主に、旅の炭水化物

各地、食風景の点描

ヘラを制す ~ディヤルバクル ④

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「トントン」おめかしされ、ドキドキとその時を待つ生地に、向かいからニョッと伸びてくる大きな腕――Fさんである。

眠っている子供を抱きかかえるように、両手を生地の下に差し入れて、台からさらってゆく。宙で生地が、だらんと素直にしだれるので、素早く「巨大ヘラ」の上へ。

「巨大ヘラ」と言うのはまさに見たまんま、鉄板焼き用のようなかたちであるからで、まぁ「しゃもじ」でもいいんだけれど、悟空が持つような柄の長い棒の先が、平たい板状になっている道具で、板の部分に生地を載せ、窯の中へと出し入れするものである。木製。

その上で、形を整えつつ生地を広げたら、柄を握り、赤み差す「窯の内部」へとススッと突っ込ませる。さあ、輝け。

横になった人ひとり入れるかどうか(CTみたいに)、という大きさの入口だ。…何かスースーする、と思うと、そうだ、「フタ」がない。もともと無い。入口の穴が開きっぱなしの窯である。

約二メートルの位置から見える窯内部は、石が敷き詰められた壁に、天井はドーム状。熱いから、首を突っ込んで凝視できないが、おそらく六畳…いや八畳。いやもっとあるだろうか。「秘密基地」を連想する、冒険心くすぐられるような空間にも見え、「いつか入ってみたい…」などと、オトナが見ていない隙を虎視眈々狙う子供がひとりやふたり、どこかにいそうだ。(アブナイから絶対にやめましょう。)S君あたり、バレて大目玉を食らったことがあるんじゃないか。

話を戻そう。「奥」へと突っ込んだら、サッとすぐに勢いをつけてヘラを引き、生地を窯の中に置き去りにする。つまり生地は、窯の床に「直に」触れて焼かれる(「直焼き」)。生地を載せる為の「天板」を使うことは無い。

熱源は、「薪」。

窯に向かうFさんのすぐ背後にある、窯口と同じ高さに設置された、焼けたパンが放り出される広い広い台の下は、薪の置き場所になっている。ついでにそこは子猫の隠れ家にもなっているのだが、「火が弱くなったな」と思ったらその都度、そこから一本か二本か抜き取って、入口から、窯内部のスミっこめがけてボンッと突っ込む。つまり、パチパチ火が燃えているその横で、生地が並べられ焼かれている、ということである。

一応は、炎が上がっている部分とパンを焼く部分は、一斗缶のようなもので仕切られているのだが、結構邪魔なのだろう、薪を放り込んだ際、ガンッと「仕切り」が倒れた音がして、もぅ…と、Fさんはそれ専用の長い棒をとりだし(パン用ヘラを使うと、ヘラが汚れてしまう)、エイエイ、とつついて直すことしばしば。

ちなみに、多くの、というか私としては「殆ど」といいたいぐらい、どのフルンでも薪は普通に使われているようで、電気のところはイスタンブールで見かけたぐらいだろうか。かつ話を聞くと、「薪でこそウマイ」という意識も存在するようであり、焼き鳥や焼き肉が、ヒーターやガスよりも炭火焼の方がなんとなくウマイ、というのと同じだろうか。

思うに、赤外線等のナントカ効果云々以前に、薪の、パチパチと踊る自然の炎の姿には、「生命」を感じる。窯の中で、それは意思を持って生地に魂を吹きこんでいるかのような臨場感があり、ガンバッて電気製品を開発している技術者には悪いけど、同じ「焼く」でも、そうやって出来上がったパンの方が、より、何か奥深いもの、奥深い味、奥深い香りを抱えている気がする…。

 

手ぶらで戻ってきたヘラの上に、再び、成形された生地を載せて――を、一つずつ繰り返す。

 成形しては、焼いてゆく。「成形台」が横付けされている所以である。つまりMさんとFさんは、ヘラと成形台を挟んで、向かい合って作業しているということだ。

成形できなきゃ焼けないから、窯係は常に「まだぁ?」と待ち状態にある…というわけでもなさそうで、Fさんが「生地を一枚抱き上げて、ヘラにのせて突っ込み終わる」までに、成形係・Mさんの手は、一・五~二個のペースで仕上げてゆく。止まることない流れはまさに、あ、うんの呼吸。待ちぼうける時とは、ちょっとくしゃみとか、ア、(薪置き場から)猫が出てきた、と顔を緩めたりして、Mさんがペースを十秒ぐらい止めたときぐらいだ。或いはこちらのカメラに気づいてポーズ取ってくれるとき。…あぁまた邪魔しているが、そのくらい、邪魔していいのかもしれない、とも思う。機械じゃないんだから…。

――余裕がない。焦って、という意味ではなく、無駄なものが何一つ入り込む余地がない。

「平焼きパン」は厚みがそれほどでもないから火通りが早く、小サイズだったら五分程度で焼きあがる。とはいえ途中、窯内部には熱の強いエリア弱いエリアがあるから、火通りを均一に、美しく焼き上げる為に、生地を一度取り出して方向を前後「逆」にしてまた戻したり、位置を移動させてやったり、という作業が必要になる。更に、台の下の、薪の収まっている中から「ミーミー」と子猫の鳴き声が聞こえると、エサ(パン)を放ってあげねばならないし、私がカメラを構えたらポーズして…と、イロイロお世話することがあって、モー大忙し極まれり。フタがないのもうなずけるというか、フタを開閉するヒマもない仕事量なのだ。フタが無くて、温度ってダイジョブなのだろうか、とも思ったもんだが、それが薪の炎の威力というモンなのだろう、きっと。電気とは違うのだ。

だがFさんの表情とは、穏やかだ。タレ目だから余計にそう見えてしまい、油断してつい気軽に話しかけてしまう。よくみりゃ鼻筋通った、…っていうかここの人たちって男女ともに彫りが深い鼻筋通りまくりの顔付きなのだが、俳優的なダンディーな雰囲気で、こっちはこっちでモテそうだ。突然「お父さんとお母さんはちゃんと元気で暮らしているのか」とか、「ひとりで困っていることは無いのか」とか、田舎のおじさんみたいなことをいきなり言うから尚更、疲れを心配するより先に、ただホロッときてしまう。

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 ――出るか。

「カラ」のヘラを、窯内部に深く、スッと素早く差し込んだら、スルスルと引き寄せる。と、その上に現れたるは、フックリと肥え、焦げ色まとった、それはパン。アッツアッツを、Fさんは素手で掴んだら、広い台の上にボンッと放り出す。と、電話帳とか漫画雑誌とかを投げつけたように、「バフンッ」と貫禄ある音がする。

芳香の正体はワタシ、という感動に酔っていられない。容赦なく次から次へ、ワタシワタシと放りだされ、台の上はごった返しておおわらわ。

  

ドタンバタンとヘラを取り替え、シュッシュッと出し入れする。

取り出してみても、「まだだな…」と、納得のゆく焼き色になかったら再び戻し入れ、私だったらありがちな「まぁいいか、」という妥協はない。パンを焼くのに、中途半端にはしない。

冬は、窯のそばに近づくとホンワカ温かく、気持ちまで落ち着いてくるようだが、夏は「ウッ…、」――ムワッと押し出されてくる熱気に、思わず息を止めてしまう。いくら湿気が無いとはいえ、夏は四十℃を越える「熱さ」のディヤルバクル。そんな中での「窯係」、しかもフタもないんだからこれはもう、比喩も何もなく炎の中に自分を晒しているのであり、いつ倒れたっておかしくないんじゃないか。私はモチロン見ているだけであって大きな声でいえないのだが、窯の近くにいると、めまいさえする。

それでも逃げない。当たり前だが、逃げたらパンが焦げてしまうのだから。最後まであい対し続ける。それが仕事だ。

軟弱者な私としてはスイマセン、心持ち離れてその姿を見守るのだが、しかしあまりに当たり前に窯と向き合っているFさんを見ていると、これを「スゴイわ」と珍しがる方が特殊、という気にさえなってくる。「窯の仕事」とはそういうもんだという覚悟など、朝飯前に済ませました、という余裕に呆気にとられる。

アツアツをものともせず、パンを放り投げる。投げる。また、投げる…。

窯入れとは、仕込みから始まった生地の総仕上げ。生地の背後には、妖精Nさんの、そして家庭人Mさんの、汗と涙染みた愛情がある。手塩にかけた子供たちを、見放すわけにはいかないのだ。

延々と続く作業の中、ムッッとくる熱にあっても見失わない、誠実、的確な仕事といい、ヘラの擦れる、キレのある音といい――「大きい」。がっしりと広い肩幅で長い棒を自在に操る姿は、まさにフルンの総元締めといっていい。

ミィ…っと撫で声を出す子猫とのコントラストもあってか、Fさんがとても大きく見える。

ヘラを振るい窯を制する、Fさんはまさにここの大黒柱。「かあっこいいぃぃぃ…」と、なす術なくヘナヘナと、こちらは心打たれてばっかりだ。

 

                          (最終訪問時2013年)

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成形演奏会 ~ ディヤルバクル③

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「窯」に隣接された、タタミ一枚程の成形用台の上には、手粉がたっぷりと振りまかれている。一見、おが屑を連想するその薄茶色は、「ふすま」のみなのだろう。つまり、小麦を小麦粉へと製粉する際に、白い粉となる胚乳から分離される「外皮」部分である。この粉末を数割混ぜ込んだ「全粒粉パン」などは日本でもお馴染であるが、それが、まるで砂丘の砂のように非常に細かく粉砕され、特に台の角っこ部分、好きなだけ使えとばかり盛られている。

Mさんは、奥の間から妖精Nさんによって放られた生地の一つを、片方の手のひらで上からペタっと押さえる、と同時に貼り付けて、そのまま持ち上げて自分の正面に連れてきた。おぉ、吸盤。

