読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

黒パンよこんにちは ~チェルノウィツィー

f:id:yomogikun:20150104215937j:plain

ウクライナ。バスでルーマニア国境を越えて数時間、「チェルノウツィー」という町にやって来た。

…んだけれども、辿りついた宿のオーナーは英国人。その家族、いや友人にも見えない、お手伝いさんのように掃除洗濯雑用をやりこなす、ひょろっとした中年のような青年のような年齢不詳の男性もまた、英国人。オーナーの美人若奥さんはウクライナ人だけれども、もんのすごい流暢な英国英語を話した。「洗面所で洗濯はするな」「石鹸は自分のものを使え」「皿は必ず元の位置に戻せ」云々、いちいちと規則が事細かに書かれた掲示の紙はまぁわかるけれども、家族間の呼びかけも、喧嘩も、家族の食事に交わされる何気ない一言二言も、何から何まですべてまるっきり「英語」オンリーの世界。一つか二つの、床を這いまわる赤ん坊も、この箱の中ではゆくゆく「そっち側」で話をするようになるのだろう。

ウクライナに来た、という気がイマイチ高まらない。

加えて、赤ん坊には手がかかる。美人妻は子育てに疲れているのか、「ご機嫌ナナメ」であることが、旦那や青年に対する言動・態度からビリビリと伝わってくることが結構ある。とはいえ、旦那は「そんなキミが丸ごと好きだよ」と歳が随分離れているだけに包容力もあるのだろう・夜はビットリ、客の存在などお構いなしにくっついて、二人映画鑑賞に浸っているからまぁ安泰なんだろうが、こき使われて八つ当たりされて、の青年的中年はたまったもんじゃないのではないか。不満が積み重なり、いつか爆発するんじゃないかと、フリーの時間はたいていパソコンの前でゲームに熱中している、その物言わぬ背中をジッと見てしまう。

「家庭の中」を、アカの他人(=私だ)がチョロチョロと、邪魔にならないようにウロついている感じが拭えない。

 

ホぅ―― だからこそ、宿から一歩外に出た瞬間のこの爽快感ったら。

単に通りを歩いているだけなのに、非常にスガスガしい。山の清涼な空気の中で深呼吸をするようであり、憑き物が落ちたようでもある。…なんて、オーバーなんだけれども、ともあれ「あんまりプライバシー丸出しの宿というのも考えもんだなぁ」などと思いながら、軽い足取りで町を歩いた。

丘か、というほどの急な坂道はびっしりと石畳で埋まり、それだけで「時代」の雰囲気があるのに加え、道沿いには、これまた美術館を思わせる麗しい建物がズラズラと建ち並んでおり、ゴージャス感がみなぎっている。

「ロミオ様…」というセリフを吐いてもおかしくない豪華な窓枠は、しかし黒ずんだ石壁の、いかにも古臭そうな建物だけではないようで、おそらく築数年であろうものにもはまっているのは、「これが私らの美意識ですんで」というもんなのだろう。ところどころでその窓や入口の傍には、服の皺が見事にはためく、彫刻の天使っぽい像が引っ付いていたりする。…そこまで「荘厳感」を出さんでも、と、最初はズッコケそうになったけれども、結構あっちこっちで「ヤァ」と浮遊しているのを見上げていると、なんとなく、彼らはその背後の建築物から抜け出した魂であるような気がしてきて、建物自体に親しみが湧いてくるから不思議だ。

教会の尖塔が空を突く中を、トロリーバスがウィィィンとレトロに走り、その脇でマウンテンバイクに乗った少年たちが、大声で何かを掛け合いながら、ガタガタと石段を駆け抜けてゆく。乳母車を押す、談笑しているママ友が、ゆったりと通り過ぎる。…石畳の雰囲気はいいんだけれども、足の裏が疲れるなぁ。乳母車も振動が結構くるだろうに、と思うが、こうやって赤ちゃんの時から、身を持って石畳に慣れてゆくのかもしれない。

ルーマニアとは異なる町の雰囲気に、散歩だけで時間をやり過ごせてしまう。…が、やはり一番のわっくわくは、市場だ。

庶民の生活には欠かせない場所であるというのに、トロリーバスで三十分以上かかった。あまりに遠いもんだから、乗り合わせた隣の人に「ここ?次?まだ?」と、ハラハラしてしつこく聞きながらであったが、そんな中、返ってくるのがウクライナ語であること・そのことにニンマリとしてしまう。「新しいエリアに来た」現実が、やっと自分の血管を流れている。

