主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

豆乳おばさんとドーナッツ②~バンコク

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触らずとも手の指をぬめらせてくる、ベットベトそうな見た目。大きさは、「メンコ」…で分かりづらければ、「ポタポ○焼き」などの煎餅ぐらい。色は「鶏の唐揚げ」のような茶褐色で、荒れ肌を晒している。丸いといっても辛うじてのマルであって、楕円とも違う、歪んだ――言うならばジャガイモのような輪郭だ。

膨らんではいる。厚み二、三センチはあるが、これまた均一でなくボコボコしており、重ねて積んであるから「へちゃげている」という印象を抱いてしまう。とはいえ、その頂点に置かれたものにしても同様で、なんというか、廃棄場に持っていかれたポンコツUFO、という感じ。そして、おまじないのように、表面にゴマが少々。振ったというよりも、器から零れたのが間違って付着した、というように、パラパラとくっついている。

どちらかというと、「おいしそう」という気が起こらないソレ、「揚げパン」。――だがヒョイヒョイと、なぜか売れてゆくのだ。プレーンな豆乳(具無し)ひと袋につき、三つ、四つ、というペースで。トレイの上にもう無いじゃん、となったら、後ろから「追加」がドサッとやってくる。

息子である。高校生を抜けたか抜けていないか、という歳のほどの青年がエプロンをつけている様はまるで家庭科の調理実習なのだが、豆乳おばさんからは振り向けばすぐの、三、四メートル後方の路地において、ひとりで「揚げパン専門店台」を構えている。揚げ油の入った中華鍋も、生地を伸ばす台も上手いことはまりこんだ、車輪のついた手押し式移動屋台であり、彼が、家で仕込んできたのであろう生地を成形し、揚げている。そこに行って揚げたてを買うことももちろんできる。

だが、豆乳と一緒に並べている方が、どうも売れ行きが良いらしい。納品したら一言もなくサッサと翻り、揚げている最中の中華鍋の中身をまたつつき始める。若いのに、戸惑いもなく、手慣れた動作を遠くから眺めていると、「調理実習」と呼ぶのは全く失礼な気がしてきた。

ともあれ、揚げパン単独で商売をするというよりも、母親の商売に必要な揚げパンを、息子が後方で支援している、という図らしい。

 

豆乳に具を入れただけじゃ満たされない腹具合にある中で、気まぐれの隕石が振ってきた。

指をさして「一つ頂戴」。

言うと、全てを察する観音様顔で、やはり豆乳を袋の中に淹れながら、「ん」と軽く、聞き流しているかのように愛想なく。忙しいのである。

トレイに残り少ない一つをビニール袋越しにつかみ、そのまま渡してくれた。ビニールを持つんだから安心して持てるが、ブヨブヨを想像していたものの、意外としっかりした感触で、父のお気に入りの固い枕のようにそう簡単に指跡はつかない。メンコ大(せんべい大)のわりには、結構ズシっと重みがある。吸い込んだ油の重さなのでは、という不安もよぎるものの、とにかく口に入れてみた。

手の感触そのままに、弾力がある。…などと思いながら咀嚼していると、「甘い」というのがまず分かった。

――すごく…、…美味しい。

いや、すごくってこともなかったのかもしれないと、今振り返ってみれば思うけれども、予想がマイナスだっただけに、プラスへと変貌したその飛びっぷりに、自分でびっくりしたのだ。

 

この甘さがステキだ。

タイの「甘いもの」というと、砂糖の糖度がおかしいんじゃないかというぐらいに「極」甘が珍しくないが、ただ砂糖の多い・少ないに由来するのとは違う気がする。ほんのり、儚げな…。でも「控えめ」とは言わず、「過不足のない」感じが見事だ。

そして見た目に反し、ヘニャッと簡単に萎れて丸め込まれない噛み応えが良い。唐揚げ色からすると、発酵したパン生地を使って揚げるフワッとしたタイプよりは、外側がサクッとしたケーキタイプのドーナツ(ベーキングパウダーで膨らませる)を想像するのだが、あの歯切れ良さよりももう少しスクラムを組んだ、カッチリした力がある。

食んだ断面を見てみると、膨張剤に因る縦に伸びた気泡あるが、均等できめ細かいとはいえない乱雑な穴ぼこで、火事場のクソ力の如く、固い生地をガンバッて持ち上げた努力をビシバシと伺えるようだ。膨らんだというより、躍動感。メリメリと大地を突き破る植物の芽のように。――「裂けた」と言った方が、合う。

まず想定された、「油っぽい」という負のイメージはついぞやってこなかった。それどころか、プラスでしかない。

モグモグと噛みしめる。だからこそ気付く、…気付きたくないが否応なしに気付いてしまう、生地と油が反応して生み出した、その成果。揚げることに因る、香ばしさと甘さって「旨いもんだなぁ」。

…ヤバイ気がした。求め続けるようになってしまえば、また――。

さらに、「お飾り」にも見えないゴマが、どっこい侮れなかった。摩訶不思議なことに、これっぽっちの、そのちょこっとの風味が、全体の橋脚を補強する立派な調味料の役を担っている。固めの噛み心地や、揚げたことによる油の染みわたり方等の条件の上から、最後にゴマがトドメを刺し貫いてバランスをとっている。これがあるからこそ、全くもって溝にはまった甘味であると確信できるのだ。

一個で済まず、三つ平らげてしまった。

体重増加の影が、チラついた。

 

いつしか豆乳から、円盤目当てに通うようになった。

「食べる?」とおばさんかの方から訊いてきたことは、一度もない。「もう一個」と言っているにもかかわらず、「あ、そうなの」とそっけない。ちょっとぐらいお勧めしてくれたっていいのに、とブツブツいいたくなるぐらいに旨いのだが。

 

                             (最終訪問時2007)

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豆乳おばさんとドーナッツ①~バンコク

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前をじっ、…と、見ている。

バンコクの、とある交差点の近くにて、丸椅子に座り、低くもなく高くもない、肘を置くのに丁度いい高さのテーブルを前に、横断歩道を行き交う人や、左右から横切る人を眺めている。

時折、テーブル傍らの鍋のふたを開けて覗き込んだり、引っかけておくべきビニールを補充するためにその背をかがめたりするが、たいてい、前を向いて頭は動かさず、細い瞼の奥にある瞳だけをキョロっとさせている。唇はキッと閉じられたままの一定な表情で、誰かとお喋りに花を咲かせる、という場面も見たことがない。

浮き立つ、明るい赤の口紅。おかっぱ丈の、もじゃもじゃ髪。イメージとして浮かぶのは、「観音様」の絵だろうか。…とは言っておくけれども正直一見してはまるのは、昔流行ったバラエティー番組「オバ○リアン」―――自己中心的で、動作はなりふり構わずヤケクソ的、とかいう年配女性への偏見の塊――のイメージなんだけれども、思い起こしてみればいつも身だしなみには気を遣い、その動作は楚々としていた。訪バンコクその時々によって多少長さは違うが、髪の毛は常にパーマを心がけているようで、たいていウエットに整い、カチューシャでオデコを出すのが定番。ポッチャリしたお腹を誤魔化したいのか、いつも緩めのシャツを着てはいるが、お父チャンと兼用などといわせない、襟首には装飾があったり、金色の大きなボタンがアクセントだったりの、れっきとした「婦人服」。そしてロングスカート。ズボンは確か、見たことがない。通常、近所内のスーパーにしか出入りしない母が、月に一度、町中心部の大きな銀行に出かける時のような「ハレ」の格好、とでもいおうか。

珍しく、閑古鳥だろうか。その横にちょこんと座っている私は、今はただ一人、丸椅子に座るここの客である。

こちらの視線にはとっくに気づいているだろうが、「なにか?」などと目を合わせることはない。ただ道を眺め、そのついでにこちらが視界に入っても、途端にすぐ流れてゆき、「どうして一人でいるの?」などという、旅の中でしばしば向けられる問いをかけよう気もないようだ。まぁ、一発で外国人とわかるから、話が通じないとハナから思っているのかもしれないが。

自然に放ったらかしてくれる、という感じなのがいい。見られていることに逐一反応されないから、こちらも遠慮なくジロジロと観察する。

豆乳を飲んでいる。いや、飲んでいるというというよりも、プラスチック製の汁椀にそれは入り、ステンレス製レンゲを使って、啜る。温かく、しかも甘い。かつ中に「具」も沈んでいるからして、単に飲料と言うよりも「デザート」、そう、ぜんざいを食べているような趣がある。

豆乳はもともと好きじゃない。というより、何故飲むのかナゾと思うほどであったのだが、お椀に入ったぜんざいスタイルというのが思うにミソで、「甘いもの」の外見だとつい手を出してしまうという、私は甘党。これが単にコップだったならば、あまりとっかかろう気が芽生えなかったかもしれない。実際、その液体はざっぽり甘いし、日々、常識とばかりに購入してゆくここの人々に倣い、自分もトライを繰り返すうちに豆乳の味にも慣れ、「飲みたい」気持ちも生じるようになった。