今度は両方の手のひら・それも小指側を少々立てるようにして生地を押さえると、そのまま中心から左右に「グイッ」と引っぱるよう、大きく広げる。感じとしては、ストッキングを履く前に、中に手を入れて広げる「グイッ」である。それを九十度回して、また同じように左右に「グイッ」。またまたもう一回ぐらい「グィッ」と、さらに伸ばす。

生地がべっちょりしているから、つまり水分多めに柔らかく仕込まれているからこそ、「伸ばし」もやり易いのだろう。…というか、「この為に」柔らかい生地である必要があるのでは、と気が付くのだが。

グイグイさせたら、結果、縦長の台形というか、「なんとなくダルマ」の形になっている。そうしたら、表面に模様付けをする。

まず傍らの洗面器の中に入った水にサッと手のひらを浸し、生地の表面全体を撫でて濡らす。これは手粉ならぬ「手水」である。

生地の縁部分は、伸ばし広げた際、手のひらのとっかかりというか、引っかかり部分となっていたから必然的に太い。その太い部分のふもとを、手のひらの側面(小指側)で、スッと線引くように跡をつけて、「縁」を明確にする。何を連想するかと言えば、「坊さん」。「合掌」の片手というか、お坊さんが念仏を唱える時の、空を切る手の動きっぽい。

それを、縁一周。これで、はしっこが太くなったのは成り行きで、という言い訳的な曖昧さは消え、「『敢えて』そう成形した」と明確に意思表示される格好となった。

この「額縁」をつくる場面は、「平型」を専門に焼くたいていのフルンで、わりあい丁寧にされているところをみると、芸能人は歯が命というような、押さえるべきポイントではないかと思われた。ラクガキのようだが、立派な「額」に入れてみたらマンザラでもない絵画など、シロウト的額縁一般論を思ったりもする。

「額縁」ができたら、次はその内側。

ダルマのど真ん中に、縦に一本の線をスッと描いたら、またそのど真ん中に、今度は親指以外の指先を、横一列に「トン」と押し付ける。と、つまり縦線と直角の「点線」ができる。

今度はそこを基準に、先ほど付けた額縁線との真ん中部分(全体では四分の一の部分)に、「トントン」と、生地に穴が開くぐらい、しっかりと跡をつける。ピアノを弾くように。

 

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額縁の中には、点線で仕切られた四角が出来た。二つ×四つの、全部で八つ。

これが一人分。…かどうかは知らないが、おそらく「一人でなんとか食い切るだろうサイズ」であり、このフルンでの「小」サイズ・生地三百グラムのものである。倍の六百グラムの生地には、四角が「五×三」の十五個となる。

 跡を付けておいた「額」のふもとにも、念押しのように、改めてもう一度「点線」を押しつける。これで、よし。

なんだか、タイルみたいだ。…タイルだろうか。イスラム教の礼拝堂・モスクには、芸術的なタイル装飾で知られているところが多々ある。それとの関係は?

ところでこの作業は模様付けというほかに、生地に跡を付けて空気を抜くことで、焼成による膨らみを防ぎ、平たい形を維持する為でもある。トントンしていない部分だけが(膨らんで)浮き上がり、結果ダウンジャケットの「モコモコ」のように焼きあがる。

ちなみにこの店には、あともう一種類、青空に靡く「幟」のような、長い長い平型パン、というのがある。この成形は、両手のひらをまさに吸盤にして生地に吸着させ、左右に目いっぱい引き伸ばせるだけ、ストレス発散とばかりに引き伸ばすもので、この場合「トントン」はしない。窯の中で、生地は熱によって膨張するものの、「ダルマ」とグラム数は同じだから当然生地は非常に薄く、膨張の形状を固定できずしぼんでしまう。そのしぼんだ跡が、かえって焼き上がりにたわみ、しなりを生み、まさに布のような感触をもたせるのが面白い。

とはいえそれは、仕込み全量の一割程にすぎない。圧倒的多数は「ダルマ・モコモコ」タイプであり、また、ディヤルバクルにおいてどこのフルンの平型も、同じスタイルで主流であることは、共通していた。

「一点入魂」とでもいうべき、指先トントン――これが、成形作業の「基本」。

生地の数は膨大で果てしないものの、成形係・Mさんのその視線は、どんな波の前にも揺れることなく、常にそこですっくに佇む灯台。冷静な面持ちで、トンと押すその「点」一つ一つと向きあっている。

「トントン」ぐらいできそうだ。ただ押してりゃいいのでは――なんて考えは、愚かだ。表面いっぱい、星空のように押しつけるとしても(またの機会に触れるが、そういうバージョンもある)よく見れば実は整然とした列が存在するようで、そこには「世界」が存在している。トントンしながら、今日はハンバーグが食べたい、などと考えて時間をやり過ごす余地などきっと無い、集中力の現れだ。

――三十半ば、といった感じか。長身に、白く長い前掛けがよく似合う。細身だから華奢なようにも映るが、この生地の波は、相当な持久力を保持していなければやりこなせるものではない。それは他のメンバーと同じだ。

そこそこオデコが寂しくなりかかっているこの人は、なんというか、非常にスマートな雰囲気がある。仕事中は、狼狽えたり焦ったりすることなどまるで知らないようなクールな表情に常にあり、その作業は手早くも丁寧、几帳面なところが、生地にちゃんと映し出されているのだ。ふと、戸棚の中も机の引き出しの中も、キチッと整理整頓する――そういう人が「成形」担当には向いているのかもな、と思った。(他のメンバーがそうじゃないわけではないだろうが。)食べ終わったお皿もそのまま放ったらかしにはせず、台所までちゃんと持っていくような気がする――ってさぁ知らないけれども、そんな姿が浮かんでくるのは、正直近づきにくい雰囲気があるんだけれども、思い切って話してみると、アラ意外と、であるからだ。いつもぶら下げられているよう感じていたカーテンはサッと消え、実は面倒見良さそうな爽やかな笑顔とともに、必ず反応してくれるのである。たぶんこういう感じは、モテてたろう…。

それはともかく。

考え無しのド素人(つまり私)が、「トントン」音だけ出してやってみたものとは、歴然とした差があるのはやってみる前から明らかであり、言わなくても分かり切っていることだが、だからこそ口に出してしまう、「…プロだわ。」の、ひとこと。

                              (最終訪問時2013年)

 

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トルファンのナン ~新彊ウイグル自治区

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「ナンに興味があります。」…ということを言いたげに、ジッと立っていた。

ハンチング帽をかぶって長身、その目鼻顔立ち…。誰にといえばもうこの人しか思い浮かばない、「いか○や長介」そっくりのおじさんは、タンドールの窯仕事に没頭していると思いきや、ちょっと近づこうと思った時点でもう、目をギロリとさせてこちらを睨んでいた。「仕事は見世物じゃねぇぞ」とかいうよりは、猫が獲物に気づいた、探るような目。ナン作りに見惚れています、などと説明したいのが、能天気に思えてくる。

まるでテリトリーに侵入してきた「不審者」である。その雰囲気に少々戸惑いながらも、中から出てきた年配の、おそらく奥さんに一枚買いたい旨を言うと、フン、と視線はすぐに手元に戻った。

…コワイ。けどべつに怒られる筋合いはない。ただソレを買おうとしているという、私はお客でしかないのである。

少々ムッとするのだが、通りに面した屋根のたもと、熱立ち昇るタンドルを前に黙々と仕事をこなす姿はカッチョイイ。タンドルとは、ドラム缶のような壺型の窯。生地を内部側面に貼りつけてナンを焼くのである。コンクリート製だろう、差し入れ口の穴がてっぺんにあり、そこに二本の、鉄筋のような長い棒を差し入れてクリクリ操り、銛のように円盤を貫いて、引き上げてゆく。またひとつ、またひとつ…と。

よく見てみよう。昔流行り、欲しくて欲しくて何度ねだったか知れない円盤投げ(の円盤)を想起させる、平板な丸型。縁はぐるっとフックラ厚みがあり、中心部分は薄い。表面に引っ付いているのはどうやら玉ねぎのみじん切りだ。

 それが、「ここ」のパン。 

このタイプ、中国の西域・新彊ウィグル自治区であちこちと見かける。パンはここでは「ナン」と呼ばれており、この他、鬼かというほどに硬い、ドーナツ型のパンもまた名物とばかりに目につくのだが、私にとって初ウイグルの地・このエリアの中でも北東部に位置する「トルファン」では圧倒的に、円盤型が多く目についた。作り手はもちろん、その地の居住民族であるウイグル人である。

平均的な大きさは直径三十センチはあろうか、食べ切るにはデカ過ぎるなぁと一瞬戸惑うのだけれども、バサァッと放られる「焼き立て」のスグもスグ、というのを見過ごすわけにはいかない。

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だが、ソレを一旦口に入れてしまうと――そんな心配などまるで無かったかのように、あれよあれよと千切り取ってしまうことの不思議。

端っこは厚みがあって、フンワリ、かつモッチリと弾力がある。一方、内側は、パリッとした歯ごたえと香ばしさが快感だ。そのコントラストが、もとは同じ生地にかかわらず別物に思わせ、食べていて面白い。

玉ねぎの、しかもみじん切りを散らしただけという、シンプルな具というのもいいもんだ。出しゃばらず、でも確実に、ナンにアクセントを添えている。具というよりも、調味料の役割に徹しているのだ。

「焼きたて」という現実に、さらにお幸せに頬が緩む。割った中から立ち上る湯気と香りが、食欲の歯止めというものを崩してゆく。

「一枚なんて食えるわけが…」とおののいたのは一体どこへいったのか。結局全部食いつくしてしまった。ウイグルに踏み込んでゆくにつれ、この地で「焼きたて」のパンに巡りあうのはさして難しいことではないとわかればもうタガが外れたも同然である。何を大きい、何を小さいと見做すかなんて「慣れ」であり、いつしか臆するということも忘れてゆく。そうやって胃は肥大化し、肉付きよくして帰国に至るという毎度のパターンに帰結するのであり、いま振り返ると、ここがこの旅「帰国後の五キロ増」のスタート地点だったのか、とも思う。

