巻き付けたら、半透明のビニール袋に入れる。「テーブルにいきなさい」と促されて座ると、もう一枚ペーパーを千切り、それを敷いた皿の上にビニールごと載せて、「召し上がれ」。

…って、エラい丁寧な。持ち帰りならともかく「今食べる」と言っているだから、素肌を晒した「円盤」のまま皿に直接のせ、フォークとナイフでもつけてくれたらもういいんじゃないかと思うんだけども、サンドイッチやハンバーガーのように、「持ち上げて齧り付いてこそ旨い」といるのモンなのかもしれない。ならば確かにビニール袋はあった方がいい。「ココ持って」のつもりの白い紙とはいえ、油が既に染み渡っていて、見ているだけで手に油がヌメってくる。だが、ビニールに入っているのに皿にのせ、加えて紙も敷くのって、ちょっと無駄なんじゃないかと思えるが。和菓子に懐紙が敷かれるように、「皿の上に直接置くってのは、なんだか無粋」とかいう感覚があるのだろうか。経費節約しなくていいのか、ばあちゃん。

なにはともあれ、出来立てだ。食べる前からもう、熱気が肌を刺激している。――それだけで贅沢であり、ウレシイ。半月のその先端から、いざ。

ボコボコと水膨れとなり、斑模様となった表面は、出来たての「サクッ」感もありながら、噛み千切るときの「伸び」もある。油で火を通すからのこその香ばしさと、甘さがまたイイ。

炊き立てのご飯のように、この皮部分だけでも食べ進められる気がする――が、やはり、それもスポットを当てて味わうべき、「キャベツ」だろう。中から、やや太めの千切り・その切れっぱしが「選んだでしょ?」と垂れ下っている。

…「甘い」。

なにか香草らしきもののみじん切りが、ちくわ天に混じる青のり程度に散り混ざってはいるが、それ以上にもう見えなない。が、玉ねぎの飴色炒めを混ぜ込みました?と思えるほどのその甘味は、いったいいかなるマジックだろうか。それとも、この青のりがポイントなのか。

反応に気づいた頭巾ばあちゃんは、改めてそれが入ったポリ容器を持ってきて、ふたをめくって中身を見せてくれた。まるで道に迷った子供を前にするように、気にかけて貰っているようで恥ずかしくなってくるが、フライパンに指をさしながら、何ぞやを説明してくれる(ちなみに、ルーマニア語。私は旅会話以上の本を持っていない)。特に変わった色をしていないその見た目からしても、おそらく塩コショウで単に炒めるだけ、だろうとは思うのだが、「それだけで、コレ?」と、長年慣れ親しんできたキャベツの一体どこを捲ればこうなり得るのか不思議不可思議極まりないその旨み。――期待以上である。おそるべしはルーマニアのキャベツ料理であり、なんと安上がりに得られる感動なのだろうかと、皮肉抜きに敬意を表する。

たっぷりの油にしつこさを予想したが、出来立てのオイシサに騙され、アッサリ食べ進められてしまった。実際、「アッサリ」とはこの体を通り抜けてくれないんだろうと、口の周り・そして指の「ベッタベタ」を思えば推して知るべし。

この指でカバンなんて触りたくないから、ナルホド、「皿の上のペーパー」というのは丁度欲しい「もう一枚」なのだ。一見過剰にも思えたが、考え抜かれた「セット」だったのか。確かにテーブルの上に「どうぞ」とまとめて置いて、手持無沙汰にパッパッと必要以上に取られてしまうより、よっぽど無駄がないのかもしれない。

トランシルヴァニアの、トラディショナルなものよ。」

――とは、「空から光が降り注ぎ、大地に目を落とすと、焼け野原は一面の花畑へと姿を変えていた」とかいう類でもないから、単語をピックアップすれば簡単に理解できる。

「トラディツィォナール」――なんと素敵な響きであることか。

とはいえ、いかにも「職人」の気張った感がなど無く、まさにその姿そのまま、「おばあちゃん」だ。台所仕事の延長でやっているようなその気取りなさに、ホッとする。そもそも「おばあちゃん」が作って売るモンということは、昔からここに在るものという証明のようなもんで、それだけで説得力を感じないわけにはいかない。

九時開店だという。

ということは、明日もまた、それより前に行くべし。散歩をやめて直行したならば、生地捏ねから見られることだろう。

今度はチーズ入りにしてみるか。

 

 モト(詳細)はこちら↓

https://docs.google.com/document/d/1TAyUPfYMU0ymvQrSb8U_dp93HPpOxEorK1NFhzdDBBA/edit?usp=sharing