くじ引き箱のような大きな容器にたんまりと入っているのは、グラニュー糖。まず、その中からレンゲに大盛り一杯ザバッ、プラス気持ちチョロッとを汁椀の中に入れたら、火鉢の上の寸胴鍋になみなみとある白い液体を、注ぎ入れる。湯気をたたせたミルク色の汁は、見ているだけでなんだか、優しい…。

おそらく薄めているのではないか、「豆腐」を即想像するまではいかない、豆乳自体はあっさりめの味だ。…と、口に入れた瞬間は冷静に味の分析をするものの、湯気に撫でられ、甘さにほだされてゆくうちに、心もほんわか絨毯に転ぶ。沈んでいる具の食感に遊ぶうち、これはイイ、という気がしてくる。豆乳とは朝と晩に定番なもののようで、特に朝っぱらの寝ぼけた頭を包んでくれる優しさには、「ホッとするわぁ…」。その心地よさが「美味しい」へと転換されてゆくのは、そう難しくない。

ちなみに、「具」ってなんぞや。

選択肢は四つある。まず、粒をバラした「トウモロコシ」。奥サマの真珠玉のような、透明な「タピオカ」。そして最初煎り豆かとも思ったが、「蓮の実」。もう一つには、コレ、私の好きな「カエルの卵」。…なわけはなくて、黒ゴマの周りを透明な膜が張ったような、不思議な粒で宇宙的。のちに知ったことによると、正体は「バジルの種」で、種を水に浸けると一体何を思うのか、半透明な物質を出し、膜となって粒を覆うらしいんだけれども、見た目は「カエルの卵」だ。わらびもちのようにネチッとして、噛むとプチッとキウイの種のように弾ける感触が面白い。もちろん正体を知らずとも「カエルの卵」などと本気で思うことなく、「…に似たもの」と思って食っているのであり、もし本当にそれが本物(「カエルの卵」)だったとしたら、私は自分をどう解釈するだろうか。

テーブルの上に据え置かれた、水槽のようなガラスケースには、直径一二、三センチの丸い容器が四つ並んでいる。これはもとは弁当箱で、アルミかステンレス製のそれを、ちょうど出雲の「割子蕎麦」のように二段や三段に重ねて持ち運びするという、この国独特、…というよりこの近辺の国々(タイやラオスベトナムカンボジア、そしてインド…、)で良く見受けられるもので、お昼時に市場などをぶらついていると、一段にはご飯、あとの段には炒め物各種を詰めて花見弁当よろしく広げ、数人でつつく店員さんの姿を見かけたりするもんである。じゃあ今年の花見は…などと、発作的にソレ「欲しいな」と思ったりもするが、実用を目指して買ったものが、現在「飾り物」として埃を被っている棚の先住品幾つかが思い浮かび、成り行きが見えるから買ってない。旅先で「使いたい」「欲しい」と盛り上がった気持ちは、帰国すると、潮が引くようにスゥッと後退し溶けてゆくこと、いまは承知している。

ともあれ、使わなくなって家に持て余していたのか、その四つのアルミ容器に、四種の具それぞれが入っている。砂糖を入れた後、「具は?」とは喋らないけどその細い目で問うてくるから、一種類だけもいいし、なんと全種類入れて欲しい、と言ってもいい。要はトータルで「ひとりぶん」となる量を、おばさんがだいたいの感覚でヒョイヒョイと汁椀の中に(レンゲで)放ってくれる。

もちろん、具無しでもいい。そういう人も珍しくない。が、私としては「デザート」なのであるし、値段もなんと変わらないから(具無しだと、その分豆乳の量がちょっと多いようだ)、当然「要る」と言う。

どうせなら全部入り(ミックス)をと思うが、トウモロコシは日本で食べられる。最初こそタピオカも選んでいたが、次第に慣れてしまったから、それでカサ増しするならその分「カエルの卵」を楽しみたいと、たいてい何十匹分かをザクッとそれのみ。或いは蓮の実をプラスしてもらい、そのホックリ食感を楽しむ。

どちらかというと「アンミツ」と言う方が近いだろうか。いや、主役はあくまで汁だから、やはり「ぜんざい」か。…などといちいち思いながら食べる方が、ゆっくり座っていられるというもんである。ヒマなんだから。

 

無言だ。

気まずさなどはない。このまま時はスコーンと流れ続けて幾久しく、…と思いきや、おばさんの片手が、弁当箱に押さえられていた、小さなビニール袋の束へと動き、そのうちの一枚を引っ張り出した。

手でその口を擦って開いたらほんの少しだけ折り返す、…という動作ながらも、顔は真っ直ぐのまま。その視線の先を辿れば、人。とはいえ、ずっと人はパラパラと行き交い通り過ぎているんだけれども、いま束になって向こうから道路を渡ってくるその中に、よく見ればなんとなく、こちらを向いている気がしないでもない顔がある。こちらめがけて歩こう意思のある、ひとり。…あれは、きっと「客」ではないか。

目ざとい。どんなに多種多様な緑にまみれた山の中でも、「山菜」を探し当てる父の目は天下一品であるように、お客の気配を察知する能力は、伊達に商売やってんじゃないワヨ、ってか。観音様の目で分かりにくいけれども、卓球のタマを追う選手のような、或いはシンクロ選手たちの演技をチェックするコーチのような鋭い眼球で、実はずっと「客感知」のセンサーをピンと張っているのだ。

案の定、「その人」はお客として前に立った。そうして、テクマクマヤコン…と注文の言葉にふんふんふんとおばさんは頷きながら、しかし特に何か返事をすることもなくキッと唇は閉じたまま、下を向いて傍らの鍋蓋を開く。開眼するようであるのが、その置き場にオロオロする必要などないように、蓋のつまみと鍋の取っ手がヒモで繋げられ、取った蓋はぶら下がるようになっていること。オぉ…、バザーの時に、いいかもしれない。

先にめくっておいたビニールの口を、指でうまく引っかけて(口を)上に向けたら、そこ目がけてザバッと砂糖を気前よく。続けて、鍋からステンレスカップですくい上げた豆乳を、うまく注ぐ。「お玉」だと柄を持つ手が震えそうだが、カップの方が確かに注ぎやすい。

さすが、垂らしも零しもせず、またその口を締めるのも見事。金魚すくいのように、パンパンに空気が入るよう巾着に閉じると、輪ゴムをグルグルっと巻いてパチンパチン、どうにかこうにかして引っかけ、留める。単なるビニール袋でも、輪ゴム一つで液体を大人しく収めることができる。でもすぐゴムがはずれちゃうんじゃない?こぼれちゃうんじゃない?などというのは杞憂で、密閉されていることの完璧度は高い。初めのころはホォと目を見張ったものだが、この「ビニール詰め・輪ゴムグルグル」はジュース屋はもちろん、惣菜屋でオカズを持ち帰る時など必ず目にする、タイにおいて極々おなじみの技だ。(が、昨今ジュースに関しては、グルグルする必要のない「取っ手」がついたビニールや、紙コップが主流になってきている。伝統の技が廃れてゆくような、一抹の寂しさを感じなくもないが。)

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滑らかな動きでグルグル・ペチンと、三袋目のゴムを留め終わった。具は無しか?と思いきや、ビニールをまた開いて、今度はタピオカをレンゲですくい、ネチっとくっつくのをしごき取るように中に入れ、カエルの卵も何杯か詰めてから、それだけでグルグル・ペチン。「豆乳三つ頂戴」の注文にしてはちょっと言葉長めであったのは、「具は別にして」というオーダーが付いていたからか。具って、入れっぱなしだと悪くなるのか。麺のように、伸びちゃう、とか。

そうして、豆乳三つに具一袋を、脇に引っかかっている、これは手提げのついた大き目のビニールに入れて差し出し、引き換えに代金を受け取る。おばさんの表情は実に、常にクールだ。

と、既に次のお客が斜め横に立っていた。

その後ろから、顔を覗き込ませていた人が、私も買おうかな…と決めたらしく、手に小さな小銭入れを持ってチャックを引き、中に指を入れている。

ピッチがあがる。速いのは急いでいるからでもあろうが、全てのものが、最小限の動きで済むよう配置されているから、手が流れてゆくこと川の如し。波に乗って滞りがないのだ。ビニール袋が引っ掛かるその位置も、長年の経験から編み出された角度だろうと確信が持てる。

行列は人を呼ぶ。いったん集まり始めたら、目論んでたのか、というぐらいお客は溜まってくるもんで、横断歩道を歩いてきた人がみな、こちらに向かってきているのではないかとさえ思えてくる。ますますコトを加速させねばならないが、てやんでい、その手さばきはブリをさばく魚屋にも劣らないだろう。