                           (最終訪問時2008年)

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仕込み(成形) ~サワンナケートのカオチー④

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「カオチー」を作るために最低限必要な材料とは、「小麦粉」、「塩」、「水」、そして酵母・即ち「イースト」であるが、それに加えて少々の副材料が添加されている。

だいたい作業人員のうち、年若い「新入り」がその役を担うことになっているらしい、この「仕込み」。生地の配合を覚えるだけでなく、材料が混ざってゆく様子を眺め、捏ねあがった時のその感触を把握する。それがどう発酵し、果てはどういう風に焼き上あがってゆくのか――その変化を一から眺めてお勉強するのにいいボジションだろう。

まずは材料を計量して、機械でミキシングする(生地を捏ねる)。

ミキサーは、モーターが回れば「ナルホドここに引っ掛けられたゴムが、ハネ(生地を捏ねる「腕」を担う部分)を動かすのだな」などと見て分かる、その仕組みが剥き出しになった古い機械であり、それにセットする専用容器の中へ材料を投入する。容器は大人の両腕でその円周を余裕で囲うことのできる、業務用と言うにはこじんまりした大きさだ。

「カオチー」を作るために最低限必要な材料とは、「小麦粉」、「塩」、「水」、そして酵母・即ち「イースト」である。

今回、三人のうちの末っ子・ヴァンさんにひっついて、この作業を眺めているのだけれども、――ヴァンさんに限らずいつも思うことには、「大雑把ですなぁ」と、正直。

粉は、錆びたボロッちい量りの上に、それが二十キロ入っていた「カラ」の袋を載せ、その中へとドサドサ煙を舞い上がらせながら入れてゆく。粉は一回の仕込みに付き、五キロ。…とはいえど、目盛を一応は見るのだが、(量りの)ハリの揺れが止まるのを待つことなく、「これで良し」とパッ取る。

生地を発酵させるモト「ドライ・イースト」や「塩」は、家庭科の授業のように「すりきり」などとやるわけではなく、まぁだいたいスプーンに大盛り、とかであって、おそらく毎回同じではなさそう。

「水」。その量もまた数値は失念したが…というか、量りにプラスチックの青いバケツを載せていたのを確かに見てはいたものの、十分の一ぐらい残して、全部を入れてしまわない。後から、ミキサーが動いている最中に「足りないかな?」と残りをチョロチョロ加えるのだが、それでも余る場合もあるし、それでは足らずに再び蛇口をひねる時もある。

まぁ、水量に関しては、「生地の状態を見て」調整するというのは、パン作りに置いては当たり前というか常識的なことであるからは納得するとしても、一応量りはするものの目安でしかない、という感じである。場当たり的というか、あまりに肩肘張らない計量を前にして「それでいいの?」と戸惑ってしまうのは、毎日、決まった時間に同一の味でもって焼き上げねばならない「日本のパン屋事情」を引きずっているからだろうか。

…「イースト」の量が違えば、発酵時間が変わってくる。発酵時間が違えば、生地状態も変わってくる。

「塩」は、味付けや、生地のコシを強くするだけでなく、イーストの働きを抑制する作用を持ち、つまりは生地の発酵にも影響を与える。 

つまり計量の「正確さ」は、これから進行してゆく生地の発酵状態を把握するため、一定の品質を維持するためにも必要なことだと言えるのだが、――なんて、うーむと唸れど、窯から出てきたカオチーたちは、シレッと「いつもの顔」をして焼き上がってくるのだ。…もしかすると計量なんてものは、神経になるほどのことでもないのだろうか、目盛りを焦がすほど凝視するなど無意味か、なんて思えてくるぐらいだ。いや、そうではなく――「感覚」で分からんようじゃあだめでしょ、か。いい加減に見えて、実はバッチリ「正確」なのだ。……とも正直どうかと思うが、まぁともあれ、毎日毎回、その流れに乗っかって動く人間の体に染み込んだ「カン」の世界の話であり、シロウトが、最初から目分量でテキトーにやったならば、大失敗で大後悔の事態は免れないだろう。

 

スイッチ・オン。

「ハネ」は、ぼんぼりの骨組のような、巨大ホイッパー(泡だて器)型。電源を入れると数秒の助走を経て、真下に取り付けられた容器の中を、勢いよくかき回し始めた。と、ヴァンさんは、ハネにつられて一緒に回ってしまう容器部分を、両手で押さえ、時には逆方向に回してやるなどしながら、中の材料がまんべんなく混ざってゆくように調整する。車のハンドルを握るようなその動きには、手慣れているなぁ感がある。

ヴァンさんと「ちゃんと」対面するのは、今回が初めてである。ここにやって来るのはもう何度目かだが、今までヴァンさんはおそらく、軒先や室内を駆け回っていたチビちゃんの群れのなかにあったのだろう。

かつてのワンさんとは違い、目が合ったら必ず照れ笑いで返してくれるこの末っ子君は、まるで中学生のように幼く見える。…って「末っ子」に限らないというか、そもそも「三人兄弟」というのはこの工房内の「いま」に限った話で、年をかえて訪れたその度に、「ドウモ」と初見の兄弟姉妹に出会っているような気がする。いや、兄弟かと思ったらこっちは従兄弟、そっちはその兄弟、甥、姪…など、「ドウモ」「ドウモ」といろんな親族が出入りしているし、いまひとつ世帯の区切り線がよくわからない。初めての時からいつ訪れてもステキでカッコいい屋台のお姉さんを筆頭に、この人たちはいったい何人兄弟姉妹であるのか、そして何世帯が一つの家に同居しているのか、把握できていないままだ。

ホアさん、ワンさんはこの仕事に腰を下ろす決心をしたのだろう、いつからか、ここに来れば必ず会える職人となったようだが、作業場に三人いるうちのひとり・たいてい最年少であるメンバーは、訪れる度に兄弟(親族)間で入れ替わっていた。どうやら、外で仕事を見つけて自立するまでのつなぎとして手伝っている、という感じである。

とはいえ、毎日のことだ。鍛えられたものである。仕込み、そして「天板ひっくり返し」さえも時々兄たちに替わってこなす様は、もう新入りなどという位置は通り過ぎ、もちろん「お手伝い」という言い方はもの足りず、立派な「片腕」としてその地位を確立しているようだ。職人として、外の世界に出たって君はダイジョブ、と肩を叩いて見送れるほどに。

それにしても、ミキサーの回転は相当なものであり、摩擦熱が心配になってくる程だ。フツウ、フランスパンってこんなに捏ねないよなぁ、と思うが、ここではこういうモンなのであり、そうやって生まれる個性を尊重すべし。「『フランスパン』とは~」なんて能書き垂れようとも、ここはラオス。ソレはラオスの「カオチー」なのである。

あっという間・五分かそこらでスイッチを切ってしまい、もう?と、その中を覗いてみると、…ウン。滑らかそうな、搗きたての餅を思うような生地となっている。

となれば、次に行われたるは生地の「分割」。つまり「パンひとつ」の大きさに生地を切り分ける。…って、アラ?

――そういやそうだった、ココ。

捏ね上げたら生地を寝かせて放置する、というのが「パン作り」一般であるが、ここでは、それをすっ飛ばしてさっさと「次」の行程に進んでしまう。酵母は温かい場所(三十~四十度)で活動が活発になるが、ミキサーの摩擦熱に加えて、この室内温度――何をしなくても汗が滴り落ちる炎天下の時間帯(現在午後三時過ぎ)に、メラメラと窯では炎が躍っている、なんていう世界だ。酵母は目をカッと開いて活動する気マンマンにあり、歩幅を緩めない着実なペースでもって、生地は遠慮なく発酵し続けていることだろう。もし日本の「パン作り」のレシピをコピーして渡し、忠実に寝かせる時間を割いてしまったなら、過発酵もいいところである。

 

ヴァンさんは、ミキサーの傍に置いてあったバケツの中の水を、手だけでなく肩から腕にかけてたっぷりと塗らすと、臼から餅を取り出すように、生地をうまく抱え出した。そのまま、一歩二歩ヨタッとしながら、距離としては三メートルほど離れた木製の作業台へ、投げ広げる。デーン、と。

重力のままにビヨーンと垂れ下がる生地にヒヤっとしながらも――ほぅ、パン生地を扱う時はいつでも粉(手粉)を振るもんだと思っていたが、水というのがまた「餅搗き」と被るようだ。

対して作業台は手粉にまみれ、木の継ぎ目やキズのある隙間に入りこんだのが、白い線を濃く浮き出している。その上で、手もまた真っ白くした兄たちが二人、カシャカシャとスケッパー(生地を分割するための道具)を持って、やってきた生地を切りとり始めるのだ。

「スケッパー」、…とはいえ、製菓用品売り場に引っ掛かっているような立派なものではなく、定期券よりもやや大きい程度の、やっぱり「工事現場でいらないやつを拾ったでしょ」と発想するほどひどく擦り減ったもの。その刃を、生地の上から押し付けてパックリと切り込み、同時に逆の手を添えて、その断面を台にこすりつけるようにしながら表面を張らせて「丸い形」に整える。それを台のスミに置いたら、また塊から一つ切って丸めて、と、どんどんと並べてゆく。

この時点で既に、「焼き上がった匂い」が漂っている。…ような、気がした。

「(一回に捏ねる生地から)、四十五個出来るよ。」

手を腰にまわし、ホアさんは言った。

粉が五キロで四十五個ということは、と、諸々を計算してゆくと、カオチー一つがおおよそ一つ二〇〇g。バターロールなどの「小型パン」が、一つ五十g前後だから、その四個分とすると…。エ…?私。毎度、一度に全部食ってしまっている…。

