主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

「ワッサン」の優しさ ~ポンデチェリー

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疲れた…。

『「クリスマス」には避けるべし』――とあったガイドブックのお触れ書き通り、インド南端部のヒンドゥー教聖地・ラーメーシュワラムで、「宿無し」事態に陥った。クリスマスや年明け前後は、インドにおいても長期休暇をとる時期であり、「聖地」は、主要な彼らのお出かけ先となる。

「聖地」――こちらにとってはゲームの世界ともいうべき無縁な単語であり、響きの格好よさに、せめて一泊なりともしてみたいのが、気まぐれにやってきた「にわか巡礼者」には、とても太刀打ちできない世界なのか。普通は絶対にその玄関先に立ち止まることのない高めのホテル(四、五千円)を断腸の思いで尋ねてみても、「フル」と準備していたかのように首を振る、チョボひげ・パンチパーマのレセプションたち。インド人の巡礼ラッシュの前には、なす術も無かった。

野宿する度胸もない。チャプチャプと聖なる大海に浸り、沐浴だか水遊びだかに興じる人々をアクセントに、「向こうはスリランカですなぁ」という感慨半分、「泊まれない」口惜しさ半分で水平線を睨むように眺めつくしたら、夜行バスで移動を決め込んだ。

行先は、「ポンデシェリー」。

夜行バスに乗る甲斐ある(睡眠時間が取れる)距離に位置する町を、適当に選んだ。ラーメーシュワラムと同様、タミルナードゥー州にあり、ベンガル湾に面する町だ。

が、恐るべし「クリスマス」――到着して探した宿、三、四件と断られ続けて暫く彷徨い、聖地の悪夢またしても――と泣きたくなっところで、運よく、しかも理想的な「安宿」をゲットすることが出来た。と、ドッと寝込んでしまった。砂埃にまみれまくったし、夜行バス車内の急激な冷房にもやられたのかもしれない。…歳をとったもんである。

 

ベッドに横たわり、暫く体が受け付けるるものはバナナと水のみであったのだが、気の済むまで寝つくしたなら、「ちゃんと」食欲も出てくるもんである。オカズっ気が欲しい。口の中でしっかりとした噛み応えが欲しい。

とはいえ、腹には少々おもりがぶら下がっているようなダルさがあって、本調子とはいえない。刺激的なスパイス料理に立ち向かおう気概がなく(とはいえ、スパイスは胃薬の原料でもあるのだが)、ポピュラーな軽食である「サモサ」(コロッケ種のようなイモおかずを、小麦粉で練った皮で包んで揚げたもの)や「パコーラ」(野菜の衣揚げ)等の、油の中をたっぷんたぷんと泳いだ揚げ物スナックも、ヘビーでシンドイ。だからってクッキーで済ますというのは味気ないし、バナナを食べて凌ぐのも飽きてしまった。

インドに行ったら、インドのものしか食べたくない。一旦日本を離れたなら、醤油依存症はロウソクの火を吹いたように消え、とことん現地の食で通す。食べることに関しては、郷に入っては郷に没入するのが信条だ。もちろん日本食を携えて旅に出ることもなく、現地の日本食レストランの類に飛び込むということも無い。

――んだけれども、ビョーキの時は別だ。

人間弱った時というのは、食べ慣れていたものが恋しくなるもんなのだろうか。「現地流」が自分を離れ、テレビの向こうを見るように「他人事」な世界に思えてくる。艶やかな膜で甘味を閉じ込めた、まっさらなおかゆ。そしてふくよかな香り漂わせる味噌汁が脳裏に浮かぶ。自分の体に長年寄り添ってくれていたものたちの有難みが、この時浮き上がってくるのである。…って、モチロン望んでも、レトルトなりとも持ってないから仕方ないんだけれども、そういう優しげなものが欲しい。

舞い上がる埃。そして「カッ」と天から叱られているような、脳天に直撃する直射日光に、たった数歩のところで町に繰り出したことを後悔するが、背を翻すのも面倒くさく、惰性のままに歩き続けた。瓶のお掃除ブラシのように、青いバナナがびっしりと生っている太い幹(っていうの?)を、何本も路上に並べ、多くの人が、その立て掛けている隙間から、中へと入り込んでゆくその先に、市場の賑わいが広がっていることが、「匂う」。普段なら心湧き立ち、捨て置かないはずのエリアであるのだが、今はちょっと近付く気力・体力がない。――どころか、うんざりとしている。「これではいかん」とも思わないのが、弱っている証拠だろう。

果たして「食べたいもの」って見つかるのだろうか。意味もなく歩きまわり、袋入りのビスケットと牛乳を、雑貨屋で買って終わりとなるハメが見えてきた。そんなことになるならば、無理矢理でも食堂の椅子に座ろうか…。

と、雑貨屋風情の店を通り過ぎようとすると、遠くからではガラスに反射していた、店頭の戸棚の中が見えてきた。ポクポクと丸っこい、茶色いものが並んでいる。そう、「雑貨屋」にしては何か、ムン、と匂わなくもなかったのだが、その色を目にして、なるほど、と確信した。