人通りの多い場所だからして、見かけたついでに買う人もきっと少なくない。そして殆どが持ち帰りだ。テーブルを二つも三つも置くスペースはなく、おばさんの商売机と、他に丸椅子が二つ(おばさんのと合わせて二つのみ、という時もある)置いただけの小さな露店である。つまりはほぼビニール詰めだから、この場で食べる方が、お椀に注げばいいだけで手間がからないだろうに。…いや、お椀だと洗わないといけない。――なんて、どっちがラクか、などということはあまりに次元が違うと蹴っ飛ばされそうだ。ただ、やるべきことをやりこなす。

この調子だと、その砂糖入れの中の砂糖が空になるのはそう遠いことでもないのだろう。一袋(その場で食べる場合はお椀一杯につき)五バーツ(=約一五円)と、まことにもって買い易いし。

 

たかが「豆乳屋」、されど「豆乳屋」。そう、豆乳は、砂糖ドバァの「とっても甘くして飲む」という共通理解のもと、近隣のラオスベトナムカンボジアでも一般的であるのだが、なかでもタイではより浸透しているもののように映る。朝晩が定番であると述べたように、どの町においてもこれを見ることなしに一日は始まらないし終わらない。

ちなみに、ここのように具があっても無くても同じ値段であることがたいていである。先述したように、「具無し」の場合は少々豆乳量が増えたりするものの、それを考えても具はそこそこの量にすくってくれるもんだから、どっちがいいかというと、やっぱり私としては「具入り」の方がお得感あるように思える。気前イイじゃないのよ。だがそれはコーヒーの砂糖入り・無しに値段の差をつけるようなケチくさい、ささいなことなのだろうか。(…そういうトコもあるけれど。=ロシア)

だだがしかし。見ていると、「具無し」で買ってゆく人が少なくないのだ。「具があれば具が欲しい」というのは素人の考えなのかと思えてくるほどである。こんなに売れてゆくのに、具は果たして、弁当箱に入る量で間に合うのだろうかと思ったが、豆乳オンリーが殆どだから事足りるようだった。

その代わりに、である。

ひょいひょいと、オンザロック用サイズの小さなトングで掴まれてゆくのが、実はこの弁当箱四つの隣に並ぶ「揚げパン」である。トレイに山盛りに積み重なっても、すぐにその嵩を減らしてゆく…。

 

                           (最終訪問2007年)

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ヘラを制す ~ディヤルバクル ④

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「トントン」おめかしされ、ドキドキとその時を待つ生地に、向かいからニョッと伸びてくる大きな腕――Fさんである。

眠っている子供を抱きかかえるように、両手を生地の下に差し入れて、台からさらってゆく。宙で生地が、だらんと素直にしだれるので、素早く「巨大ヘラ」の上へ。

「巨大ヘラ」と言うのはまさに見たまんま、鉄板焼き用のようなかたちであるからで、まぁ「しゃもじ」でもいいんだけれど、悟空が持つような柄の長い棒の先が、平たい板状になっている道具で、板の部分に生地を載せ、窯の中へと出し入れするものである。木製。

その上で、形を整えつつ生地を広げたら、柄を握り、赤み差す「窯の内部」へとススッと突っ込ませる。さあ、輝け。

横になった人ひとり入れるかどうか(CTみたいに)、という大きさの入口だ。…何かスースーする、と思うと、そうだ、「フタ」がない。もともと無い。入口の穴が開きっぱなしの窯である。

約二メートルの位置から見える窯内部は、石が敷き詰められた壁に、天井はドーム状。熱いから、首を突っ込んで凝視できないが、おそらく六畳…いや八畳。いやもっとあるだろうか。「秘密基地」を連想する、冒険心くすぐられるような空間にも見え、「いつか入ってみたい…」などと、オトナが見ていない隙を虎視眈々狙う子供がひとりやふたり、どこかにいそうだ。(アブナイから絶対にやめましょう。)S君あたり、バレて大目玉を食らったことがあるんじゃないか。

話を戻そう。「奥」へと突っ込んだら、サッとすぐに勢いをつけてヘラを引き、生地を窯の中に置き去りにする。つまり生地は、窯の床に「直に」触れて焼かれる(「直焼き」)。生地を載せる為の「天板」を使うことは無い。

熱源は、「薪」。

窯に向かうFさんのすぐ背後にある、窯口と同じ高さに設置された、焼けたパンが放り出される広い広い台の下は、薪の置き場所になっている。ついでにそこは子猫の隠れ家にもなっているのだが、「火が弱くなったな」と思ったらその都度、そこから一本か二本か抜き取って、入口から、窯内部のスミっこめがけてボンッと突っ込む。つまり、パチパチ火が燃えているその横で、生地が並べられ焼かれている、ということである。

一応は、炎が上がっている部分とパンを焼く部分は、一斗缶のようなもので仕切られているのだが、結構邪魔なのだろう、薪を放り込んだ際、ガンッと「仕切り」が倒れた音がして、もぅ…と、Fさんはそれ専用の長い棒をとりだし(パン用ヘラを使うと、ヘラが汚れてしまう)、エイエイ、とつついて直すことしばしば。

ちなみに、多くの、というか私としては「殆ど」といいたいぐらい、どのフルンでも薪は普通に使われているようで、電気のところはイスタンブールで見かけたぐらいだろうか。かつ話を聞くと、「薪でこそウマイ」という意識も存在するようであり、焼き鳥や焼き肉が、ヒーターやガスよりも炭火焼の方がなんとなくウマイ、というのと同じだろうか。

思うに、赤外線等のナントカ効果云々以前に、薪の、パチパチと踊る自然の炎の姿には、「生命」を感じる。窯の中で、それは意思を持って生地に魂を吹きこんでいるかのような臨場感があり、ガンバッて電気製品を開発している技術者には悪いけど、同じ「焼く」でも、そうやって出来上がったパンの方が、より、何か奥深いもの、奥深い味、奥深い香りを抱えている気がする…。

 

手ぶらで戻ってきたヘラの上に、再び、成形された生地を載せて――を、一つずつ繰り返す。

 成形しては、焼いてゆく。「成形台」が横付けされている所以である。つまりMさんとFさんは、ヘラと成形台を挟んで、向かい合って作業しているということだ。

成形できなきゃ焼けないから、窯係は常に「まだぁ?」と待ち状態にある…というわけでもなさそうで、Fさんが「生地を一枚抱き上げて、ヘラにのせて突っ込み終わる」までに、成形係・Mさんの手は、一・五~二個のペースで仕上げてゆく。止まることない流れはまさに、あ、うんの呼吸。待ちぼうける時とは、ちょっとくしゃみとか、ア、(薪置き場から)猫が出てきた、と顔を緩めたりして、Mさんがペースを十秒ぐらい止めたときぐらいだ。或いはこちらのカメラに気づいてポーズ取ってくれるとき。…あぁまた邪魔しているが、そのくらい、邪魔していいのかもしれない、とも思う。機械じゃないんだから…。

――余裕がない。焦って、という意味ではなく、無駄なものが何一つ入り込む余地がない。

「平焼きパン」は厚みがそれほどでもないから火通りが早く、小サイズだったら五分程度で焼きあがる。とはいえ途中、窯内部には熱の強いエリア弱いエリアがあるから、火通りを均一に、美しく焼き上げる為に、生地を一度取り出して方向を前後「逆」にしてまた戻したり、位置を移動させてやったり、という作業が必要になる。更に、台の下の、薪の収まっている中から「ミーミー」と子猫の鳴き声が聞こえると、エサ(パン)を放ってあげねばならないし、私がカメラを構えたらポーズして…と、イロイロお世話することがあって、モー大忙し極まれり。フタがないのもうなずけるというか、フタを開閉するヒマもない仕事量なのだ。フタが無くて、温度ってダイジョブなのだろうか、とも思ったもんだが、それが薪の炎の威力というモンなのだろう、きっと。電気とは違うのだ。

だがFさんの表情とは、穏やかだ。タレ目だから余計にそう見えてしまい、油断してつい気軽に話しかけてしまう。よくみりゃ鼻筋通った、…っていうかここの人たちって男女ともに彫りが深い鼻筋通りまくりの顔付きなのだが、俳優的なダンディーな雰囲気で、こっちはこっちでモテそうだ。突然「お父さんとお母さんはちゃんと元気で暮らしているのか」とか、「ひとりで困っていることは無いのか」とか、田舎のおじさんみたいなことをいきなり言うから尚更、疲れを心配するより先に、ただホロッときてしまう。

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 ――出るか。

「カラ」のヘラを、窯内部に深く、スッと素早く差し込んだら、スルスルと引き寄せる。と、その上に現れたるは、フックリと肥え、焦げ色まとった、それはパン。アッツアッツを、Fさんは素手で掴んだら、広い台の上にボンッと放り出す。と、電話帳とか漫画雑誌とかを投げつけたように、「バフンッ」と貫禄ある音がする。

芳香の正体はワタシ、という感動に酔っていられない。容赦なく次から次へ、ワタシワタシと放りだされ、台の上はごった返しておおわらわ。

  

ドタンバタンとヘラを取り替え、シュッシュッと出し入れする。

取り出してみても、「まだだな…」と、納得のゆく焼き色になかったら再び戻し入れ、私だったらありがちな「まぁいいか、」という妥協はない。パンを焼くのに、中途半端にはしない。