太るのも道理である。「当たり前」と思っていた自分の許容量がどんどんと変化を遂げてゆくのもまた、長い旅の醍醐味でもあり――…あんまり、というか全然嬉しくない。あとの苦労(ダイエット)がたまらんのだ。

 

~成形

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生地を全て丸め終えたら、――切ったり、丸たり、の行為で負担をかけたことを謝るかのように、生地を少々・十五~三十分ぐらい放置して休ませる。この小休憩を「ベンチタイム」という。

…んだけれども、それもやっぱりすっとばして、「成形」の過程に進む。

生地を見てみる。一番初めに丸めておいたヤツだ。――あぁ、あったまったぁ、と、風呂からあがるような、上気し緩んだ顔がそこにはある。そう、醗酵しているのだ。最後の生地を丸め終わる頃には、自然と生地はベンチタイム後の状態にある、ということだ。 

「カオチー」のスタンダードといえば、棒状の両端が少々すぼんだ、ほぼ「ナマコ形」。ドッチボールのように丸い形を見たことがないことも無いが、ほぼナマコで判を押している。それは、同じくフランス統治下にあった隣国・ベトナムカンボジア同様だ。大きさは処によってまちまちだが、長さ二十センチを切るほどに小型であることはそれほどなく、ある程度しっかり食べなさい、という大きさをしている。ひとサイズのみで売られているところもあるし、大・中・小とサイズを取り揃えているところもある。サワンナケートのココはというと、一本食べきりサイズの長さ約二十センチと、三十センチの二種類。小さい方は、そのまんまでももちろんだが、具を挟んで売るのに使う。大きい方は、食卓で切り分けオカズと共に召し上がれ…のつもりだろうか。だがコメ(餅米)を主食とし、まさにそれ(コメ)がバックバクと進むようなオカズ世界の中で、パンに適したものは果たしてどれかというのがいつもギモンなんだけれども、まぁ、その話はまたの機会に。

丸めておいた生地を一つ掴み取り、台にペチッペチッと三度ほど叩きつける。反動でビヨンと伸びたのを手前に折り、その閉じ目から向こう側へクルクルっと巻いたら、ナマコ型の出来上がり。――と、こう書くとなんとなく、落ち着いて階段を上っているような感じではあるが、実際、この作業は三秒ぐらいでこなされてしまう。「クルクル巻く」というか、もう、「スッ」と、息を吐くように一瞬であり、タップダンスの足取りのようにスキはない。何個もやるからこそモノにしたリズムだろう。

ホアさんがまたまた言うには、「一日に約三百個」。――ほぅ、と頷く。

 

成形したナマコは、タンス箱の中へ。

捏ね上げた直後はあえて寝かせる必要はなかったが、成形後は別である。窯の中に突入するその前に、安静な状態で醗酵してもらう。いわゆる「二次醗酵」というやつで、要するに最終打ち合わせというか、晴れ舞台までのウォーミングアップとでもいおうか、生地に、英気を養って膨らむ気マンマンの体勢を整えてもらうのだ。

成形台と同じく、くっ付き防止の手粉を真っ白に振りまかれた中に、生地の綴じ目(巻き終わり)が確実に「下」になるようにして、置く。これが最終的な「かたち」であるから、発酵した生地がくっついて変形してしまわないように、間隔をとることにも注意して並べてゆく。

当然、二箱目、三箱目…と積み重なってゆく。大丈夫大丈夫、このパン用タンスはスミっこに二十箱以上あるんだし。…と余裕こいていても、仕込み続けたこの先、全部詰まってしまうのである。

意味なく存在するものは、ここにはない。

 

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 みんなその辺に座ってひと休憩、さぁさお茶でも、とするなどして、――約四十分後。

重ねられた木箱をずらして中を覗いてみれば、一つ一つ、生地はぷっくり膨らみ、柔らかそうな感触が見ただけで伝わってくる。発酵前とは違い、「表情」がある。まるで桃色をした子供のほっぺただ――などと凝視していると、木箱の中、生地の周りを「アリ」がチョコマカ健気に這っていた。

と、アリをジッと見るこれまたついでにつくづく思うのだが、…なんとまぁ、年季の入った木箱であることだろう。

積み重ねて中を外気から遮断しているようでも、所々、朽ちて穴が開いており、だからアリでもクモでも入っていけるのだ。…いやそんなことよりも――「おそらく『いい酵母』が染み付いているのではないか」と想像力をかき立てられるようなボロさではないか。

田舎の叔母が保存食を置いている、母屋の奥にある古い「蔵」を思い出した。――そう、この工房を纏う空気は、あそこに似ている。中に充満する独特の匂いは、味噌、そしてその他漬物類が染み込んだ、空間まるごとが発する匂い。空間が味噌の風味を作り、味噌もまた空間を作る、という、継ぎ足し継ぎ足しされて何十年とかいうウナギのタレのような奥行きある、空間。

「発酵」とは原則、環境によるものである。古いチーズ工房には「菌」が住みついている、というのはよく挙げられる話で、つまり同じモノであっても、それが育つ場所により、異なる風味を備えてゆく。

かつて、自然界に浮遊する「菌」を頼りに、各作り手が酵母を培養して生地を醗酵させていたのが、科学的に人口製造物である「パン用酵母イースト)」の発明が為されてからは、その使用が広く当たり前となった。イーストの粒は一見、薬の類のようでピンとこないが、人工的といってもれっきとした酵母菌。ここが地球である限り、自然環境と関わりながら息をする。

要するに、カオチーの味に影響を及ぼす「ここだからこそ」の菌もきっと根っこをおろしているに違いない、ということだ。そう期待させる、木箱の朽ちよう――深い皺を刻み、悟りを開いた老人を思わせるその奥深さに、ホレボレするのである。

シロアリが住み着かないことを願うけれども、ともあれこうして、この笑顔ほころんだぷっくり生地は、大爆笑すべく窯へと連れてゆかれるのである。

 

                         (最終訪問2010年)

 

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「菱形ビヨーン」 ~グルジア・トビリシ

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目にした瞬間は、ただその姿かたちに心奪われ、漏れるのはただひとこと――「ナニアレ」。

平型タイプならば、円形や楕円。フックラした立体パンならば、ボール型にクッペ(コッペパン)型に、箱型(食パン)、筒形、ちょっと変わってリング型や編み込み、花型などアレコレとあるけれども、このようなかたちは初めてである。

アメーバ、みたい。

そのカーブした輪郭に思い浮かんだのは、遥か昔に理科の教科書で見て久しい、アレ。ほぅ、縁がないと忘れ去っていた名称でも、ふとしたきっかけで心の深層から浮かび上がってくるもんだと感心するが、とはいえ一応、それは一応、どれも規則的に揃った形ではある。しいて言うならば菱形だが、一組の対角が船首と船尾のように、ビヨーンと長く引っ張られており、なんとなく「Oh,」と言ってそうだ。

大きさも結構ある。伸びた腕の端から端までの長さは、四十四、五センチはあるだろう。「盾」に使ってもいいかもしれない。

まさかパンだとは思いもよらなかった…なんてことはすっとぼけようもなく、パンでなくして何と言おうか・工房の近所一帯には、その匂いがムンムンと漂っているもんだ。

それにしても、パンに「なぜ」と疑問を投げたくなるなんて、――早々、オモシロいではないか。果たして何の都合があって、どういう意図あって「そのかたち」に落ち着いたのか。伸びた二つの腕の先端が、骨の関節のように丸くくびれているのは、そこを(引っ張ろうと)握った跡だろうが、それもまた木工品としての雰囲気が出ているようで、ヒマにまかせて意味ありげだと感じたくなってしまう。

…「十字架」、だろうか。

グルジア正教において崇拝される、聖ニノの十字架――ニノがキリスト教を伝道する際に持っていたという「葡萄の木」を模しているのか。それとも、国旗にあるグルジア守護聖人・ゲオルギウスのシンボル「赤いクロス」を表しているのか。

十字架にしては、その交わり部分にやや肉が付き過ぎであるが、まぁパン生地なんだから細かいことは勘弁してよ、というところだろう。落書きのような輪郭不細工の動物パンでも、「ウサギ」ならば子供が喜ぶかもと期待して買ってしまうもんである。

ともあれこの、「うーん」とどう形容するべしかと考え込んでしまう姿のパンは、「グルジアに来た」ことの念押しとばかりに、あっちこっちで目にすることが出来る。あっちこっち、ではあるけれども、手作りである以上、作り手によって微妙に異なる点がみられるのは当然であり、「伸び」がスマートだったり、逆に中央部分の肉付きがよく、よりアメーバ的に曖昧だったり。緩やかに反って「船」らしかったり。片方の引っ張りだけがスッと長く、より「十字架」を思わせるものもある。クセか、或いは意図的か・それらの個性は「誰が作った」ことを示すハンコのようなものでもあろうが、ともあれヘンテコなかたちであることの傾向は共通しているのだ。

これぞグルジアの典型。――なのに「形容し難い」とはあまりに失礼だろう。強いて、無理やりにも言葉を使って誠意を示せというならば、私は「菱形ビヨーン」と言い表そう。…成形する作業のイメージそのまんまだが、それが一番的を射ているというか、私の乏しい語彙力の中から探った精一杯、である。

 

グルジアの首都・トビリシ

 