「パン」だ。

なんとなく「昭和」を思う、ひなびた駄菓子屋という感じの店構え。ガラス棚の木枠は所々が剥げており、祖母の家の台所の、食器棚としても違和感がない。二段の棚、それぞれには新聞紙が敷かれており、上段にはコッペパンのような棒型――給食のよりは1.5倍はあるパンが積み重なっており、下段には小型の丸パンと、それより一回り大きいロールパン。ロールは、よくあるバターロールのようにこじんまり丸まっているわけではなく、カレンダーのように巻いた生地の両端を、内側へクイッと曲げた、というような、なんとなく横歩きする「カニ」を連想させる形だ。が、丸パンが十数個並んでいるのに比べて、カニはたった一つ、取り残されたようにポツンとしていた。

 なんとなく、柔らかそうなパンだ。そのクリームブラウンの焼き色には、生地にミルクや砂糖、油脂が混ぜ込んであると想像がつく。「柔らかそう」な、かつ、「甘そう」な――皮がバリバリっとしてクセがないフランスパンというよりは、歯をその表面に突き立てる必要もなく、分かり易い味の、日本のコッペパンやアンパン、クリームパンのような感じだろう。どれも同じ焼き色だから、成形を変えてはいても、生地はみな同じなのかもしれない。

 インドでパンといえば、「ナン」である。

壺型の窯で焼き上げる、平べったくて大きなパン。…といっても「ナン」よりも「チャパティ」という、よりペッタリと薄い無醗酵のパンの方がよく食べられるものなのだが、ともあれ日本のインド料理屋でもっぱら有名な「ナン」とは、「パン」といえばフックラしたもの、というのが常識の世界で育った私にとっても、横に平べったくデカいという形の新鮮さに加え、アッツアッツの「焼き立て」が供されることが常識なんていう喜ばしいものであり、パンとはいえど別格であるもののような感がある。インド料理屋に入って、カレーのお供に「『ライス』にしますか、それとも『ナン』?」と訊かれるのが、わざとらしい儀式のように感じてならない。ライスを選ぶ人なんておるんかい――っているのであり、カレーよりもこれを食べたいがために店に来た自分としては、憐れみの目でそれを茫然と見つめてしまう。全くもって大きなお世話も甚だしい。

そしていま。インドにやって来ておいて、「ナン」を素通りするなんて愚は犯すわけはない。――んだけれども、今は異文化にウホウホと頬を膨らませる気分ではない。欲するのは、「安堵」である。

 フワフワのパン。…いいんじゃないか。

コッペパンだのメロンパンダのクリームパンだのの、昔ながらのフワフワパン――というものは、たいてい「パサパサ」である危険性を孕む。(時間が経つと水分が抜け、劣化が著しい)。特にパンを主食とする国々を旅するようになってから、私は日本の食パン・菓子パンの、その噛み応えの物足りなさ、腹に溜まらない軽さ――「食った」感の乏しさに魅力を感じなくなったのだが、いま、この胃にぴったりとはまるといえばまさにソレ、だろう。どうのこうの言っても、確かに私はそういうパンに長年触れて、育ってきたのである。

窯の熱回りを正直に映し出している、濃淡とムラのあるパンのブラウン色。「均一な色で焼き上がるわけないジャン」と開き直ったようなシロウトくささが、いかにも素朴。飾り気が全くない。一つだけ残されたカニパンの「ロール型」が、唯一の「オシャレ」に映る。

…なんだか、ますます惹かれてきてしまった。袋菓子を買い込んでバリバリと食むよりは、よっぽど「この町で食った」というハンコひとつ押せるものではないか。

「ひとつ、ください。」

近づいた時点で気づくだろうに、呼ばれて「あ、客?」と数歩前に出て、戸棚へとデコを近づける、商売っ気ないランニングシャツのおじさん。「カニ」を指さすと、ズズッと、砂をこするような音でその引き戸をスライドさせ、こちらの指の行き先に合うヤツを、ピンクのビニール越しに手にとった。

「『ワッサン』ね?」

そう言ってビニールをクルッと裏返し、めくれ上がった棚の新聞紙をちょっと直したら、その引き戸をまたズズ…と締める。木枠と同じ、ダークブラウンの肌。使い込まれまくったような武骨な腕は、強そうだ。

「ワッサン」…。

見た目より、随分とズッシリした重みが手にかかっている。

 

 

 腰を落ち着け、パンを千切ろうとした場所は、食堂である。

とはいえ、天井に灯るランプの光を反射しているるテーブルが、ツルツルッとした大理石模様(「模様」だけ)という、少々「レストラン」ッ気漂う場所であり、大衆食堂専門の私にとっては一段階「ハレ」の場所である。