冬は、窯のそばに近づくとホンワカ温かく、気持ちまで落ち着いてくるようだが、夏は「ウッ…、」――ムワッと押し出されてくる熱気に、思わず息を止めてしまう。いくら湿気が無いとはいえ、夏は四十℃を越える「熱さ」のディヤルバクル。そんな中での「窯係」、しかもフタもないんだからこれはもう、比喩も何もなく炎の中に自分を晒しているのであり、いつ倒れたっておかしくないんじゃないか。私はモチロン見ているだけであって大きな声でいえないのだが、窯の近くにいると、めまいさえする。

それでも逃げない。当たり前だが、逃げたらパンが焦げてしまうのだから。最後まであい対し続ける。それが仕事だ。

軟弱者な私としてはスイマセン、心持ち離れてその姿を見守るのだが、しかしあまりに当たり前に窯と向き合っているFさんを見ていると、これを「スゴイわ」と珍しがる方が特殊、という気にさえなってくる。「窯の仕事」とはそういうもんだという覚悟など、朝飯前に済ませました、という余裕に呆気にとられる。

アツアツをものともせず、パンを放り投げる。投げる。また、投げる…。

窯入れとは、仕込みから始まった生地の総仕上げ。生地の背後には、妖精Nさんの、そして家庭人Mさんの、汗と涙染みた愛情がある。手塩にかけた子供たちを、見放すわけにはいかないのだ。

延々と続く作業の中、ムッッとくる熱にあっても見失わない、誠実、的確な仕事といい、ヘラの擦れる、キレのある音といい――「大きい」。がっしりと広い肩幅で長い棒を自在に操る姿は、まさにフルンの総元締めといっていい。

ミィ…っと撫で声を出す子猫とのコントラストもあってか、Fさんがとても大きく見える。

ヘラを振るい窯を制する、Fさんはまさにここの大黒柱。「かあっこいいぃぃぃ…」と、なす術なくヘナヘナと、こちらは心打たれてばっかりだ。

 

                          (最終訪問時2013年)

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成形演奏会 ~ ディヤルバクル③

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「窯」に隣接された、タタミ一枚程の成形用台の上には、手粉がたっぷりと振りまかれている。一見、おが屑を連想するその薄茶色は、「ふすま」のみなのだろう。つまり、小麦を小麦粉へと製粉する際に、白い粉となる胚乳から分離される「外皮」部分である。この粉末を数割混ぜ込んだ「全粒粉パン」などは日本でもお馴染であるが、それが、まるで砂丘の砂のように非常に細かく粉砕され、特に台の角っこ部分、好きなだけ使えとばかり盛られている。

Mさんは、奥の間から妖精Nさんによって放られた生地の一つを、片方の手のひらで上からペタっと押さえる、と同時に貼り付けて、そのまま持ち上げて自分の正面に連れてきた。おぉ、吸盤。

今度は両方の手のひら・それも小指側を少々立てるようにして生地を押さえると、そのまま中心から左右に「グイッ」と引っぱるよう、大きく広げる。感じとしては、ストッキングを履く前に、中に手を入れて広げる「グイッ」である。それを九十度回して、また同じように左右に「グイッ」。またまたもう一回ぐらい「グィッ」と、さらに伸ばす。

生地がべっちょりしているから、つまり水分多めに柔らかく仕込まれているからこそ、「伸ばし」もやり易いのだろう。…というか、「この為に」柔らかい生地である必要があるのでは、と気が付くのだが。

グイグイさせたら、結果、縦長の台形というか、「なんとなくダルマ」の形になっている。そうしたら、表面に模様付けをする。

まず傍らの洗面器の中に入った水にサッと手のひらを浸し、生地の表面全体を撫でて濡らす。これは手粉ならぬ「手水」である。

生地の縁部分は、伸ばし広げた際、手のひらのとっかかりというか、引っかかり部分となっていたから必然的に太い。その太い部分のふもとを、手のひらの側面(小指側)で、スッと線引くように跡をつけて、「縁」を明確にする。何を連想するかと言えば、「坊さん」。「合掌」の片手というか、お坊さんが念仏を唱える時の、空を切る手の動きっぽい。

それを、縁一周。これで、はしっこが太くなったのは成り行きで、という言い訳的な曖昧さは消え、「『敢えて』そう成形した」と明確に意思表示される格好となった。

この「額縁」をつくる場面は、「平型」を専門に焼くたいていのフルンで、わりあい丁寧にされているところをみると、芸能人は歯が命というような、押さえるべきポイントではないかと思われた。ラクガキのようだが、立派な「額」に入れてみたらマンザラでもない絵画など、シロウト的額縁一般論を思ったりもする。

「額縁」ができたら、次はその内側。

ダルマのど真ん中に、縦に一本の線をスッと描いたら、またそのど真ん中に、今度は親指以外の指先を、横一列に「トン」と押し付ける。と、つまり縦線と直角の「点線」ができる。

今度はそこを基準に、先ほど付けた額縁線との真ん中部分(全体では四分の一の部分)に、「トントン」と、生地に穴が開くぐらい、しっかりと跡をつける。ピアノを弾くように。

 

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額縁の中には、点線で仕切られた四角が出来た。二つ×四つの、全部で八つ。

これが一人分。…かどうかは知らないが、おそらく「一人でなんとか食い切るだろうサイズ」であり、このフルンでの「小」サイズ・生地三百グラムのものである。倍の六百グラムの生地には、四角が「五×三」の十五個となる。

 跡を付けておいた「額」のふもとにも、念押しのように、改めてもう一度「点線」を押しつける。これで、よし。

なんだか、タイルみたいだ。…タイルだろうか。イスラム教の礼拝堂・モスクには、芸術的なタイル装飾で知られているところが多々ある。それとの関係は?

ところでこの作業は模様付けというほかに、生地に跡を付けて空気を抜くことで、焼成による膨らみを防ぎ、平たい形を維持する為でもある。トントンしていない部分だけが(膨らんで)浮き上がり、結果ダウンジャケットの「モコモコ」のように焼きあがる。

ちなみにこの店には、あともう一種類、青空に靡く「幟」のような、長い長い平型パン、というのがある。この成形は、両手のひらをまさに吸盤にして生地に吸着させ、左右に目いっぱい引き伸ばせるだけ、ストレス発散とばかりに引き伸ばすもので、この場合「トントン」はしない。窯の中で、生地は熱によって膨張するものの、「ダルマ」とグラム数は同じだから当然生地は非常に薄く、膨張の形状を固定できずしぼんでしまう。そのしぼんだ跡が、かえって焼き上がりにたわみ、しなりを生み、まさに布のような感触をもたせるのが面白い。

とはいえそれは、仕込み全量の一割程にすぎない。圧倒的多数は「ダルマ・モコモコ」タイプであり、また、ディヤルバクルにおいてどこのフルンの平型も、同じスタイルで主流であることは、共通していた。

「一点入魂」とでもいうべき、指先トントン――これが、成形作業の「基本」。

生地の数は膨大で果てしないものの、成形係・Mさんのその視線は、どんな波の前にも揺れることなく、常にそこですっくに佇む灯台。冷静な面持ちで、トンと押すその「点」一つ一つと向きあっている。

「トントン」ぐらいできそうだ。ただ押してりゃいいのでは――なんて考えは、愚かだ。表面いっぱい、星空のように押しつけるとしても(またの機会に触れるが、そういうバージョンもある)よく見れば実は整然とした列が存在するようで、そこには「世界」が存在している。トントンしながら、今日はハンバーグが食べたい、などと考えて時間をやり過ごす余地などきっと無い、集中力の現れだ。

――三十半ば、といった感じか。長身に、白く長い前掛けがよく似合う。細身だから華奢なようにも映るが、この生地の波は、相当な持久力を保持していなければやりこなせるものではない。それは他のメンバーと同じだ。

そこそこオデコが寂しくなりかかっているこの人は、なんというか、非常にスマートな雰囲気がある。仕事中は、狼狽えたり焦ったりすることなどまるで知らないようなクールな表情に常にあり、その作業は手早くも丁寧、几帳面なところが、生地にちゃんと映し出されているのだ。ふと、戸棚の中も机の引き出しの中も、キチッと整理整頓する――そういう人が「成形」担当には向いているのかもな、と思った。(他のメンバーがそうじゃないわけではないだろうが。)食べ終わったお皿もそのまま放ったらかしにはせず、台所までちゃんと持っていくような気がする――ってさぁ知らないけれども、そんな姿が浮かんでくるのは、正直近づきにくい雰囲気があるんだけれども、思い切って話してみると、アラ意外と、であるからだ。いつもぶら下げられているよう感じていたカーテンはサッと消え、実は面倒見良さそうな爽やかな笑顔とともに、必ず反応してくれるのである。たぶんこういう感じは、モテてたろう…。