パン屋と呼ぶよりは――「パン小屋」。

屋内のコンクリート壁は、ところどころ剥がれて黒い染みが垂れ、中の世界を数百年は遡ってもよさそうな雰囲気に仕立てている。大昔から建つ教会を訪れる時の、厳かで神聖な空気さえ感じられてくるような――と奥へと踏み入れば、監獄を思わせる鉄格子のはまった小さな窓と洞窟的な入口から漏れてくる、外界からの自然光をひそやかに受けた、そこにはひっそりとした空気が支配する、空間。ひとつ、裸電球がぶら下がっているが、部屋を明るくする気があるようなないような、ただまぁるいオレンジ色が、人魂のようにポウッと宙に浮いている。

十畳ほどの広さだ。盛り土を固めた「ミニ古墳」のようなパン焼き窯を中心に、作業台そして棚等々が、静止画のように陰影を描いているのは、「昔ながらの」という言葉を誘う雰囲気がある。

ここを教会に見立てるならば、「おやっさん」はさしずめ牧師さんというところだろうが、その薄暗い、小さな明かりが一つだけ灯る小さな工房の中でただ一人、古墳の前に立っている。

 なんとなく、「わかさぎ釣り」を思うシルエットで。

だが、かの釣竿よりははるかに長い、物干し竿といっていいほどの棒を片手一本ずつ握り、天井に向かって口を開く古墳の、噴火口のようにトップに開いた「穴」の中に差し込んでいる。二、三歩離れたこの位置からは奥まで見えないから、その傍にぴったりと立って覗き込んでみたいけれども、容易に近くのはキケン。棒が引き出されるタイミングは突然だ。その先端で腹でも突いてウっとなるのももちろんヤだが、集中力を途切れさせて漂う雰囲気となることの方がなんだかイタい。邪魔したくない。…ってまぁ、ここにいるというだけでだけで十分邪魔であり、「危ないんだけどなぁ…」と内心こちらに気を遣わせているという根本的な問題には気づかないフリをするが。

棒をジッと持ったまま、その先にあるものをじっと見下ろし「時」を待つ。ほんの数秒静止する、その姿にしっくりくるのは、やはり氷の穴に糸を垂れる「釣り人」。…だけれどもしかし、目が違うか。釣りにしても、魚が食いつく感触を逃すまいと、ボーっとしているようでも実は集中しているのだろうが、このビンビンと伝わる「気」の張りようはどうだろう。深い彫りの奥からギラつく眼差しの、そのエネルギーたるや。

剃ってあるつもりなのかもしれないが、角ばった顎と頬を取り囲む、くっきりした濃い髭のあと。そして白い作業着の隙間から垣間見える、もじゃもじゃした胸毛がまたよけいに貫禄を与えている、いかにも「職人」の気を漂わせたおやっさんであり、「気が散る。出て行け」とか怒鳴る姿が絵になるが、怒鳴りたくてもそのヒマもないか・今はダイジな「決め手」の瞬間である。

 

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「穴」の向こうに広がるのは、まさにおやっさんの「宇宙」。――「焼き上がり」を見極める。

このパン焼き窯は、ミニ古墳でも五右衛門風呂でももちろんなく「タンディル」と呼ばれる壺状の窯である。底で火を熾しており、薄く延ばした生地を上部の穴から差し入れたら、内部側面に貼り付けることでパンを焼き上げる。

外観・窯の外側表面は壁同様に黒ずみ、多少剥がれてはいるもののセメントで改めて塗られて凹凸はないが、内部は、底からの炎でその肌をオレンジ色に照らされながら、石レンガが組まれている模様が見える。それは長い長い歴史の積み重なりを物語っているようで、これひとつで山の如し的な、厳かな雰囲気を空間の中に漂わせている。

もっと覗いてみたい、と、頭せり出したいのはヤマヤマなんだけど、やっぱり何の役にも立たない単なる好奇心などで、近づくことは憚られてくる。

ちょっとやそっとじゃ入り込めない「職人技の世界」だ。恨めしいかな・パンが焼き上がり、そこから取り出されるという、まさにベストショットという瞬間であるほど尚更に――とか思っていたら、「カメラ、持ってないのか」。「ほら焼けるよ、みてみて」と、こちらにカメラを出して構えるよう要請し、おやっさん自身も両手に持った棒を構え直し、…それって「ポーズ」のつもりですね。

「そりゃ喜んで」とボタンはもちろん押そう。正直、どうせ撮るならその直前まであったはずの「立ち入るスキのない姿」が良かったなぁと、いかにも記念写真的にニカッと固めた笑顔の前に少々複雑な気分だが、それは贅沢というものかもしれない。ウェルカムと温かく迎えて貰えるだけで御の字なのだ。五十代半ばぐらいか、頑強なブロック塀などない、気さくなおやっさんなのだ。

 ミニ古墳。…じゃなくて、「タンディル」。

――深い。穴のある頂点は腰の高さほどだが、内部の底は、地表から更に、かなり深く掘ってあるように思える。思える、なんて曖昧なのは、その奥底をじっと凝視する前に「アツっ」と目を背けてしまい、いまひとつ確信できないのだが、おそらく。

底にある「火」は、チョロチョロと背丈同じく、輪に整列しているから「ガス」のようだ。欲を言えば、昨今の文明から離れた外観のように、「薪」の方が情緒あるってもんだが、それはまぁ、手を出さない人の勝手な物言いである。電気ガス等々「スイッチポン」で殆どのことが滞りなく済ませてしまう、現在の生活スタイルから離れて暮らしてみなさいと言われても、私にはそう簡単に「ハイ」と頷く勇気はない。ふと、昔の日本の台所ってこんな感じだったのだろうか、と思った。もちろん姿かたちは全く違うんだけど、竈はこのタンディルのように、空間の「主」として存在感を漂わせていたのだろう。

ともあれ。

窯に突っ込んだ二本の棒を、メスとピンセット(っていうのかしらないけど)を手にする手術中の外科医のように、カチャカチャと細かく動かし、そしてその腕を、グインと軽く後ずさりしながら、引く。と、片方の先っちょに現れたるは、堂々たる完成形。棒はまさに、その菱形部分のど真ん中を射抜いており、おやっさん合わせて「魚にモリを突いた図」という風にも映る。

そうして焼き上がったパンは、窯というものをこの場所に造る時「ついでに」と塗り固めて設たような、傍らのコンクリート台の上に、放られた。…と、また次が焼きあがる。焼きあがったら、また次が。

大漁である。

ひとつ現したら、それを皮切りに次から次へと引き上げられてゆく。

刺すことができるのは、その棒先に、弓矢の先っぽのような尖った金具がついているからだ。対してもう一方の棒の先は、彫刻刀の「平刀」のようにヘラ状なのが取り付けられている。吸盤でもあるかのように、内部のパンは不思議なほどしっかりと横壁に貼り付いているから、ヘラ状だと密着した部分に差し入れて剥がすのに都合がいいようだ。

クリクリっと意のままに動かしているように見えるが、繰り返すけどその棒とは物干し竿の大きさである。それを、中に貼り付けたパン・ひとつひとつを引き出す度に、出したり入れたりするのである。そりゃあ相当厄介であり、一度に五つぐらい串刺しして出したくもなろう(そうすると抜くのにかたちが崩れるか)。そして、…まぁ、火傷なんてとっくに慣れているしィ、の境地を過ぎてもう何年となるのか知れないが、とはいえ当然ながら熱いのだ。顔面を、熱が直撃しないよう反らせてはいるものの、でもちゃんと覗き込んで焼き具合を見る必要がある。私も時々うっかり、コンロの火でまつ毛を焼くが、…気を付けてね!

 

 

シャキーン、と背筋を張った表面の、まずは「ビヨーン」された先端部に力を入れると、バリン…とベニヤ板のように折れるも、内からはモッチリ、離れよか離れまいかと決めかねているらしい白い綿が、湯気をモワンと吹き上げる。…イイじゃないの。

ホワホワの気泡はえらく粗い。「粗い」といえばフランスパンの断面であり、ところどころに大きな気泡が散らばっているのがヨシ、とされるもんであるが、こちらはどこもかしこも粗いというか、シャチハタ印大の穴が、全体にびっちり蜂の巣のように埋まっている。

離れよ、と未練を断ち切るよう引きちぎり、その断面を鼻に押し付けて立ち昇る熱を実感すると同時に、気泡の奥のその向こうから、もじもじと何か言いたげな、籠った香りに気が付いた。それは太鼓の、表面を押さえて弾く、丸みある音のようでもある。

ひと齧り。ザクぅ…っとした「皮」の、その歯応えに唸る。

中もまた、大きな気泡だからフワンフワンかと思えばどっこい、モグモグするべき噛み応えがある。気泡の膜がしっかりしているのだろう。

「塩味」だ。それを特徴として紹介されるパンと言えば、これまた「フランスパン」が定番だが、しかしながらフランスパンが、そう言われれば気づく、という程度であるのに対し、こちらは予めことわってもらわなくとも、画用紙の上に落ちた黒ゴマを拾うように明らかだ。「菓子です」と開き直っているメロンパンの皮にも負けない、塩味としての自覚を本人(本パン?)もきっと持っている。

凹凸あるかたちのパンだから、部位によって熱の入り具合に差があり、食感が異なるのがまたオモシロイ。

「ビヨーン」の細い部分などはしっかりと焼き込まれて外皮が厚くなり、体操選手の着地姿のようにカッチリした歯触りが快感だし、「菱形」の中心寄りは、厚くフックラの弾力を楽しめる。ど真ん中はというと、四方から引っ張られる部分なだけに少々薄いのだが、周囲はフックラと防護されているから、「ビヨーン」された部位と比べて水分も保たれ、薄いにかかわらずしっとりとしている。

私はまた特に、「裏側」が好きだ。窯に張り付き、熱を最も受けてガッチリ焼き固められたという、そのザクぅ…と、登山靴で大地を踏みしめるような音にはゾクゾクと快感線が背を走る。

湯気はこちらの口に乗り移り、空中へと吹き上がる。唇が伸びてゆく。充実いっぱい、花咲く笑顔が自分でもわかる。…うまぁい…。この「時」を逃すまいと、夢中になって頬張る。