カフカのパンを添える、「スープ」がまた欲しくなった。かつ「ナン」じゃないんだから、スパイスから一線を置いたような、波のない優しい味のもの。…と、意外だったのだが、そのようなスープもまたインドでは極上に旨いのである。とはいえここはインドだから、おそらく隠し味に(スパイス類が)入ってはいるのだろうけれども、刺激は全く突出しておらず、結露の窓に滲んでいる雪景色を眺めながら炬燵でヌクヌクと温まる時のような、お腹がホコホコと幸せの湯船に浸ることの出来る、スープ。そういうのに旅行者が出合うには、ちょっと「高め」の店に入った方が率が高いことを、なんとなく学んでいた。

 「チキンスープ」と共に。黄色く濁った汁には、溶いた卵が雲のように散り、鶏の肉片も二三切れ浮いているのが見える。トロミを思わせる艶には、いかにも滋養が濃縮しているかのようだ。温かいうちに一口、と啜ると、瞬間体が歓喜した。

 さて、パンである。

『ワッサン』…ってばやっぱり「クロワッサン」のことだろうが、そう言われて初めて、その形ってば「カニ」じゃなくて…と気付いた。とはいえ、「クロワッサン」たるべき、触る度、口に入れる度にパリパリと剥がれてクズが散るという、バターの層など皆無だから、無理もないんじゃないか。「クロワッサン」なんて、形だけである。

底が、見事に焦げている。…ってこれまた素朴感ひとしおだなぁ、と、カニ足部分を千切ろうとすると、指に少々の力を入れる必要があった。固くはないが、されるがままになるもんか、という抵抗力がある。その「ひき」と、モッサリと詰まった中の具合は、なんとなく脱脂綿の塊を連想しなくもない。

食べてみると、…「フワフワ」なんてもんじゃなく、またパサパサと感じる余地もない。ゴムを新調したパンツのように、活きの良い噛み応えがあり、その、どっしりと腰の入った網目が水分を逃さず、シットリ感を保持しているようでもある。かつ、明確な「甘さ」がゆるぎなく居座り、それは意志といってもいいのかもしれない。

ウマイ…。

「甘いパン」はたいていフワフワと心もとないもの――とは、思い込みだった。甘く、かつこれほどの弾力とは…。

癖になる。「ナン」ではなく、インドで「パン」を美味しいと思うとは想像していなかった。底の部分が、焦げ色の強いその見た目のままに、焼き込まれてガリっとなっているのがまたイイ。敢えて「焦げる」ようやってんだと言い訳されても、反論できない強力な説得力がある。

 

ここだからこそ在り得る、「ワッサン」――か。

つまり、それは言わずとも知れた「フランス」である。かつてインドは英国の植民地に組み入れられたが、そんな中でここ・「ポンデチェリー」はフランスの植民地として維持された歴史がある。よって仏語的に「ポンデシェリー」或いは「プドゥシェリー」とも呼ばれるが、もともとの現地名は「プドゥッチェーリ」と発音するのが近いらしく(wikipedia)、「ポンデチェリー」というのは英国的な呼び方である。私が英語的に呼んでいるのは、ガイドブックにもそうあるもんだから真に受けて呼び慣れただけのことで、他意はない。

というわけで、この街の歴史に入り込んだ「フランス性」が垣間見られるものとして、「ワッサン」はある。

ところで、である。

インドなら「ナン」だ、或いは「チャパティ」だ――とは前述したものの、それら平焼きのパン・つまり「小麦食」は、インドの北部地方においてよく食されるものであり、一方、このタミル地方を含む南部において、主食とされているのは実は小麦ではなくて「米」である。南部において愛しの「ナン」(チャパティでもいいんだけど)を食べたいならば、北部地方の料理をウリにする専門食堂(たいていちょっと高めの「レストラン」)でやっとお目見え出来るモンであり、普段、そうしょっちゅう口にするモンではないことは、ともすれば「日本におけるインド料理屋のナン」と同じであるともいえる。

よってその点、「南にいる」ってちょっとガックリなことだなぁ、という気分ではあるのだが、だからこそ存在する「ワッサン」なのだろうか、とも思う。元来しっかとした小麦粉食の形態が根付いているところ・つまり「北」に、ワッサンなんていう、フランス経由の新参者は見向きもされない、入り込む余地なんてないのかもしれない。

ワッサン――「クロワッサン」。…って繰り返すけれども、それが身上である「層」なんてかけらもない。そもそも、バターを、「溶かし込むことなく生地に折り込んでゆく」作業は、このクソ暑いインドでは至難の業というか、冷房が、冷蔵庫なみにキンキンに効いた作業場でないと無理だろう。だがそのおかげで、…というべきか知らないけれども、代わりになんとも味わい豊かな「ワッサン」が出来上がったものである。

気候が変わり、作り手が変わることで、それはソコでしか見られない独自のものが出来上がり、定着した。まさにこれは、インドにある、この街だからこそ生まれ得た「ワッサン」という以外になく、オリジナルの「クロワッサン」は、それが羽ばたけるトランポリンの役割を担ったのだ。

 

ハタと、凝視する自分に気づいた。配線図を辿るような寄った目で、前にあるものを味わいつくそうと。

このパン。そして、ふくよかなスープ。…体から噴水のように、喜びがほとばしる。これはエネルギーである。

――よし、いつもの調子だ。