小学校の敷地・二つ分はゆうにあるだろう。ありとあらゆる食品や生活雑貨が揃う巨大市場は、屋根付きの「常設」と、そこに収まり切らず、通路や敷地外を取り囲む道路脇へとはみ出した「場外」とでも表わせるエリアで展開されていた。「常設」の方は、各店舗スペースに余裕があり、一つの店が小屋という感じであるが、「場外」は、段ボールや小さな折りたたみ机の上に商品を並べるという、即席かつ簡単な出店である。

ダンボール箱に積んである中玉スイカとラグビーボール大のメロンの横で、それをポンポンと叩きながら「甘いよ」と叫ぶ、腹の突き出たおじさんのヤケクソのような声が、青空に向かって威勢よく伸びる。うーん、と悩むフリをして、さらに歩を進めた。

瓶に詰められた、小さな小さな赤と藍色のベリーが、太陽にギラギラ照らされてキラキラ宝石のように輝く。綺麗…だけれども、この炎天下に晒されれば傷みは早そうだ。バケツに納まっているネギや香草は、ペットボトルで上から水を振り撒かれ、付け焼刃的に瑞々しさをアピールできてなんとかなるんだろうけれども。

ポクポクとしたキノコが、赤ずきんちゃんが腕に下げるような籠に詰まっているのは、果たして「カワイさ」狙ったディスプレイだろうか。

杏を色・大きさで箱に分けて積み重ね、「こっちが旨いよ」とオススメするのは、、ピッチピチの短パンと体の線丸出しのTシャツで野菜売りにはちょっと見えない、若いお姉さんだ。いかにも「自家製なのよ」という、不揃いの瓶やビニール袋、バケツに詰めてある、チーズやスメタナ(サワークリーム)を前にして、頭巾をまわしたおばあさんたちが、「おいでおいで!」と手を振って訴える。

「食べてみる?」と、足を引っかけるかのようなタイミングでピクルスが差し出されても、行き交うお客たちは冷静な面持ちで、ペースを緩めつつも硬派に通り過ぎる。呼び止められるたんびに足を止めているのは、私ぐらいかもしれない。

さて。

パン売り場が、あちこちにある。あれこれと、ある。

山型、丸型、棒型。編み込んだ鎖型。丸い生地を輪にくっつけた、花型。中華のまな板よりもずっと大きく太い、まるで「切り株」のようなパンは、どういうつもりなのだろうか。

形に加え、色の濃淡があるから迷うのだ。形が独特だと気になるけれども、やはりウクライナで手を出すならば「黒パン」だろう。耐寒性があり、やせた土壌でも栽培可能なライ麦は、この地にとって古くからの主要な作物であり、それを使うために色黒く焼き上がるパンは、昔より庶民の食卓に並ぶ大切な糧であった。とはいえ現在、小麦との配合率等によって食感も色も変わったものが豊富に店には並び、様々な「色合い」から選ぶことが出来る。おそらく粉は全てライ麦と思われる程に「真っ黒」のパンもあれば、表皮(ふすま)交じりの小麦を使った、ほんのりした茶色もある。精製された小麦オンリーの、中身は「真っ白」と思われるパンもまた、珍しくない。

一般に「白っぽい」・つまりふすまの含有が少ない、精製された小麦粉を多く使うほどに、パンはフワフワと柔らかくて軽く、ライ麦やふすまの配合が高い、黒色を帯びたパンであるほど、どっしりと重くなる。これは、パンの膨らみの骨格となる、麦のタンパク質「グルテン」の含有量による。ふすまが入ればその性質を妨げるし、ライ麦自体には元来その成分が少ない。

「常設」のパン屋の方が、棚を備えつけ、テーブルにもズラズラと種類多く並べてあるから、どうしても惹かれる。種類が多くったって買うパンは一つなんだけど、「選べる」と思うとやはり気になる。…とはいえ、「通路」にこじんまりとある、机に並ぶだけの数を売るパン屋というのも、夜明け前、電球一つが灯った薄暗い部屋の中で生地を捏ね、パチパチと薪をくべた小さな窯で焼き上げる――とかいう、純朴なる自家製世界が勝手に想像されてきてこれまた引っかかる。

あれこれと逡巡し、結局「ココ」と腹を決めたのは、「常設」に収まる回転のよさそうなトコロだ。

四畳もないスペースに備えた棚は、エプロンを下げたお姉さんの背丈ほどの高さだが、ぎっちり・隙間なくパンが詰め込まれており、まるで書斎にある辞書や研究書のよう。ひと目、「売れんのだろうか?」。残ったら次の日にまた売るのだろうかと思わずにはいられないのだが、お客が訪れて立つと、お姉さんはその白い指をスッと差し入れて抜き出し、ビニールに入れる――その素早く流暢な調子には、「完売」の字が即チラついた。