 

食べるだけのいい身分、という場違いな存在がある一方で、おやっさんは作業に勤しむ。次の窯入れだ。

成形台には、既に一つ分に計量・分割されたナマコ形の生地がねかせられている。フックリと、旨そうなサツマイモへと肥え、窯入れの時を待っているのだ。

一つを手元に引き寄せ、両掌で上からポンポンと空気を抜くよう広げて平たくしたならば、窯に生地を貼り付ける為の「専用の道具」に載せる。――というのは、イメージとしてはベビーパウダー用パフの巨大版、とでも言おうか。だが円形ではなく横長だから、なんというか、時代劇で「殿」が座る傍らの、腕をよりかける部分(腕置き?)を思い浮かべるようでもあるのだが、ともあれその、パフ的に少々こんもりしている面に生地を載せ、トドメの仕上げとしてはナマコの両端部を「ビヨーン」とほっぺを引っ張るようにつまんで引き伸ばす。同様、それとは直角方向に、もう一つの対角線をつくるよう少しだけ「ビヨーン」させる。この具合が、作り手の個性の出しどころだろう。

そして(パフ面の)裏に付いた、取っ手みたいな部分をとっかかりにして持ち上げ、窯の穴の中へ、おやっさんの片腕ごと差し入れる。

バフンっ!と勢いよく内壁に生地を押し付けたら、パフだけが穴から戻ってくる。そうしてまた成形台の生地ひとつを手に取って「ビヨーン」成形、貼り付けて…というのを、繰り返してゆく。

ひとつやってはまたひとつ。特に、窯入れは腰の運動がかなり激しいこととなろう。底近くの深い位置に貼り付ける、なんてときは、肩までどころか頭もその中にのめり込ませる勢いであり、かつ足元は地面から浮いている。深いんだなぁ…というか、落ちやしないかとヒヤヒヤするし、頭、焼けちゃうじゃないか。オデコ広く、少々ツルッとしているのはこのせいではないか、などとは余計なことだが、背の高いおやっさんでコレならば、小柄なヒトは大変だろう。155センチの私にとっても無理かもしれない…と思えば、おぉ、(私と)同じような背丈の女性たちだけでこなしている店も確かにあるから、これがこの地のパンのスタイルなのであり、体格がどうのは関係ない。作るったら作るのだ。「ソレ」を。

相当に粉にまみれているのだろうが、それを目立たせない、白いズボンと白いポロシャツ、白いエプロン。そして頭に巻いている頭巾も白。それは、おやっさんを具現しているようにも思う。抱えている苦労をやすやすとは表に出さず、何の労働にも帰依しない単なる見学人に対して、気前よくおおらかに応じてくれる白衣の「天使」――とは少々、見た目イカついけど。

                          (最終訪問時2013年)

 

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サンギャク拝見~イラン・アルダービール

 

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まるで塗装職人。

ズボンもシャツも粉で真っ白で、作業の忙しさが思いやられるってものだろう。まぁ、そのための「作業着」なのだろうけど。

それにしても、それはホントに、そう目指されて設えられたもんなのか。壁に開いている「穴」とは、まるで解体工事のさなかに偶然開いたかのような、或いは、誰か短気を起こして、巨大ハンマーをぶんまわしてかち割った跡のような、ひび割れて出来た歪んだ三角形であり、その割れ目からボロ…っとカケラでも落ちてきそうだ。

だが、中へと覗き込んでみれば、奥では石レンガが整然とはまり込み、ドーム状に天井を描く空間が見える。美しい。見た目なんとなく歴史的であり、「九百年前から使われている」云々いわれても、違和感なく「ホゥ」と声を漏らすことだろう。

まごうかたなき「窯」なのである。ただ、その出し入れの為の入口が、水の滴る音を響かせる洞窟のように野趣があるのだ。縁には割れ石を晒し、亀裂も入っている。家の中をぶち壊してみたら遺跡を発掘しましたとでもいうような、人が在る屋内にしては突拍子ない感じで穴が開いており、「なにごとか」と少々ギョッとしてしまうのだ。

九百年の歴史はともかく、外観をキレイにしよう、という現代的な意気込みで、壁には一面に大理石模様のタイルがはめられてはいる。…のに、穴も幾何学的に整えようとは思わなかったのだろうか。

まぁ、その方が、天の岩戸じゃないけれど「いかにも凄いもんが出てきます」と、言わんばかりであって凄みがあるのかもしれないが。

 

確かにスゴイ――イランの薄焼きパン・「サンギャク」である。

もじゃもじゃの髪、髭ともに白髪が少々混じってはいるが、背中が曲がっているのは、生地をつかみ取るべく屈んでいるからで、「おじいさん」と呼ぶには少し早いか。

その傍らにはパン生地の塊が、タイル製の台に窪んだ穴の中に収まっていた。「穴」といってもこちらは割れ跡などではなく、洗面台の流しのように、直径三十センチ程度の穴が二つ、縁を「ちゃんと」くり抜かれている。それぞれの中でうずくまっている生地とは、まるで「餅」のよう――なんてことよりも正直、「これを洗うのってタイヘンなんじゃないか」とか思うほうが先だ。腰丈のタイル台は床に固定されたコンクリートの塊なのであり、それが直接の容器では、中を洗った後どうやって水を切るのか。その餅の奥底には、ちゃんと水を抜く栓はついているのかと気になる。

おじさんはその巣穴から生地を掴み、一つ分をくびりとる。手のひらよりも大きい、野球ボール三つ分はある塊だ。

それをパタパタと右手左手で受け渡しながら表面を張らせるも、「ちょっと多いかな」と思ったのだろう、ピッと端の部分からピンポン玉程度をつかみ取り、バチィッと餅に投げ戻した。秤は使わない。

生地自体はかなりドロドロとしているのが見ているだけで分かる。手にくっつかないよう、洗面器に入った水で腕をしっかりと濡らしているが、それだけではなく肝心なのはやはり手際のよさだろう。生地は手水を吸収してさらにベチョベチョ増長し、ちょっとの隙をついてエイリアンのように貼りついてくるのだから。

――なんて心配はしゃらくさい、さすが、ヒョイヒョイっと手馴れた動きだ。上手くまとめたら、窯の入口・真ん前に設えたシャベルの上に伸ばす。…いや「シャベル」じゃなくて、窯に出し入れする為の「ヘラ」であるが、先端の四角い「匙」部分の緩やかな曲がりといい、「柄」の取り付けられたその形といい、土木作業で使うアレのよう。ただその柄は物干し竿ほどに長いからして、「違うよ」なんて言われなくとも分かるんだけど、でも改造したのかな、ぐらいはよぎったりもする。

シャベル(じゃないけど)は床と水平に、匙部分がおじさんの腰丈よりチョイ上にくる高さまで浮いている。浮くのは支柱が二本、長い柄の両端部を物干し竿のように支えているからで、また、匙部分もクルッとひっくり回ってしまわないよう、窯入口付近に偶然のように突出した壁に添えている。

なんとなく、「あるものを工夫してやっている」的な設備にも映るのだが、もちろん支柱は物干し用のソレを利用しているわけでも、不要なシャベルを貰って再利用しているのでもなく、みんな公認の製パン道具だ。壁の突出部分も偶然じゃなくて「必要箇所です」と設計されたのに則って作ったんだもん、と施工者はムッとして言うだろう。が、そのようなしゃれっ気などない、いかにも工事現場然とした中では、生地のその「真っ白」は可愛らしいほどに引き立っているのだ。

「匙」は凸が上である。つかみ取った生地の塊をそのカーブに置いたら、横へ、縦へというように、指で押し広げてゆく。と、はねっ返りなく簡単に伸びてゆくようで、指跡を貰いながら潰されるがまま、生地はぺトぺトと匙に密着してゆく。手水を結構使っていることもあって、表面は艶っぽい。

心持ち、縦に(おじさんから見て)長く伸ばしたら、最後に手前先端をチョンと引っ張って主張させるのが仕上げらしい。頂点がダランと手前に垂れた、なんとなく逆・二等辺三角形となる。

もうひとり、同士がいる。

おじさんとシャベル(…としてしまおうではないか、もはや。)を挟んで立つ男性が、向こうの世界へと通じるその窓と正面から向き合い、槍を持つようにその「柄」を握り、浮かせる。垂れ下る「チョン」の部分を入口の縁にくっつけることもなく、奥へとスッと挿入する。

生地を伸ばし広げるおじさんに対し、こちらは焼きに徹する「窯係」だ。こちらのおじさんは――「おじさん」だろうか。いや、…ではない、だろう。

先入観だ。「髭率」低い日本で育った私としては、チョボ髭生やしている容貌を見ると、なんとなく年配のヒトに見做してしまうのだが、その髭を差し引いて、改めてちゃんと見ると、白髪もないし皺もない。生地使いのオジサンが少々痩せ気味なのに対し、こちらはもう少し余剰があるというか、筋肉質で肩幅が張り、動きにもエネルギー漲った「若者」の範疇に相応しい。おそらくは、二十代後半か三十はじめか。

二人とも半袖シャツである。冷たい風吹く屋外から入りこんだ瞬間は、その姿にカワイソウなんて思ったが、窯の熱によるやんわりした温もりがこの体にも巡ってきた頃、そりゃそうなろうよ、と納得されてくる。二人とも、校庭を駆けるサッカー部員達のように、シャツには汗が、その首筋、肩、背中部分に染みていた。

丸っこい目つき、鼻立ちが、二人ともよく似ている――そりゃもう、「親子」だろうて。

 

入口から向こう側は、橙に灯る別世界。熱が充満したなかで、底には川に転がっていそうな小石が敷き詰められており、サンギャクはその上に直接寝かせて焼き上げられる。――ほぅ、指跡だけにしては「ボコボコ」が過ぎると思ったが、このせいか。