それはともかく。

考え無しのド素人(つまり私)が、「トントン」音だけ出してやってみたものとは、歴然とした差があるのはやってみる前から明らかであり、言わなくても分かり切っていることだが、だからこそ口に出してしまう、「…プロだわ。」の、ひとこと。

                              (最終訪問時2013年)

 

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トルファンのナン ~新彊ウイグル自治区

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「ナンに興味があります。」…ということを言いたげに、ジッと立っていた。

ハンチング帽をかぶって長身、その目鼻顔立ち…。誰にといえばもうこの人しか思い浮かばない、「いか○や長介」そっくりのおじさんは、タンドールの窯仕事に没頭していると思いきや、ちょっと近づこうと思った時点でもう、目をギロリとさせてこちらを睨んでいた。「仕事は見世物じゃねぇぞ」とかいうよりは、猫が獲物に気づいた、探るような目。ナン作りに見惚れています、などと説明したいのが、能天気に思えてくる。

まるでテリトリーに侵入してきた「不審者」である。その雰囲気に少々戸惑いながらも、中から出てきた年配の、おそらく奥さんに一枚買いたい旨を言うと、フン、と視線はすぐに手元に戻った。

…コワイ。けどべつに怒られる筋合いはない。ただソレを買おうとしているという、私はお客でしかないのである。

少々ムッとするのだが、通りに面した屋根のたもと、熱立ち昇るタンドルを前に黙々と仕事をこなす姿はカッチョイイ。タンドルとは、ドラム缶のような壺型の窯。生地を内部側面に貼りつけてナンを焼くのである。コンクリート製だろう、差し入れ口の穴がてっぺんにあり、そこに二本の、鉄筋のような長い棒を差し入れてクリクリ操り、銛のように円盤を貫いて、引き上げてゆく。またひとつ、またひとつ…と。

よく見てみよう。昔流行り、欲しくて欲しくて何度ねだったか知れない円盤投げ(の円盤)を想起させる、平板な丸型。縁はぐるっとフックラ厚みがあり、中心部分は薄い。表面に引っ付いているのはどうやら玉ねぎのみじん切りだ。

 それが、「ここ」のパン。 

このタイプ、中国の西域・新彊ウィグル自治区であちこちと見かける。パンはここでは「ナン」と呼ばれており、この他、鬼かというほどに硬い、ドーナツ型のパンもまた名物とばかりに目につくのだが、私にとって初ウイグルの地・このエリアの中でも北東部に位置する「トルファン」では圧倒的に、円盤型が多く目についた。作り手はもちろん、その地の居住民族であるウイグル人である。

平均的な大きさは直径三十センチはあろうか、食べ切るにはデカ過ぎるなぁと一瞬戸惑うのだけれども、バサァッと放られる「焼き立て」のスグもスグ、というのを見過ごすわけにはいかない。

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だが、ソレを一旦口に入れてしまうと――そんな心配などまるで無かったかのように、あれよあれよと千切り取ってしまうことの不思議。

端っこは厚みがあって、フンワリ、かつモッチリと弾力がある。一方、内側は、パリッとした歯ごたえと香ばしさが快感だ。そのコントラストが、もとは同じ生地にかかわらず別物に思わせ、食べていて面白い。

玉ねぎの、しかもみじん切りを散らしただけという、シンプルな具というのもいいもんだ。出しゃばらず、でも確実に、ナンにアクセントを添えている。具というよりも、調味料の役割に徹しているのだ。

「焼きたて」という現実に、さらにお幸せに頬が緩む。割った中から立ち上る湯気と香りが、食欲の歯止めというものを崩してゆく。

「一枚なんて食えるわけが…」とおののいたのは一体どこへいったのか。結局全部食いつくしてしまった。ウイグルに踏み込んでゆくにつれ、この地で「焼きたて」のパンに巡りあうのはさして難しいことではないとわかればもうタガが外れたも同然である。何を大きい、何を小さいと見做すかなんて「慣れ」であり、いつしか臆するということも忘れてゆく。そうやって胃は肥大化し、肉付きよくして帰国に至るという毎度のパターンに帰結するのであり、いま振り返ると、ここがこの旅「帰国後の五キロ増」のスタート地点だったのか、とも思う。

                           (最終訪問時2008年)

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仕込み(成形) ~サワンナケートのカオチー④

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「カオチー」を作るために最低限必要な材料とは、「小麦粉」、「塩」、「水」、そして酵母・即ち「イースト」であるが、それに加えて少々の副材料が添加されている。

だいたい作業人員のうち、年若い「新入り」がその役を担うことになっているらしい、この「仕込み」。生地の配合を覚えるだけでなく、材料が混ざってゆく様子を眺め、捏ねあがった時のその感触を把握する。それがどう発酵し、果てはどういう風に焼き上あがってゆくのか――その変化を一から眺めてお勉強するのにいいボジションだろう。

まずは材料を計量して、機械でミキシングする(生地を捏ねる)。

ミキサーは、モーターが回れば「ナルホドここに引っ掛けられたゴムが、ハネ(生地を捏ねる「腕」を担う部分)を動かすのだな」などと見て分かる、その仕組みが剥き出しになった古い機械であり、それにセットする専用容器の中へ材料を投入する。容器は大人の両腕でその円周を余裕で囲うことのできる、業務用と言うにはこじんまりした大きさだ。

「カオチー」を作るために最低限必要な材料とは、「小麦粉」、「塩」、「水」、そして酵母・即ち「イースト」である。

今回、三人のうちの末っ子・ヴァンさんにひっついて、この作業を眺めているのだけれども、――ヴァンさんに限らずいつも思うことには、「大雑把ですなぁ」と、正直。

粉は、錆びたボロッちい量りの上に、それが二十キロ入っていた「カラ」の袋を載せ、その中へとドサドサ煙を舞い上がらせながら入れてゆく。粉は一回の仕込みに付き、五キロ。…とはいえど、目盛を一応は見るのだが、(量りの)ハリの揺れが止まるのを待つことなく、「これで良し」とパッ取る。

生地を発酵させるモト「ドライ・イースト」や「塩」は、家庭科の授業のように「すりきり」などとやるわけではなく、まぁだいたいスプーンに大盛り、とかであって、おそらく毎回同じではなさそう。

「水」。その量もまた数値は失念したが…というか、量りにプラスチックの青いバケツを載せていたのを確かに見てはいたものの、十分の一ぐらい残して、全部を入れてしまわない。後から、ミキサーが動いている最中に「足りないかな?」と残りをチョロチョロ加えるのだが、それでも余る場合もあるし、それでは足らずに再び蛇口をひねる時もある。

まぁ、水量に関しては、「生地の状態を見て」調整するというのは、パン作りに置いては当たり前というか常識的なことであるからは納得するとしても、一応量りはするものの目安でしかない、という感じである。場当たり的というか、あまりに肩肘張らない計量を前にして「それでいいの?」と戸惑ってしまうのは、毎日、決まった時間に同一の味でもって焼き上げねばならない「日本のパン屋事情」を引きずっているからだろうか。

…「イースト」の量が違えば、発酵時間が変わってくる。発酵時間が違えば、生地状態も変わってくる。

「塩」は、味付けや、生地のコシを強くするだけでなく、イーストの働きを抑制する作用を持ち、つまりは生地の発酵にも影響を与える。 

つまり計量の「正確さ」は、これから進行してゆく生地の発酵状態を把握するため、一定の品質を維持するためにも必要なことだと言えるのだが、――なんて、うーむと唸れど、窯から出てきたカオチーたちは、シレッと「いつもの顔」をして焼き上がってくるのだ。…もしかすると計量なんてものは、神経になるほどのことでもないのだろうか、目盛りを焦がすほど凝視するなど無意味か、なんて思えてくるぐらいだ。いや、そうではなく――「感覚」で分からんようじゃあだめでしょ、か。いい加減に見えて、実はバッチリ「正確」なのだ。……とも正直どうかと思うが、まぁともあれ、毎日毎回、その流れに乗っかって動く人間の体に染み込んだ「カン」の世界の話であり、シロウトが、最初から目分量でテキトーにやったならば、大失敗で大後悔の事態は免れないだろう。

 

スイッチ・オン。

「ハネ」は、ぼんぼりの骨組のような、巨大ホイッパー(泡だて器)型。電源を入れると数秒の助走を経て、真下に取り付けられた容器の中を、勢いよくかき回し始めた。と、ヴァンさんは、ハネにつられて一緒に回ってしまう容器部分を、両手で押さえ、時には逆方向に回してやるなどしながら、中の材料がまんべんなく混ざってゆくように調整する。車のハンドルを握るようなその動きには、手慣れているなぁ感がある。

ヴァンさんと「ちゃんと」対面するのは、今回が初めてである。ここにやって来るのはもう何度目かだが、今までヴァンさんはおそらく、軒先や室内を駆け回っていたチビちゃんの群れのなかにあったのだろう。