大型のパンが殆どだ。棚には収まり良く、直方体の「箱型」が多い。机の上には棍棒型や、ケーキよりも一回り大きい丸型が、色分けされて並んでいる。

…やっぱり、悩む。

黒を欲するならば、とことん「真っ黒」を目指すべきか。だがソレと決めようとすると、「くどいのだろうか…」と躊躇が生まれ、かといってあんまり無難な優しい色では、「せっかくウクライナまできて…」と自分が不甲斐ないような気もしてくる。じゃあ中庸を…とはいっても、グラデーションのように微妙に分かれている色の中から「コレ」と指をさす決め手をどこに求めればいいのか分からない。

多数派よりは、少数派を選んでしまいたくなるヘソ曲がりだから、箱型よりは、丸型を。色は、濃くはないけれども、意味ありげな灰色のやつでヨシとしよう。

同じ「丸型」でも、中心が高く自然の膨らんだというものと、その上に花瓶を載せたってオッケーな、綺麗に真っ平なもの(鉄板を載せて焼いたのだろう。)がある。色は似ているが、アレとソレとは種類が違うことの意思表示か。ふっくらとした盛り上がりに今は琴線が触れるから、そちらを。

ドスが効いた「黒」は、また次にしよう――と、もんのすごく時間をかけ、選んだ。ひとところに立って悩んでは、お姉さんのアイラインくっきりお眼目で「ナニ?」と射抜かれそうだから、その周囲を何度も往復し、野良犬のようにウロつきながら。そんな逡巡など知ってか知らずか、「ハイこれね」と、何ともなかったかのように、これまたアッサリと渡してくれるもんである。

と、重い…。見た感じよりも、2.5倍はずっしりと感じた。

 

家族三人でショッピングか。シンデレラ青年は徹夜のせいか、向こうの部屋でグースカ寝ているのがちらっと見える。

誰もいないキッチンで、じゃあのびのびと――昼飯だ。

電気ポットのスイッチを押して、荷物からティーバッグを一つ取り出したら、早々にパンを取り出す。…の前に、同じく市場で買ったキュウリとハムをスライスだ。

キュウリは、小型だが、ガッチリと果肉が詰まって瑞々しい。ハムは、脂身が豊かにのった豚バラで、チャーシューのようにほんのり赤く艶がある。皮部分のプルンとしたゼラチン質が見るからに旨そうだ。みんなが塊を一本ドカッと買っていく中、「チョッとだけ欲しい」という申し出を、憐れむように切り分けてくれた、店の青年だった。だって一人モンの、しかも旅人なんだよ、私って。

 そしてようやく、パンをスライスする。

南太平洋のタロイモみたいに、灰の中に埋めて焼くわけじゃないんだろうけれども、表面には砂のような粉がまぶっている。地面が隆起したような亀裂が側面から入り、なんというか、老木を思わせる「渋さ」がある。

包丁で突き刺すその手に、グッと力が入る。パンを切るのに「ンっ」と踏ん張るのは、同じく黒パン圏であるロシア以来だ。その表面に、爪なんてとても食い込ませることなんてできないのはもちろん、切り目を適当に入れたらあとは手で引き裂こう、なんてのもまたアマイ。機内食で貰う、プラスチックのナイフなんかじゃママゴトでしかなく、ちゃんとした「刃」のあるナイフが無いとダメでしょう。窯の床部分に、生地を直に置いて焼き上げたのであろう・パンの「底」の部分が特に固く、ダンボールを数枚束にしてカッターナイフでキコキコする時ぐらいに力が要る。

断面は、細かい気泡がギッチリと詰まっていた。

切ってしまったら乾燥が気になるから、まずは口に入れてみる。

何事かが詰まった香ばしさがある。簡単に流し去る(飲み込む)にはいかないネッチリとした弾力は、しかしながら醗酵して膨らんでいるだけあって、どことなく「ふんわり」の感も内包している。噛みしめなくちゃいかんけれども、食べにくくもない。その微妙な具合が快感だ。

深く濃い、しっかりした印象を残す味。噛みしめる喜びをもたらす味。それは、肉を連想するようでもあるし、魚を食べるような満足でもある。オカズを呼びこむ風味、とでもいうのか。だがオカズがなくたって、これだけでも十分食べ続けることが出来るような気さえする。「重い」のは伊達じゃなく、「食事をした」という意識をドシンと打ち付ける貫録がある。

 と、脂身ハムとキュウリを一緒に食ってみると、…こりゃ合わせずにおかでか、進む進む。パンが余計、山の頂上から雪だるまを落とすように、食えば食うほどに食欲が出る。

 ウクライナの旅は、まだ始まったばかり。末恐ろしきかな、と、一人ほくそ笑む。

宿の居心地具合など、全くもってどうでもよくなった。