閉める扉のない、開けっぱなし窯だ。つまりはそんなの必要ないぐらい熱してあるし、ということか。入口は宝口売り場の窓口二つ半程度でしかないから、近くに寄ってみてもその奥はよくは見えないものの、「ゴーっ」と吠える声からしておそらくその火元はガスに因る。隣国トルコのパン屋は薪が主流だが、さすが石油の国ということか・イランで見るパン窯は殆どがガスのようで、入口近辺にある調節ツマミで、炎を轟轟と吹かせたりひっこませたり、水道を捻るように内部の熱を調節しながら焼いていた。

 小石は緩い丘を作るほどに積まれており、その上に既に何枚かが体を広げている中へ、また一枚、仲間入りさせる。ともども、その姿は飛ばされて植え込みに引っ掛かった洗濯物のようで、間抜けだ。…とか、暫く突っ立ってボーっと見てしまいその自覚が飛ぶのだが、「邪魔」なのである。なにが、というと、「ワタシが」だ。

長い「柄」だから、出し入れの際に突き飛ばしてしまわないとも限らず、「すいません」とホントすまなそうに言う若旦那だ。イエイエ、そのセリフはまさにこちらが発するべきであり、「す、…スイマセン」。

一瞬躊躇しながらも、こちらも「日本語」で返したが、やっぱり空間が浮いたような、ヘンな感じがする。言葉が、場違いであることに気づいて恥ずかしがっているのだ。

「少しだけ話せます。」

――昔、日本で数年間働いていたのだという。日本語がとても懐かしい、と。

 

カラカラ…と乾いた音を鳴らす小石。

焼き上がったのか、「柄」を握り直して中へと差し入れ、寝ているのを引き寄せているようだ。

匙に載って出てくるかと思えば、入口近くまでソレを寄せただけで、シャベルだけをもとの干し場に戻した。アラ、まだ焼き足りなかったのか。―と、若旦那はその腕を、肩の根元までグッと、穴の中に突っ込んだのである。

「アツっ」と代わりにこちらが声を漏らしてしまうや否や、その手と共に現れ出でた「サンギャク」に、しばし目が点になった。

…こんなに、デカかったっけ。

――って初めて見る姿じゃないけれども、その変化に改めて気付かされたのである。窯入れ前は角型シャベルから少々はみ出る程度だったのが、倍以上になってやしないか。三角形の二辺が、えらくビヨーンと伸びたようだ。

石レンガを張った床には布が敷かれた「置き場」があり、そこへ焼き上がったのを放り投げると、小石もまた数個つられて飛び出し、コロコロと辺りへ転がった。

黄色がかったクリーム色の地に、ヒョウ柄――キツネ色、そして所々で強い黒点が散っている。

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…『一反もめん』。

いや「一反」はモチロン無いけれど、それでも一メートルはある。ヌッと現れるも厚みのない体、縁のゆらゆらした線が、布の「はためき」を思わせて、昔アニメで見た『鬼太郎』のなかのキャラクターが浮かんだ。

落下するのに「バサっ」と風を起こすのといい、連想するのは「パン」じゃあないのだ。

 

                             (最終訪問時2006年)

 

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お菓子の家へ ~キルギス・オシュ

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 これから、朝食。…のはずなんだが。

目がチカチカするというか、「ナゼ?」――クエスチョンが宙に飛ぶ。

朝食として、「パン」というのは、分かる。

お皿のような、いやお盆のようなパンが三枚重なり、薄いピンクに花模様を描いたテーブルクロスの上に載せられている。そしてその傍らにある、ラッパ型の湯飲み茶椀に入ったドロッとしたものとは、ソレに塗りつけるジャムの類だろう。奥底から艶々とした深紅と、ピーナッツバターかゴマペーストかのような、クリーム色のもの。

そこまではすんなりと。――だがなぜ、「お菓子」が?

可愛らしい小物たちで、テーブルの上はまるでイラストの世界だ。

ピンクや黄色、白、緑、金色銀色…の色華やかな包み紙で両端をギュッと捩じった、キャンディー或いはチョコレート。シワシワにへちゃげた、ボタン大の赤や白ぼけた粒は何かのドライフルーツだろう。チョンと、その絞り出された跡を描く、クッキー。琥珀色の、水晶のようなものは――砂糖の塊だろうか。

それらが数枚の皿に種類ごとに盛られ、パンを取り囲んでいるのだ。

これから子供たちのクリスマス会でも始まるような図である。その華やかさに目は輝くが、ソファに降ろす腰は、ソロソロとして戸惑っている。予期しなかった景色に、私ここに座っていいんでしょうか、と不安になるものの、「座れ座れ」とおばさんの手は上下に揺れて合図を送るから、そのままストンと落ち着いてみた。

 「ナゼ」。――って、これはお客・つまり私がいる為の「特別」だろうか。

と、さらに、平べったい、大きなお皿を抱えた少女が向こうからソロソロと近づいてくる。モワっと立ち上がる湯気が朝日に眩しい。皿はきっと熱いのだろう、詰まったテーブルに、更に並べようとゆっくりゆっくり屈んでゆくのに呼応して、おばさんはど真ん中にあったパンを端へと寄せる。娘さんだろう。歳は中学生ぐらい、一三か四といったところか。

シチュー、かな。

優しいクリーム色だ。なんとなく分かるような匂い。温かさが伝わってきて空腹感が増し、ノドも鳴る。

さあさあ、と、パンをちぎるように勧めるおじさん。いつの間にかもう飲み干していた紅茶を、おばさんは注ぎ足してくれた。

 

 キルギスタン南西部の街・オシュ。

中国・カシュガルから出発した国際バスは、雪の中、しかも崖山の道をえっちらおっちらと逞しく突き進み、トータル39時間で走破した。車内でジッとしているしかないとはいえ、不規則に揺れる車体に、谷底に転落するんじゃないかと窓の外をまともに見ることが出来ず、ヒヤヒヤしっぱなしで気分はヨレヨレ。だから到着直後は、深夜1時という時間帯とはいえ、トンネルを抜けて光を一身に浴びるような「救われた」感に覆われた。

とはいえ一応は「真夜中着」という事態。どうすっか、…と不安はしかし、車中にあった時から、旅をしているという私に「あら、ウチに泊まってきなさいよ」と声をかけてくれていたおばさんに甘えることで、即解決ということになった。休憩時間にはいつも手持ちのカバンからパンを取り出して「食べなさいよ」と周囲に配る、いかにも面倒見の良さそうなおばさんだった。やがてやってきた若者・息子さんの迎えの車へと共に乗り込み、三十分少々でお宅へと到着。中へと靴を脱ぎ、絨毯が敷かれた上を靴下で歩くという快感にほぅっとなりながら、ダイビングしたくなるフワフワのソファに寝床を用意してもらい、あっけないほど簡単に快適な場所へと辿り着いてしまったそのシアワセな展開に、狐にほっぺを預けたまま目を閉じた。

 

そして翌朝、「さあ、食事を。」――となったわけである。

おばさんは今起きたばかりですというような顔をしているが、果たして家族に、私に関する説明をちゃんと済ませてあるのだろうか。…とはいえいきなり知らない人がウチにいる、と、戸惑う様子もなく、二人のおじさん方は、唐草模様の絨毯を被せた椅子に早速腰かけるよう促すから、電話か、或いは息子さん経由で既に了解済みではあるのだろう。

その息子さんも、今しがたまで寝てました、というウットリした目で頭をかいて登場し、どうもと軽く笑いながらコの字型の角に座った。駆り出された夜中は帽子深く被り、かつ運転席だったからよく顔も分からなかったが、鼻筋と目がおばさんにそっくりだ。が、よりタレ目なのがお得にも優しそうな印象を与え、眠いからだろう、尚更である。

 家族としては、オジサンが二人。…のうち、どちらがおばさんの伴侶かなのかは、息子さんとも顔を見比べておそらく、と検討つく。もうひとりはおじいさん…というほどには二人の歳の開きは無さそうで、でも同居となると兄弟とかまぁとにかく親類なのだろう。どちらも率先してこちらに座れ座れと導き、面倒見の良さそうな笑顔をつくってくれる。

そして二十歳いくかいかないかの足になってくれた長身の兄と、それより三つぐらいは年下らしい弟君は、いかにも若者らしい、人見知りの感じだ。

初対面の人間が、突然家族の団らんに入り込んでいることの、違和感。――なんてことは眼中にないのか、「サ、ご飯」とスルスルとコトが進んでゆくという違和感に、あっけにとられてくる。

 そして、そんな「あっけ」などどこへやらへ飛んでゆく、テーブルの上のおかしな状況に目が点となる中、もう一人、家族の一員である細身の少女が、玄関のドアから光を背負って湯気を躍らせる巨大な皿と共に登場した。

その纏う神々しさが、「コレがメイン」と言っている。

 ――おぉ…。

テーブルの上を、まさにと占めた大皿ひとつ。その豪勢な感に、ため息を漏らした。

シチュー、か。少々黄色がかった白地の中に入る、赤い小片と薄い茶色のポツポツはおそらく人参と肉だろうが、お粥のような、ツブツブした何か謎のものが全体に渡っている。

これこそが「食事どき」の匂いだ。むぉん、と漂うのはいかにもオカズの、パンのお供として似つかわしい類。眠っていたとある神経を刺激し、とたんに腹が減って来た。

 分かれた髪の、肩までかかる髪のその先っぽが、クリンと上にカールしているのは天然か。皿を置いた少女はすぐさまスプーンをどこからか取って来て、五本、先の部分をその皿の縁に立てかけるよう放射状に置いた。