かつてのワンさんとは違い、目が合ったら必ず照れ笑いで返してくれるこの末っ子君は、まるで中学生のように幼く見える。…って「末っ子」に限らないというか、そもそも「三人兄弟」というのはこの工房内の「いま」に限った話で、年をかえて訪れたその度に、「ドウモ」と初見の兄弟姉妹に出会っているような気がする。いや、兄弟かと思ったらこっちは従兄弟、そっちはその兄弟、甥、姪…など、「ドウモ」「ドウモ」といろんな親族が出入りしているし、いまひとつ世帯の区切り線がよくわからない。初めての時からいつ訪れてもステキでカッコいい屋台のお姉さんを筆頭に、この人たちはいったい何人兄弟姉妹であるのか、そして何世帯が一つの家に同居しているのか、把握できていないままだ。

ホアさん、ワンさんはこの仕事に腰を下ろす決心をしたのだろう、いつからか、ここに来れば必ず会える職人となったようだが、作業場に三人いるうちのひとり・たいてい最年少であるメンバーは、訪れる度に兄弟(親族)間で入れ替わっていた。どうやら、外で仕事を見つけて自立するまでのつなぎとして手伝っている、という感じである。

とはいえ、毎日のことだ。鍛えられたものである。仕込み、そして「天板ひっくり返し」さえも時々兄たちに替わってこなす様は、もう新入りなどという位置は通り過ぎ、もちろん「お手伝い」という言い方はもの足りず、立派な「片腕」としてその地位を確立しているようだ。職人として、外の世界に出たって君はダイジョブ、と肩を叩いて見送れるほどに。

それにしても、ミキサーの回転は相当なものであり、摩擦熱が心配になってくる程だ。フツウ、フランスパンってこんなに捏ねないよなぁ、と思うが、ここではこういうモンなのであり、そうやって生まれる個性を尊重すべし。「『フランスパン』とは~」なんて能書き垂れようとも、ここはラオス。ソレはラオスの「カオチー」なのである。

あっという間・五分かそこらでスイッチを切ってしまい、もう?と、その中を覗いてみると、…ウン。滑らかそうな、搗きたての餅を思うような生地となっている。

となれば、次に行われたるは生地の「分割」。つまり「パンひとつ」の大きさに生地を切り分ける。…って、アラ?

――そういやそうだった、ココ。

捏ね上げたら生地を寝かせて放置する、というのが「パン作り」一般であるが、ここでは、それをすっ飛ばしてさっさと「次」の行程に進んでしまう。酵母は温かい場所(三十~四十度)で活動が活発になるが、ミキサーの摩擦熱に加えて、この室内温度――何をしなくても汗が滴り落ちる炎天下の時間帯(現在午後三時過ぎ)に、メラメラと窯では炎が躍っている、なんていう世界だ。酵母は目をカッと開いて活動する気マンマンにあり、歩幅を緩めない着実なペースでもって、生地は遠慮なく発酵し続けていることだろう。もし日本の「パン作り」のレシピをコピーして渡し、忠実に寝かせる時間を割いてしまったなら、過発酵もいいところである。

 

ヴァンさんは、ミキサーの傍に置いてあったバケツの中の水を、手だけでなく肩から腕にかけてたっぷりと塗らすと、臼から餅を取り出すように、生地をうまく抱え出した。そのまま、一歩二歩ヨタッとしながら、距離としては三メートルほど離れた木製の作業台へ、投げ広げる。デーン、と。

重力のままにビヨーンと垂れ下がる生地にヒヤっとしながらも――ほぅ、パン生地を扱う時はいつでも粉(手粉)を振るもんだと思っていたが、水というのがまた「餅搗き」と被るようだ。

対して作業台は手粉にまみれ、木の継ぎ目やキズのある隙間に入りこんだのが、白い線を濃く浮き出している。その上で、手もまた真っ白くした兄たちが二人、カシャカシャとスケッパー(生地を分割するための道具)を持って、やってきた生地を切りとり始めるのだ。

「スケッパー」、…とはいえ、製菓用品売り場に引っ掛かっているような立派なものではなく、定期券よりもやや大きい程度の、やっぱり「工事現場でいらないやつを拾ったでしょ」と発想するほどひどく擦り減ったもの。その刃を、生地の上から押し付けてパックリと切り込み、同時に逆の手を添えて、その断面を台にこすりつけるようにしながら表面を張らせて「丸い形」に整える。それを台のスミに置いたら、また塊から一つ切って丸めて、と、どんどんと並べてゆく。

この時点で既に、「焼き上がった匂い」が漂っている。…ような、気がした。

「(一回に捏ねる生地から)、四十五個出来るよ。」

手を腰にまわし、ホアさんは言った。

粉が五キロで四十五個ということは、と、諸々を計算してゆくと、カオチー一つがおおよそ一つ二〇〇g。バターロールなどの「小型パン」が、一つ五十g前後だから、その四個分とすると…。エ…?私。毎度、一度に全部食ってしまっている…。

太るのも道理である。「当たり前」と思っていた自分の許容量がどんどんと変化を遂げてゆくのもまた、長い旅の醍醐味でもあり――…あんまり、というか全然嬉しくない。あとの苦労(ダイエット)がたまらんのだ。

 

~成形

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生地を全て丸め終えたら、――切ったり、丸たり、の行為で負担をかけたことを謝るかのように、生地を少々・十五~三十分ぐらい放置して休ませる。この小休憩を「ベンチタイム」という。

…んだけれども、それもやっぱりすっとばして、「成形」の過程に進む。

生地を見てみる。一番初めに丸めておいたヤツだ。――あぁ、あったまったぁ、と、風呂からあがるような、上気し緩んだ顔がそこにはある。そう、醗酵しているのだ。最後の生地を丸め終わる頃には、自然と生地はベンチタイム後の状態にある、ということだ。 

「カオチー」のスタンダードといえば、棒状の両端が少々すぼんだ、ほぼ「ナマコ形」。ドッチボールのように丸い形を見たことがないことも無いが、ほぼナマコで判を押している。それは、同じくフランス統治下にあった隣国・ベトナムカンボジア同様だ。大きさは処によってまちまちだが、長さ二十センチを切るほどに小型であることはそれほどなく、ある程度しっかり食べなさい、という大きさをしている。ひとサイズのみで売られているところもあるし、大・中・小とサイズを取り揃えているところもある。サワンナケートのココはというと、一本食べきりサイズの長さ約二十センチと、三十センチの二種類。小さい方は、そのまんまでももちろんだが、具を挟んで売るのに使う。大きい方は、食卓で切り分けオカズと共に召し上がれ…のつもりだろうか。だがコメ(餅米)を主食とし、まさにそれ(コメ)がバックバクと進むようなオカズ世界の中で、パンに適したものは果たしてどれかというのがいつもギモンなんだけれども、まぁ、その話はまたの機会に。

丸めておいた生地を一つ掴み取り、台にペチッペチッと三度ほど叩きつける。反動でビヨンと伸びたのを手前に折り、その閉じ目から向こう側へクルクルっと巻いたら、ナマコ型の出来上がり。――と、こう書くとなんとなく、落ち着いて階段を上っているような感じではあるが、実際、この作業は三秒ぐらいでこなされてしまう。「クルクル巻く」というか、もう、「スッ」と、息を吐くように一瞬であり、タップダンスの足取りのようにスキはない。何個もやるからこそモノにしたリズムだろう。

ホアさんがまたまた言うには、「一日に約三百個」。――ほぅ、と頷く。

 

成形したナマコは、タンス箱の中へ。

捏ね上げた直後はあえて寝かせる必要はなかったが、成形後は別である。窯の中に突入するその前に、安静な状態で醗酵してもらう。いわゆる「二次醗酵」というやつで、要するに最終打ち合わせというか、晴れ舞台までのウォーミングアップとでもいおうか、生地に、英気を養って膨らむ気マンマンの体勢を整えてもらうのだ。

成形台と同じく、くっ付き防止の手粉を真っ白に振りまかれた中に、生地の綴じ目(巻き終わり)が確実に「下」になるようにして、置く。これが最終的な「かたち」であるから、発酵した生地がくっついて変形してしまわないように、間隔をとることにも注意して並べてゆく。

当然、二箱目、三箱目…と積み重なってゆく。大丈夫大丈夫、このパン用タンスはスミっこに二十箱以上あるんだし。…と余裕こいていても、仕込み続けたこの先、全部詰まってしまうのである。

意味なく存在するものは、ここにはない。

 

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 みんなその辺に座ってひと休憩、さぁさお茶でも、とするなどして、――約四十分後。

重ねられた木箱をずらして中を覗いてみれば、一つ一つ、生地はぷっくり膨らみ、柔らかそうな感触が見ただけで伝わってくる。発酵前とは違い、「表情」がある。まるで桃色をした子供のほっぺただ――などと凝視していると、木箱の中、生地の周りを「アリ」がチョコマカ健気に這っていた。

と、アリをジッと見るこれまたついでにつくづく思うのだが、…なんとまぁ、年季の入った木箱であることだろう。

積み重ねて中を外気から遮断しているようでも、所々、朽ちて穴が開いており、だからアリでもクモでも入っていけるのだ。…いやそんなことよりも――「おそらく『いい酵母』が染み付いているのではないか」と想像力をかき立てられるようなボロさではないか。

田舎の叔母が保存食を置いている、母屋の奥にある古い「蔵」を思い出した。――そう、この工房を纏う空気は、あそこに似ている。中に充満する独特の匂いは、味噌、そしてその他漬物類が染み込んだ、空間まるごとが発する匂い。空間が味噌の風味を作り、味噌もまた空間を作る、という、継ぎ足し継ぎ足しされて何十年とかいうウナギのタレのような奥行きある、空間。

「発酵」とは原則、環境によるものである。古いチーズ工房には「菌」が住みついている、というのはよく挙げられる話で、つまり同じモノであっても、それが育つ場所により、異なる風味を備えてゆく。

かつて、自然界に浮遊する「菌」を頼りに、各作り手が酵母を培養して生地を醗酵させていたのが、科学的に人口製造物である「パン用酵母イースト)」の発明が為されてからは、その使用が広く当たり前となった。イーストの粒は一見、薬の類のようでピンとこないが、人工的といってもれっきとした酵母菌。ここが地球である限り、自然環境と関わりながら息をする。

要するに、カオチーの味に影響を及ぼす「ここだからこそ」の菌もきっと根っこをおろしているに違いない、ということだ。そう期待させる、木箱の朽ちよう――深い皺を刻み、悟りを開いた老人を思わせるその奥深さに、ホレボレするのである。

シロアリが住み着かないことを願うけれども、ともあれこうして、この笑顔ほころんだぷっくり生地は、大爆笑すべく窯へと連れてゆかれるのである。

 

                         (最終訪問2010年)

 

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「菱形ビヨーン」 ~グルジア・トビリシ

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目にした瞬間は、ただその姿かたちに心奪われ、漏れるのはただひとこと――「ナニアレ」。

平型タイプならば、円形や楕円。フックラした立体パンならば、ボール型にクッペ(コッペパン)型に、箱型(食パン)、筒形、ちょっと変わってリング型や編み込み、花型などアレコレとあるけれども、このようなかたちは初めてである。

アメーバ、みたい。

そのカーブした輪郭に思い浮かんだのは、遥か昔に理科の教科書で見て久しい、アレ。ほぅ、縁がないと忘れ去っていた名称でも、ふとしたきっかけで心の深層から浮かび上がってくるもんだと感心するが、とはいえ一応、それは一応、どれも規則的に揃った形ではある。しいて言うならば菱形だが、一組の対角が船首と船尾のように、ビヨーンと長く引っ張られており、なんとなく「Oh,」と言ってそうだ。

大きさも結構ある。伸びた腕の端から端までの長さは、四十四、五センチはあるだろう。「盾」に使ってもいいかもしれない。

まさかパンだとは思いもよらなかった…なんてことはすっとぼけようもなく、パンでなくして何と言おうか・工房の近所一帯には、その匂いがムンムンと漂っているもんだ。

それにしても、パンに「なぜ」と疑問を投げたくなるなんて、――早々、オモシロいではないか。果たして何の都合があって、どういう意図あって「そのかたち」に落ち着いたのか。伸びた二つの腕の先端が、骨の関節のように丸くくびれているのは、そこを(引っ張ろうと)握った跡だろうが、それもまた木工品としての雰囲気が出ているようで、ヒマにまかせて意味ありげだと感じたくなってしまう。

…「十字架」、だろうか。

グルジア正教において崇拝される、聖ニノの十字架――ニノがキリスト教を伝道する際に持っていたという「葡萄の木」を模しているのか。それとも、国旗にあるグルジア守護聖人・ゲオルギウスのシンボル「赤いクロス」を表しているのか。

十字架にしては、その交わり部分にやや肉が付き過ぎであるが、まぁパン生地なんだから細かいことは勘弁してよ、というところだろう。落書きのような輪郭不細工の動物パンでも、「ウサギ」ならば子供が喜ぶかもと期待して買ってしまうもんである。

ともあれこの、「うーん」とどう形容するべしかと考え込んでしまう姿のパンは、「グルジアに来た」ことの念押しとばかりに、あっちこっちで目にすることが出来る。あっちこっち、ではあるけれども、手作りである以上、作り手によって微妙に異なる点がみられるのは当然であり、「伸び」がスマートだったり、逆に中央部分の肉付きがよく、よりアメーバ的に曖昧だったり。緩やかに反って「船」らしかったり。片方の引っ張りだけがスッと長く、より「十字架」を思わせるものもある。クセか、或いは意図的か・それらの個性は「誰が作った」ことを示すハンコのようなものでもあろうが、ともあれヘンテコなかたちであることの傾向は共通しているのだ。

これぞグルジアの典型。――なのに「形容し難い」とはあまりに失礼だろう。強いて、無理やりにも言葉を使って誠意を示せというならば、私は「菱形ビヨーン」と言い表そう。…成形する作業のイメージそのまんまだが、それが一番的を射ているというか、私の乏しい語彙力の中から探った精一杯、である。

 

グルジアの首都・トビリシ

 

パン屋と呼ぶよりは――「パン小屋」。

屋内のコンクリート壁は、ところどころ剥がれて黒い染みが垂れ、中の世界を数百年は遡ってもよさそうな雰囲気に仕立てている。大昔から建つ教会を訪れる時の、厳かで神聖な空気さえ感じられてくるような――と奥へと踏み入れば、監獄を思わせる鉄格子のはまった小さな窓と洞窟的な入口から漏れてくる、外界からの自然光をひそやかに受けた、そこにはひっそりとした空気が支配する、空間。ひとつ、裸電球がぶら下がっているが、部屋を明るくする気があるようなないような、ただまぁるいオレンジ色が、人魂のようにポウッと宙に浮いている。

十畳ほどの広さだ。盛り土を固めた「ミニ古墳」のようなパン焼き窯を中心に、作業台そして棚等々が、静止画のように陰影を描いているのは、「昔ながらの」という言葉を誘う雰囲気がある。

ここを教会に見立てるならば、「おやっさん」はさしずめ牧師さんというところだろうが、その薄暗い、小さな明かりが一つだけ灯る小さな工房の中でただ一人、古墳の前に立っている。

 なんとなく、「わかさぎ釣り」を思うシルエットで。

だが、かの釣竿よりははるかに長い、物干し竿といっていいほどの棒を片手一本ずつ握り、天井に向かって口を開く古墳の、噴火口のようにトップに開いた「穴」の中に差し込んでいる。二、三歩離れたこの位置からは奥まで見えないから、その傍にぴったりと立って覗き込んでみたいけれども、容易に近くのはキケン。棒が引き出されるタイミングは突然だ。その先端で腹でも突いてウっとなるのももちろんヤだが、集中力を途切れさせて漂う雰囲気となることの方がなんだかイタい。邪魔したくない。…ってまぁ、ここにいるというだけでだけで十分邪魔であり、「危ないんだけどなぁ…」と内心こちらに気を遣わせているという根本的な問題には気づかないフリをするが。

棒をジッと持ったまま、その先にあるものをじっと見下ろし「時」を待つ。ほんの数秒静止する、その姿にしっくりくるのは、やはり氷の穴に糸を垂れる「釣り人」。…だけれどもしかし、目が違うか。釣りにしても、魚が食いつく感触を逃すまいと、ボーっとしているようでも実は集中しているのだろうが、このビンビンと伝わる「気」の張りようはどうだろう。深い彫りの奥からギラつく眼差しの、そのエネルギーたるや。

剃ってあるつもりなのかもしれないが、角ばった顎と頬を取り囲む、くっきりした濃い髭のあと。そして白い作業着の隙間から垣間見える、もじゃもじゃした胸毛がまたよけいに貫禄を与えている、いかにも「職人」の気を漂わせたおやっさんであり、「気が散る。出て行け」とか怒鳴る姿が絵になるが、怒鳴りたくてもそのヒマもないか・今はダイジな「決め手」の瞬間である。

 

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「穴」の向こうに広がるのは、まさにおやっさんの「宇宙」。――「焼き上がり」を見極める。

このパン焼き窯は、ミニ古墳でも五右衛門風呂でももちろんなく「タンディル」と呼ばれる壺状の窯である。底で火を熾しており、薄く延ばした生地を上部の穴から差し入れたら、内部側面に貼り付けることでパンを焼き上げる。

外観・窯の外側表面は壁同様に黒ずみ、多少剥がれてはいるもののセメントで改めて塗られて凹凸はないが、内部は、底からの炎でその肌をオレンジ色に照らされながら、石レンガが組まれている模様が見える。それは長い長い歴史の積み重なりを物語っているようで、これひとつで山の如し的な、厳かな雰囲気を空間の中に漂わせている。