少女もまた椅子の端に腰かけて、目が合うと、唇をキュッとしめ、恥ずかしさ交えつつも笑みで応えてくれる。目鼻の整った顔立ちに、体形に沿ったシュッと細い黒ズボンに黒いカーデガン、返った襟の部分がヒョウ柄というシックな出で立ちが、まだ幼いながらにぴったりとくる。こりゃ美女でしょうなぁ将来、と楽しみだろうが、よく見ればやはり親子・今はぽっちゃり…を少々過ぎた「ボッチャリ」・おまけに皺を刻んだおばさんと同じ型なのであり、おばさんも若かりし頃は、評判を博するかなりの美人だったのではと見直されてくる。が、逆にいえば、油断が続けばこの路線・歩いているだけでその存在にハクをつける、十分な貫録を身に着けることになる。……まぁ、「それでよし」の基準など、人の数ほどあるもんだから、それもよかろう。

みんな揃って「さぁ、コレを」「食べて食べて」と勧めるのだが、どうやら「取り皿」は無い、ということを把握するまで二十秒ぐらいかかった。なかなかスプーンを手にしようとしないこちらの様子に、日本人はスプーンの使い方も知らんのか、なんて、内心呆れられたのかもしれない。

というのも、人数分足りんのじゃあ?と思ったからでもある。まぁともあれ、せかされるままにカレー用大のそれととりあえず一本手にして、落とさない無難な量をすくい取って口にした。

――見た目通り、想像通りの味だ。肉は鶏肉。そのダシとミルクの丸い優しさが、体内、スカスカと干からびていた部分に染み込み、頭も徐々に、クリーム色へと同化されてゆく。どこかに寝そべりたくなるような安堵感に覆われるようだ。

お粥のようなツブツブは、「ような」ではなくホントにそのままソレ・米を煮たなれの果てである。つまり「シチュー雑炊」とでもいえるもので、まさに、一日のスタートを言い渡すにはもってこいの、胃に優しいメニューだろう。その粘性の為に、スプーンから汁も垂れにくく、大皿から口まで運ぶ時の緊張もそれほどじゃない。

まだ寝足りなさそうだったおばさん・兄ちゃん両人も、起きぬけだからそれほど欲しくないんだよね、なんて顔はなく、神妙に咀嚼して活力を注入している。…って、そう。バスで中国から帰宅したおばさんは、さっきまで寝ていたのだから、これを用意したのは当然他の誰かのはずだろう。母親が今晩クラス会があるからとカレーを作り置いて出かけるように、まさか中国に出かける前に作っておいたわけではあるまい。さて、料理しそうな人はというと…?

と、「ホイ」と、多分お父さん、が千切り分けてくれたパンを、受け取る。この人だろうか。いやもしかすると――?

そのかけらだけ見ると、まるで丸パンの一部であったかのようだが、モトは平べったい円盤型。その、額縁のように特に厚くなった円周部分を頂いたようだ。

この地もまた、古くからのパン食地帯に属し、パンの外観とは、国境を越えてきた中国のウイグル自治区との繋がりを思わせるものだが、やはり「トコロ変われば」ではあろう。あちら(ウイグル)が円盤投げの円盤に近い、平べったい印象があるのに対し、こちらはもう少しフカフカと、猫用クッションのような柔らかさを想像する感じ。

新しいエリアに移動した実感をパンから教えてもらいながら、手にあるそれを更に一口分に千切り、齧ってみると、まずやってくる仄かな風味にフランスパンを連想した。噛んでゆくと、やはりそんなシンプルな甘さがある。

スプーンからして、自分の食器という限定がない。…のだけれどもしいて言うならば、各自、千切って手元に置く「パン」のかけらが、それに相当するといえるだろうか。まさに皿的に、スプーンから零しそうになるのを、或いは故意に落として受け、染み込ませて食んだりもする。パン食地帯でよくある光景であり、当然、パン屑がポロポロとクロスの上に散っているが、気にしなくていい。

ともあれ。

パンにシチュー。いやパンとご飯(雑炊)という、いってみればダブル炭水化物なんだけど、重いとか合わないとかの違和感はない。米は我らが見なすような主食としての位置には無く、すっかりこの汁物の具として取り込まれており、またトロミの演出を担っている。パンの相手として理想的なオカズに収まっているのだ。――なんて、まぁ調子こいて味云々言っているが、ホントならば荷物を背負い、宿なしの不安に苛まれながら新しい町を歩くはずだった時間だろう。狐にほっぺ、まことに幸運だと思うしかないのだが、だからってあとで何か困難が待ち構えていても、「今を思い出せば耐えられる」なんてプラス思考に迎え撃つ精神力はないから、そこのところ天国のおじいちゃんおばあちゃん、ヨロシク。

改めて、パンにシチュー――それは、いい。

そして湯呑に入ったジャム類も、「分かる」。

瓶に入っていないから、お手製なのかもしれない。木苺だろうか、しっかりした安心の甘味だ。そして並んでもう一種類の、ピーナッツクリームのようなもの――と思ったらそれは色だけで味は全然違い、甘味は確かにあるけど甘ったるくはなく、酸味もあるしどう言っていいのか分からない。てっきり「ピーナッツ」と思い込んでいただけに、原材料が全く頭に思い浮かばないものの、悪くはなく、木苺(かどうか知らんが)とは別方向の味で、飽きさせないのだ。「へぇ、」と珍しがりながらも、それが存在すること自体に疑問を挟むことはない。(後に市場でもよく売られていることに気付き、伝統的な類だろうと思われるのだが、正体を突き止めたいほどの情熱は無かったため結局正体不明)

――が、これらの周りをコビトのように取り囲んでいる「菓子」は、どのようにこのメニューの中に割り込ませればいいのだろう。

 

チョコを食べたそのあと口で、シチューを食べる、なんてことになってしまうではないか。いや、食後のデザートか。ならばオカズと共に、一斉に並べなくてもいいと思うが。

もしかすると食べるのではなく、単なる飾りなのではないか。シンドくっても目を覚ましたなら、「世界はイイモノで満ちている」と喜びを喚起させるべくの…。

というと、どうということもなく、それはもう「フツーに」である。

何もひねくることなく、パンを食べ、シチューを食べて、その合間にクッキーを口に放り込むのだ。

まるで漬物のように。或いは「口直し」に。パンを食べたその次に、チョコの包み紙を開いては、ポンッと口にいれるオジサン。そしてお茶をすすったなら、またシチューにスプーン突っ込んで…。

正直、「エ、」とは思った。「食後」と切り離すのではなく、オカズとお菓子を同じ場面でなんて、魑魅魍魎…とまではまぁ言わないけれども、二つの異次元を行ったり来たりではないか。不気味な事態を恐れて我が口は躊躇するものの、…まあ、考えてみればジャムだって「甘い」ものだ。けど違和感がないのは、それ(=パン)とセットとすることに慣れているからであり、そう、菓子パンだって同様。クリームだのアンコだの、そしてチョコレートだのと、古くからパン食文化圏にあるところの人たちさえ知らない、多種多様な「菓子パン」大国ともいえる日本からやってきて、何を言うか、というもんだろう。

だが、チョコパンやアンパンを、シチューに添えたりはしない。

チョコトリュフを、クッキーを食べる時とは、フツウはそれを目的にしている。お茶でも用意しての「オヤツ」の時間のことであり、それはれっきとした食事時間からは隔離されているもの――という固定概念があった。「ご飯が入らなくなるから、食べ過ぎちゃイケマセンっ」と諭されるような、それらとは、れっきとした食事とは対立する「敵同士」ともいえる関係にある、と。

だが両者が混在するという、母から怒られそうな光景がここにある。少女はクッキーを一枚や二枚、モグモグとしてからやっとパンを千切りはじめ、おばさんは、シチューをひとしきり堪能し終えたのか、ふぅ…と天井を仰いで「昨日は疲れたネェ…」などと多分呟いたのち、チョコの包みになにげに手を伸ばす。――べつに「今日の朝」が特別、という雰囲気は感じられない。

 お菓子を並べての食事、というのが、キルギス流なのか。それともこの家だけなのか。どっちでもいいが、到着早々のカルチャーショックであり、全くもってワクワクしてくる。

そして、注いでくれるお茶は、「紅茶」。

キルギス入国後、食事休憩で入った食堂でも、出されたのは「紅茶」だった。紅茶圏に入ったのだ。

 一つクッキーをつまみ、放り込んでみる。…お茶が、よく合う。…ウレシイ。オイシイ。

食事中なんだから、お茶を飲む。

お茶があるんだから、お菓子も置く。

――と、お茶との関係を連ねて、それらはあるのだろうか。

お菓子はやっぱ私にとっては「おやつ」であり、食事ドキにこんなもの食べちゃって、と違和感を捨てきれないものの、それでも「あの模様の包みのチョコがおいしい」。もう一個食べたいな、なんて思い始めて糸が切れたか、結局手が止まらなくなってしまった。だからってシチューから足が離れたかというとそうともならず、目の前にあれば「もう少し食べてみようかな」と、スプーンを伸ばし、すくってしまう。その、あっちつまみ、こっちつまみ、が楽しい。お菓子を食べたっていい。朝食は楽しくていいのだ。「甘い」と「オカズ」が口の中で不協和音を奏でると懸念する必要もなかった。後味など茶で流れてしまい、どういうことはないのだ。そう、要は、何事も慣れなのだ。

それにしても、もしかして――と訊いてみた。

皿を持って登場しただけでなく、お茶に追加するお湯を沸かす為に立ち上がったり、さらに別のチョコレートを持ってきたり…。みんながドシっと腰を据えたままの中で、アレもってきてコレもってきて、と、立ったり座ったり、家族に供する役割をひとり担っているのは、――この女の子。

 …この料理を作ったのは、あなたでしょうか。

うん。クッキーをパックリまた一つくわえながら、素っ気ない目と共に頷き、それが何か、とでも言わんばかりである。

                             (最終訪問時2008年)

 

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