もっと覗いてみたい、と、頭せり出したいのはヤマヤマなんだけど、やっぱり何の役にも立たない単なる好奇心などで、近づくことは憚られてくる。

ちょっとやそっとじゃ入り込めない「職人技の世界」だ。恨めしいかな・パンが焼き上がり、そこから取り出されるという、まさにベストショットという瞬間であるほど尚更に――とか思っていたら、「カメラ、持ってないのか」。「ほら焼けるよ、みてみて」と、こちらにカメラを出して構えるよう要請し、おやっさん自身も両手に持った棒を構え直し、…それって「ポーズ」のつもりですね。

「そりゃ喜んで」とボタンはもちろん押そう。正直、どうせ撮るならその直前まであったはずの「立ち入るスキのない姿」が良かったなぁと、いかにも記念写真的にニカッと固めた笑顔の前に少々複雑な気分だが、それは贅沢というものかもしれない。ウェルカムと温かく迎えて貰えるだけで御の字なのだ。五十代半ばぐらいか、頑強なブロック塀などない、気さくなおやっさんなのだ。

 ミニ古墳。…じゃなくて、「タンディル」。

――深い。穴のある頂点は腰の高さほどだが、内部の底は、地表から更に、かなり深く掘ってあるように思える。思える、なんて曖昧なのは、その奥底をじっと凝視する前に「アツっ」と目を背けてしまい、いまひとつ確信できないのだが、おそらく。

底にある「火」は、チョロチョロと背丈同じく、輪に整列しているから「ガス」のようだ。欲を言えば、昨今の文明から離れた外観のように、「薪」の方が情緒あるってもんだが、それはまぁ、手を出さない人の勝手な物言いである。電気ガス等々「スイッチポン」で殆どのことが滞りなく済ませてしまう、現在の生活スタイルから離れて暮らしてみなさいと言われても、私にはそう簡単に「ハイ」と頷く勇気はない。ふと、昔の日本の台所ってこんな感じだったのだろうか、と思った。もちろん姿かたちは全く違うんだけど、竈はこのタンディルのように、空間の「主」として存在感を漂わせていたのだろう。

ともあれ。

窯に突っ込んだ二本の棒を、メスとピンセット(っていうのかしらないけど)を手にする手術中の外科医のように、カチャカチャと細かく動かし、そしてその腕を、グインと軽く後ずさりしながら、引く。と、片方の先っちょに現れたるは、堂々たる完成形。棒はまさに、その菱形部分のど真ん中を射抜いており、おやっさん合わせて「魚にモリを突いた図」という風にも映る。

そうして焼き上がったパンは、窯というものをこの場所に造る時「ついでに」と塗り固めて設たような、傍らのコンクリート台の上に、放られた。…と、また次が焼きあがる。焼きあがったら、また次が。

大漁である。

ひとつ現したら、それを皮切りに次から次へと引き上げられてゆく。

刺すことができるのは、その棒先に、弓矢の先っぽのような尖った金具がついているからだ。対してもう一方の棒の先は、彫刻刀の「平刀」のようにヘラ状なのが取り付けられている。吸盤でもあるかのように、内部のパンは不思議なほどしっかりと横壁に貼り付いているから、ヘラ状だと密着した部分に差し入れて剥がすのに都合がいいようだ。

クリクリっと意のままに動かしているように見えるが、繰り返すけどその棒とは物干し竿の大きさである。それを、中に貼り付けたパン・ひとつひとつを引き出す度に、出したり入れたりするのである。そりゃあ相当厄介であり、一度に五つぐらい串刺しして出したくもなろう(そうすると抜くのにかたちが崩れるか)。そして、…まぁ、火傷なんてとっくに慣れているしィ、の境地を過ぎてもう何年となるのか知れないが、とはいえ当然ながら熱いのだ。顔面を、熱が直撃しないよう反らせてはいるものの、でもちゃんと覗き込んで焼き具合を見る必要がある。私も時々うっかり、コンロの火でまつ毛を焼くが、…気を付けてね!

 

 

シャキーン、と背筋を張った表面の、まずは「ビヨーン」された先端部に力を入れると、バリン…とベニヤ板のように折れるも、内からはモッチリ、離れよか離れまいかと決めかねているらしい白い綿が、湯気をモワンと吹き上げる。…イイじゃないの。

ホワホワの気泡はえらく粗い。「粗い」といえばフランスパンの断面であり、ところどころに大きな気泡が散らばっているのがヨシ、とされるもんであるが、こちらはどこもかしこも粗いというか、シャチハタ印大の穴が、全体にびっちり蜂の巣のように埋まっている。

離れよ、と未練を断ち切るよう引きちぎり、その断面を鼻に押し付けて立ち昇る熱を実感すると同時に、気泡の奥のその向こうから、もじもじと何か言いたげな、籠った香りに気が付いた。それは太鼓の、表面を押さえて弾く、丸みある音のようでもある。

ひと齧り。ザクぅ…っとした「皮」の、その歯応えに唸る。

中もまた、大きな気泡だからフワンフワンかと思えばどっこい、モグモグするべき噛み応えがある。気泡の膜がしっかりしているのだろう。

「塩味」だ。それを特徴として紹介されるパンと言えば、これまた「フランスパン」が定番だが、しかしながらフランスパンが、そう言われれば気づく、という程度であるのに対し、こちらは予めことわってもらわなくとも、画用紙の上に落ちた黒ゴマを拾うように明らかだ。「菓子です」と開き直っているメロンパンの皮にも負けない、塩味としての自覚を本人(本パン?)もきっと持っている。

凹凸あるかたちのパンだから、部位によって熱の入り具合に差があり、食感が異なるのがまたオモシロイ。

「ビヨーン」の細い部分などはしっかりと焼き込まれて外皮が厚くなり、体操選手の着地姿のようにカッチリした歯触りが快感だし、「菱形」の中心寄りは、厚くフックラの弾力を楽しめる。ど真ん中はというと、四方から引っ張られる部分なだけに少々薄いのだが、周囲はフックラと防護されているから、「ビヨーン」された部位と比べて水分も保たれ、薄いにかかわらずしっとりとしている。

私はまた特に、「裏側」が好きだ。窯に張り付き、熱を最も受けてガッチリ焼き固められたという、そのザクぅ…と、登山靴で大地を踏みしめるような音にはゾクゾクと快感線が背を走る。

湯気はこちらの口に乗り移り、空中へと吹き上がる。唇が伸びてゆく。充実いっぱい、花咲く笑顔が自分でもわかる。…うまぁい…。この「時」を逃すまいと、夢中になって頬張る。

 

食べるだけのいい身分、という場違いな存在がある一方で、おやっさんは作業に勤しむ。次の窯入れだ。

成形台には、既に一つ分に計量・分割されたナマコ形の生地がねかせられている。フックリと、旨そうなサツマイモへと肥え、窯入れの時を待っているのだ。

一つを手元に引き寄せ、両掌で上からポンポンと空気を抜くよう広げて平たくしたならば、窯に生地を貼り付ける為の「専用の道具」に載せる。――というのは、イメージとしてはベビーパウダー用パフの巨大版、とでも言おうか。だが円形ではなく横長だから、なんというか、時代劇で「殿」が座る傍らの、腕をよりかける部分(腕置き?)を思い浮かべるようでもあるのだが、ともあれその、パフ的に少々こんもりしている面に生地を載せ、トドメの仕上げとしてはナマコの両端部を「ビヨーン」とほっぺを引っ張るようにつまんで引き伸ばす。同様、それとは直角方向に、もう一つの対角線をつくるよう少しだけ「ビヨーン」させる。この具合が、作り手の個性の出しどころだろう。

そして(パフ面の)裏に付いた、取っ手みたいな部分をとっかかりにして持ち上げ、窯の穴の中へ、おやっさんの片腕ごと差し入れる。

バフンっ!と勢いよく内壁に生地を押し付けたら、パフだけが穴から戻ってくる。そうしてまた成形台の生地ひとつを手に取って「ビヨーン」成形、貼り付けて…というのを、繰り返してゆく。

ひとつやってはまたひとつ。特に、窯入れは腰の運動がかなり激しいこととなろう。底近くの深い位置に貼り付ける、なんてときは、肩までどころか頭もその中にのめり込ませる勢いであり、かつ足元は地面から浮いている。深いんだなぁ…というか、落ちやしないかとヒヤヒヤするし、頭、焼けちゃうじゃないか。オデコ広く、少々ツルッとしているのはこのせいではないか、などとは余計なことだが、背の高いおやっさんでコレならば、小柄なヒトは大変だろう。155センチの私にとっても無理かもしれない…と思えば、おぉ、(私と)同じような背丈の女性たちだけでこなしている店も確かにあるから、これがこの地のパンのスタイルなのであり、体格がどうのは関係ない。作るったら作るのだ。「ソレ」を。

相当に粉にまみれているのだろうが、それを目立たせない、白いズボンと白いポロシャツ、白いエプロン。そして頭に巻いている頭巾も白。それは、おやっさんを具現しているようにも思う。抱えている苦労をやすやすとは表に出さず、何の労働にも帰依しない単なる見学人に対して、気前よくおおらかに応じてくれる白衣の「天使」――とは少々、見た目イカついけど。

                          (最終訪問時2013年)

 

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